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「文章」にすることの話。

日本語で「文章」にするということは難しいものです。

どうしてそんなに難しいのでしょうか。これは、日本語として正しい文章を書けるかどうかということではないのです。

ここで、そもそも「文章」にするとはどういうことなのか考えてみます。劇作家であり、小説家でもある井上ひさしさんは、「文章」にすることについて大変わかりやすいことばで的確に説明しています。

「文章とは何か。これは、簡単です。作文の秘訣を一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけなんですね。いい文章とは何か、さんざん考えましたら、結局は自分にしか書けないことを、どんな人にでも読めるように書く。これに尽きるんですね。だからこそ、書いたものが面白いというのは、その人にしか起こってない、その人しか考えないこと、その人しか思いつかないことが、とても読みやすい文章で書いてある。だから、それがみんなの心を動かすわけです(井上, 2002)」

本当に深い内容です。自分もそんな文章が書けるようになりたいものです。

ただ、自分に起きたことを書きたいと思っても、ぴったりくる言葉(文章)が簡単に登場するわけではありません。そんな時は誰かの言葉の力を探したり借りてみたりすることが多いものです。引用なり参考なり。そこから自分にしか書けない言葉にしてみる。

しかし、そのような作業の過程には、やはり「さんざん考えましたら」というのがあるようです。ロシアの哲学者ミハイル・バフチンも、ちょっと難しい表現ですが、「文章」にすることの難しさを語っています。

「言語の中の言葉は、なかば他者の言葉である。それが〈自分の〉言葉となるのは、話者がその言葉の中に自分の志向とアクセントとを住まわせ、言葉を支配し、言葉を自己の意味と表現の志向性に吸収した時である。…言語とは他者の志向が容易にかつ自由に獲得しうる中性的な媒体ではない。そこにはあまねく他者の志向性が住みついている。言語を支配すること、それを自己の志向とアクセントに服従させること、それは困難かつ複雑な過程である。(バフチン, 1979)」

つまり、言語の中にある言葉はひとりで勝手に存在しているわけではない。言葉には、必ず誰かが表現しようとする力(他者の志向とアクセント)が先に入っている。言葉は誰かが作ったものなのですから。作れるのは偉い人や有名な人であるとは限りません。子どもも障害のある人も誰もが自分の志向やアクセントが入った言葉を作れることはあるのです。

もし誰かの言葉を見つけて、これはいい!と思い、それを使って、書いてみても何か胸にストンとしない。その誰かに書かせられているような気がする。あるいは誰という他者という舟に乗せられているような。決してその言葉がおかしいというわけではないけれど、自分の表現しようとする何か(自分の志向とアクセント)とどこかずれている。どこかぼんやりしている。

そんな感覚がつきまとっているとしたら、その言葉には、自分が表現したいと思っている何かがまだ住みついていないということになります。他者の表現したいと思っている力(他者の志向とアクセント)に引きこまれてしまったままでいるのかもしれません。

もしそれでもいいやと思って強引に進めてしまったら、まとまりのない雑な文章になるし、読みやすいものでもないのは目に見えています。その文章の表面だけを見て、文法的に正しいか、単語の用法が正しいか、そんな次元で考えるだけでは済ませられない問題なのです。残念ながら「正しく書く」という次元にとてもこだわる大人は多くいますが。

二人の指摘は、私が関心を持っていることばやコミュニケーションの諸問題(例.言語獲得・言語習得、言語指導・言語教育)に関して重要な示唆を提供してくれるものです(これについて別の機会に詳しく話したいと思います)。

さて、二人の指摘に関連して、私は「文章」にするために、いつも次のようなことをしています。特に特別な技法を使っているわけではなく、皆さんもやっているようなことかもしれません。

自分は何をいいたいのか。あることについてずっと考え続けたりとりあえず書き留める。書き留めた言葉はまだ荒く、独りよがりであるものが多いし、これは誰かがいっていることかもしれないと常に思うことにし、とにかく本を読み漁る。本との対話で出会った言葉や自分の頭の中に登場してきた言葉はとにかく書き留める。ただし登場してきた言葉や本の言葉に引っ張られたり安住しないようにする。自分は何をいいたいのかを考える位置に留める努力を続ける。そうして溜まってきた言葉たちが1つのストーリーになるように取捨選択してまとめる。どこか抜け落ちていると感じるところがあれば補う。こうしてできつつある言葉(文章)を見て、これがいいたかったんだと胸にストンと落ちるまでその作業を続ける。そうしてだんだんと「文章」といえるものにしていく。

ここで改めて「文章」にすることを改めて考えてみると、「他者の力が入ってしまっている言葉の沼を足掻きながら、自分にしか書けない言葉を追い求め、絞り出し、他者にも読みやすい言葉にしていく営み」になるのではないでしょうか。

だから「文章」を書くのが難しいし、かなりのエネルギーを消費するわけですね。しかし、だからこそ、自分にしか書けない言葉が見つかったときは、新しい自分に出会えたような喜びや達成感を味わえるものです。

そうしたことを分かり合い、実践に移していくような「輪」を広げていけたらいいなと思います。