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「ロールモデル/スティグマの対象」の話。

かつて聴覚障害児を持つ親や教育関係者の方々は、私のことを「聴覚口話法に失敗した人」「健聴者モデルに近づけられなかった人」と評価していました。また、学校教員の方々からも、当事者教員の早急の確保が必要であるなかで私はあえて大学院進学の道を選んだため、「聴覚障害のある子どもの気持ちがわからない人」「聴覚障害教育を真剣に考えていない人」などとご批判をいただきました。

しかし最近は、そうしたスティグマを張られることは少なくなり、むしろ成功例であるかのようにみなされることが多くなりました。かつて上記のように見なしてきた方々から、色々と教えて頂きたいとのご依頼がくるようになりました。

私が関心を持つ聴覚障害教育では身近な存在であるはずの他者から様々な「スティグマ(stiguma, 烙印)」を張られてきたのですが、後からなぜか「ロールモデル」とみなされるようになってしまったわけです。この不思議な体験は、私にとって非常に興味深い現象です。

そして、この現象は、経済学者ジョン・ガルブレイス著(1958)の「ゆたかな社会」にある次の論考と重なるような気がします。「暇と退屈の倫理学」という本で紹介されていたものです。

現代人は何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられてはじめて自分の欲望がはっきりするのだ。…供給が需要に先行している。いや、それどころか、供給側が需要を操作している、つまり、生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようにしている、と(原文引用)

原文にある「欲望」という表現には多少違和感がありますが、ともかく生産者が消費者の判断を左右させるパワーを持っていることがあるのではないか…ということを指摘したいのだろうと思います。

冒頭の「スティグマの対象」や「ロールモデル」も、ある意味、「聴覚障害教育」をめぐって強力に供給できるパワーを持った集団によって作り出されたものということがいえるのかもしれません。その集団の供給することばによって「ロールモデル/スティグマの対象」を作り出した人は、「ロールモデル」に相応しい「人」の需要を求めたり、「スティグマの対象」となる「人」は供給してはいけない対象とみなすでしょう。そして、そうした行為の根底にある、見えざるパワーについて自分自身が考究することを停滞してしまうことは、そのパワーの暴走につながりかねない危険性もはらんでいるかもしれません。

さて、現在も相変わらず「スティグマの対象」あるいは「ロールモデル」とみなされている私です。

こうしたパワーには一定の距離を置いて無関心であり続けるとともに、逆にむしろ何を考えることが大事なのか、本質的に議論すべき事柄をこちらから「問い」として投げかけることで皆さんが主体性を取り戻すきっかけを提供するように心がけています。

また、「ロールモデル」や「スティグマの対象」の扱いについても慎重に自分自身の見識も含めて考えねばならないでしょう。

これが、「ロールモデル/スティグマの対象」に対する私なりの対処です。