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「新しい傷」の話。

聴覚障害関係の専門書を読むと、「聴覚障害は、コミュニケーション障害でもある」と、まるで聴覚障害がある側のみに生じる障害として語られている文章にであいます。まるで「聴覚障害がないことはコミュニケーション障害でもある」という事柄がないかのような語り方です。それは「コミュニケーション不全」に関する語りでも同様のことが言えます。

このような語り方は、読者に、聴覚障害当事者にはコミュニケーション障害/不全に陥り、聴覚障害がない者は陥らないかのようなまなざしを生成する可能性があります。現実は、聴覚障害がない者も聴覚障害当事者に伝えることができない、あるいは相手の発信を受信することができない事実も起きているにも関わらず、です。両者において等価性があるコトバとして考えねばならないでしょう。

ただし一方で、当事者研究の視点で考えれば、聴覚障害当事者の側で特に起こりうるものとして、コミュニケーションができなかった時にある種の「痛み」も伴っているはずです。これは、フランスの哲学者カトリーヌ・マラブーが提唱した「新しい傷」の概念に触発されたものです。

「新しい傷」について、社会学者の大澤真幸の解説を参考にすると、身体の傷は治療できるが、慢性疼痛のようにどこを診ても、原因もわからず、治らない傷がある。その時に癒す方法として、精神分析のように、それを意味づけ、物語化することで痛みを解消する。そうして解消できる痛みは「古いタイプの痛み」。しかしそれでも解消されない痛みを「新しい傷」だといいます。
この痛みを癒そうと自分なりに納得できるように物語の中に位置づけて整理してみても、癒すことができない肉体的、精神的な傷。しかも当事者にとっていつまでも外在性や疎遠性を保ち続けているリスクです。例えば、①外部から襲ってくる物理的な暴力 例)テロ、犯罪や強盗など。②アルツハイマーや脳血管障害などの脳の疾患。③非合理的で突然の社会的排除 例)倒産、解雇、いじめなど、が挙げられます。

聴覚障害当事者が「コミュニケーション障害/不全」の状況で伴う「痛み」も、「新しい傷」の一種であり、上記の例でいえば、③に相当するといえそうです。聴覚障害のない者は常に、悪意を持って起こしいるわけではなく、また何らかの合理的な理由があって起こしているわけではない。日常的な会話場面でのその状況は、当事者にとっておそらく非合理的で突然の社会的排除ともいえるものなのかもしれません。

その中で「聞こえないから仕方ないのだ」などとどんなに意味づけようとしても、同じような状況が起こるたびにやはり「痛み」を多少とも感じてしまう。聴覚障害当事者にとっては、いつどのようにして聴きとれないのかその原因がいつもわかるわけではない。しかも今後もまた、非合理的に突然排除されるリスクは外在性や疎遠性を保ってあり続けることも、重要な事柄として指摘できます。

前述した①~③の内容や規模と比べると、さほど大きなリスクではないように思われるかもしれません。それでも「コミュニケーション障害/不全」のコトバを使った語り方だけでは、聴覚障害当事者が当事者として感じる「痛み」のリアリティを感じ取ることは難しいようにも思います。

あえて語るとすれば、「コミュニケーションの非合理的で突然の社会的排除によって負い、しかも今後も負い続ける傷」ということになるでしょうか。このように「新しい傷」の概念には、聴覚障害当事者としての苦労の解明にもつながる部分があるのではないかと思っています。

このように専門家が用いるコトバを足がかりに、対人関係の中で当事者が体験している苦労のリアリティが見えるコトバ(当事者研究で言う「自己病名」に近いもの)というものをもっと探索していければと思います。