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生きる「意味」の話。

生きる意味は、なんとなく求めようと思って求めることができるものではない。それが欲しくてあちこち探し回って見つかるものでもない。むしろ生きる意味は、「限界状況」に自分自身を置いて初めて感じられることが多いように思います。

「限界状況」とは、哲学者カール・ヤスパースのことばを借りれば、人間が特定既存の知識や方法をもってしても逃れることのできない状況、です。

「夜と霧」を書いた精神科医ヴィクトール・E・フランクルもそうした「限界状況」で生きて、私たち人類にとって重要なことを見出しました。ドイツの強制収容所で体験した「限界状況」で、「意味への意志」こそが人間にとって根源的な意思であり、自分の人生をできるだけ意味のある人生にしたいという欲求である、と初めて確信したのです。

私の場合、フランクルが経験した過酷な場ではないのですが、例えば、小学校時代に、支援を求めても拒否され、授業などあらゆる場面で皆と深くつながることができず、もはや自分が持っている知識や方法では根本的な解決に結びつかずどうしようもなくなった時が「限界状況」といえるだろうと思います。

大学時代も、入学当初からやはり支援できないと言われ、障害児教育教員養成を担っていながら障害学生を支援しない矛盾を怒りとともに強く感じつつ、しかしそうした問題に誰一人取り組んだことがないためにどうしてよいかわからず先が見えなくなった時も「限界状況」でしょう。

その後も様々な「限界状況」に置かれ続けていますが、子どもの時から「限界状況」に置かれ続けてきたからなのか、普段から「生きる意味」を身体全体が自然と欲しており、それが「限界状況」で生きる原動力にもなっているのかもしれません。これがフランクルのいう「意味への意志」なのかもしれません。

もちろん「限界状況」で生じる孤独や苦悩はあまりにも耐えがたく、抗いたくなるけれど、それは「生きる意味」と隣り合わせにあるものともう身体全体がわかっているみたいなので、自然とこれは非常に意味があること(必要なこと)だと思って受け入られているように思います。

こうした「生きる意味」への探求を実践した結果として、様々な形で多少人々の役に立てるものとして残すことも幸い実現できています。例えば、前述したような支援の問題も含めて問題となっている事象をより良い状態にするための「アイデア/ビジョン」や「社会資源」を作って提供するとか。

個人的に探究した結果が人々の役に立つというのは、それはそれで有り難いことです。ただし、人の役に立てたという事実が確定できても、それで「生きる意味」を得たというわけではないでしょう。生きる意味は他者に求めて与えられるものではないですし、意味への意志も他者に左右されるものでもないからです。

むしろ、自分自身を「限界状況」に置いて、どのように考えて生きていくか自己内対話するなかで、自分の揺るぎないことばである事象(問題)に対する現時点の“答え”として「こういうことではないか」と語る実践が大事と思います。フランクルのいう「意味への意志」に基づいた実践ともいえるでしょう。

フランクルは、「限界状況」に置かれて、人間にとって最も根源的な意志とは何かをご自身の揺るぎないことばで語り続けることで「意味への意志」というものを創り出しました。

私は、そこまで深いところで語ることはまだできていませんが、「限界状況」に自ら身を置いて「生きる意味」を探求することは今後も絶えず実践し続けていくだろうと思いますし、その結果として「限界状況」に置かれても自分だけでなく関係する人々とを助けるための「何か」を見出すことができたら幸運なことです。