見出し画像

「主体性」の幻想。

教育や保育の現場に行くと、「主体性」というコトバがまるで判子で押したように登場します。

でも、先生方に「主体性」って何ですか?と問うと、明確に説明できないことが多いのです。しかも先生一人ひとりが「これは主体的だ」とみなす子どもの活動の姿もまちまちなのです。

例えば、「人に言われないで自分から行うこと」。このように先生が期待して子どもがそのように行った時、「主体的だ」とみなせる。ただし、これは「支配・管理」との対立構造で考えているということができるでしょう。

しかし、それでは矛盾点が出てきます。例えば、いわゆる問題行動などを起こす子ども。その「問題行動」が、たとえ子ども自身が混乱したり動揺している状態から立て直すために、あるいは、私たちと同じように世界を探索するために「自分から行うこと」であっても、先生の期待するものでなければ「主体的だ」とはみなされないことになるでしょう。

結局はいずれも「支配・管理」のまなざしで子どもの行動を評価していることになるでしょう。

発達心理学者の鯨岡俊さんは警鐘を鳴らして言います。

大人は、子どもの様子をこっち側のものさしにかけた上で「主体的」であるとしたものを映し返すが、それが子どもに大きな影響を及ぼす。「主体的」とは、大人の評価的な枠組みと相互に関連することばである。(鯨岡,2006)

教育や保育は「人と人との係わり合いの場」であり、それゆえに先生一人ひとりの価値や認識の系(枠組み)抜きに「子どもとの係わり合い」がなされるということは決してないのです。

先生方が勇気をもって「主体性」に関する価値や認識の系を根本から問い直すことを実践しない限り、子どもの活動について無自覚的かつ一方的に評価することになるでしょう。「支配・管理」がダメだというのなら、じゃあ「放任」します、という問題ではないのです。

子どもも含めて私たちの「主体性」とは何かを捉えていくのなら、「人に言われて行っているものか、自分から行っているものか」とうわべで判断するのではなく、「その自分が行うことの本質をその行動の細やかな観察から考えること」が重要になると思います。

例えば、以前係わらせて頂いた脳性まひの男児のこと。

ある時、身体を器用に動かしてソファにのぼり、照明の紐を手に持って離す。それを何回も繰り返す。その行動が係わる人の関心・期待の対象でない場合は、なんとなく一人で遊んでいるだけとみなすでしょう。係わる人が自身の価値や期待から勉強などをしてほしいと思う場合は、勉強に関心を持ってもらうためにその行動をいかに終わらせようかなどと考えるでしょう。

しかし彼の一連の行動を細やかに観ていくと、回数を重ねるたびに行動が少しずつ変化していくことに気づかされます。1回目は胸の高さで紐の端っこを持って離してみる。視線は自分とは反対方向へ揺れる紐の動きに向けている。2回目は肩の高さまで持ってとばす。するともっと揺れる距離がのびる。3回目は身体全体を使って勢いよくとばす。次は壁にぶつかるほど遠くまでのびる。

つまり、彼は、紐の端っこをどのようにとばせば揺れる距離がのびるのかを探り確かめることで、自分の行動による外界の変化に対する認識を形成しているのでしょう。それが彼の行っていることの本質、ということになるかもしれません。もちろんその通りなのかは本人に確かめる必要があります。

しかしその行動こそ、まさに彼がその時その場でいかに生きているかということを現象しているのではないでしょうか。それが彼の主体性ではないかと。そして、その行動や認識がより深まるために私たちもどのようなお手伝いができるのか、「子どもとの係わり合い」を考えていくこともできます。

ただし、そのために私自身の意識に潜在する「行動」や「観察」などに関する価値や認識の系を問い直す必要があったことは言うまでもありません。教育や保育の現場でも、先生方とともに、こうして「主体性」の幻想から脱却して、人間を丁寧に深く理解するまなざしを共有していければと思います。