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私にとっての「図書室」。

以下の文章は、宮城教育大学附属図書館発行の学内雑誌(2006)に寄稿した拙稿を一部改変したものです。

 小・中学校時代の「図書室」は、紛れも無く私の精神的な孤独を癒し、ファンタジーや虚構などの世界から生きる意味を追求する姿勢を励ましてくれる場所でした。灰谷健次郎が青年期の孤独と葛藤を著した長編の「我利馬の船出」、スポーツ、恋愛、家族との関係で揺れ動く青年の青春を爽やかに書いた高橋三千綱の「九月の空」、自樺派の代表的な存在だった武者小路実篤が二人の青年の友情や愛憎劇を写実的に描いた「友情」と「愛と死」、ある大学生のアイデンティティを妙に印象に残る語りで書いた三田誠広の「僕って何」など。

 生まれつき重度の聴覚障害のある私は、小学校から高等学校まで地域の学校に通っていました。小学3年から6年間、差別やいじめ、教師の心無い対応に苛まされました。自分の悩みや弱さを打ち明けられる親友はおらず、他愛のない話題を負担なくじっくりと話せる相手さえもいませんでした。学校の会議やHR、級友の会話を目の前にしても、きこえない私には「そこで何がどのように起きているのか、その結果どのようなことがわかったのか」が全く見えてこないのです。そんな私がこの学校の世界で生きる意味は何だろうかと自問自答していました。そうした状況で対話の相手になってくれたのが、学校の「図書室」に蔵書された本たちです。

 本は、現実の世界ではきこえないがゆえに知ることができない物事を様々と教えてくれました。主人公が何らかの出来事によって自己を喪失し、他の登場人物や自分自身との対話を重ねながら紆余曲折し、アイデンティティを徐々に確立していく過程の物語は、私に今後の自分の存在意味やそれを考えることの意義・必要性について示唆してくれるものでした。また、私が主人公に投影することで、現実世界での苦悩や絶望から解放され、本の中で他者や集団との対話やつながりを仮想体験したり、現実世界は実は希望や夢があるんじゃないかと見直そうとしたりしました。

「図書室」での様々な本との対話は、現実の人々との対話ができない私が孤独に耐えながらも時々刻々と前向きに生きる意味を考えていけるように支えてくれたのだと思います。昼休みになれば、一人で「図書室」へ向かい、天井まで届きそうなほどに高い本棚が少しの埃をかぶってこんもりと並び、窓際に置かれた木製の椅子に座って本の世界に浸っていたものです。

「図書室」で読んだ本に共通するキーワードは、青年期・自己喪失・対話・存在意味の探求の4つでした。まさに、これは当時の私にとって切実なテーマだったといえます。

そして中学3年。いよいよ自分自身の存在意味がわからなくなった私は一大決心し、学校行事の弁論大会で級友や教師にきこえない自分の経験や思いを正直に打ち明け、障害のある者が聴者多数社会で生きることの意味を問いました。

その頃から、私と現実世界との関係が少しずつ、しかし大きく変わってきました。級友や教師が、現実世界で起きている様々な事柄を時には面白く伝えたり、会話や話し合いの内容を簡単ながら説明するなど配慮してくれるようになりました。現実の対話がようやく見えてきたのです。私の心は少しずつ癒され、本との対話で知った様々な事柄を現実世界でもそうなのか、級友との会話で確かめたり実践するようになりました。

やがて自分の孤独さを埋め合わせるために「図書室」へ足を運ぶ機会は徐々に減りました。

私と「図書館」の関係はもはや別のものに変わったのです。現実の人々との対話で見聞きしたことについて意味づけしたりそれを通して生成された自分の問題意識を深めたりするために、「図書室」に行って様々な学問の書を読むようになったのです。

本とのつながりの体験は人それぞれですが、子どもたちには、障害を理由に現実の世界に生きる人々との関係が遮断されることなくつながりあう体験ができ、「図書室」でも自分自身の思索や想像の旅を楽しんだり人を分かることの本質を探求したりすることができたらと思います。