増川貴裕

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アーモンドチョコと彷徨う犬

 体の力を抜いて、少し前に傾いて、あとは、重力に任せてそのまま。  風のない夜、僕の体は水しぶきと共に大きな音を立ててプールの水面に落下した。  着ている服も、髪も、びしょ濡れだ。水面から顔を出し、空を仰ぐと、満月ではないがそれにかなり近い形の月の光は程よく眩しくて、気持ちが良かった。けど、思っていたより水は冷たくて、僕は身震いしながらすぐにプールから上がった。  月明かりは綺麗だし、せっかく忍び込んだんだから、もっとここを満喫しようとも思ったが、車は無防備にもこの小学校の校

    • アーモンドチョコと彷徨う犬(二)

       死人でも見るかのように皆が僕を目を丸くして見る。後で落ち着いて考えてみても、その現象がなぜ起こったかについて決定的な仮説は思い浮かばない。でも、同じ宴会担当の北内さんという小柄な年配女性に限っては、怒りを通り越しているというよくある表現が当て嵌まるんだと思う。何せ一週間以上無断欠勤した上に堂々と始業時間五時間遅れの出勤だ。チーフの坂口さんに関しては少し妙で、僕をまるでそこに居ないかのように振る舞った。透明人間になった気分で壁に貼られたシフト表を見ると、僕の欄が全て空白になっ

      • 結晶化

         古いガラパゴス携帯の画像フォルダの中に彼がいて、粗い画素数の画面の中で笑ってる。彼が好きだったThe xxのデビュー・アルバムを聴くと、いつもこの写真を見たくなる。ここに、帰りたくなる。  なんて後ろ向きなんだろうって、この行為をする度に思う。昔振った男の好きな音楽を聴いて、思い出して、ガラケーを取り出して、写真を見て、懐かしくなって、戻りたくなって、後悔する。この一連の流れを、年に二、三回は繰り返してる。  だめだなあ、私、なんて思ってるうちに、音楽は止まらなくて、あの曲

        • ロノミーの湖水(最終話)

           オオネコの背中に備わった呼吸器からの吸引が止んだ。ニルは、ちょっと、その穴を覗いてみようと目を凝らした。しかし、それは長い毛に隠れてよく見えなかった。  一思いに、飛び降りた。膝を曲げて、ニルはうまく着地した。  着地した途端、書斎の扉が開いた。メルが現れて、駆けつけた。メルは、瞳をきらきらと輝かせていた。 「お帰り!」  メルがそう言うと、ニルは、 「ただいま!」と、力強く、そして逞しく返事をした。 「ありがとう。メルがいなかったら、どうなっていたかわからない。本当に、頼

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        アーモンドチョコと彷徨う犬

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        • アーモンドチョコと彷徨う犬
          2本
        • ロノミーの湖水
          37本
        • 外出する狂気
          4本

        記事

          ロノミーの湖水(三十六)

           その物体は、加速も減速もすることなく、或いはその様子もなく、みるみるうちにニルと男のいる地点へ放物線を描きつつ近づいてきた。  近づくにつれ、まずその物体の巨大さがわかる。次第に、それが、猫の形をしていることがわかる。  男は、自覚することなく、ニルの首を絞める手を両手とも放していた。口を開けて呆気に取られる男は、その巨大な猫がついに二人のすぐ側に着地した途端、その振動と風圧で地に尻をつけた。  男による絞首から解放されたばかりで咳き込んでいるニルは、まだその巨大な猫に気づ

          ロノミーの湖水(三十六)

          ロノミーの湖水(三十五)

           その小屋は、当初、ブザの父でありニルとメルの祖父であるダズ・ユーテの道具部屋として建てられた。  メルが産まれる前、幼いニルは、父親のブザと母親のカムアと共に三人でブザの所属する軍隊の官舎に住んでいたが、メルの誕生をきっかけに、祖父ダズの提案で一軒家を建て、そこで二世帯が共に暮らすこととなった。  ダズはブザと同様、元々軍人だったが、四十歳の時に軍を退役し、手品や腹話術、漫談を生業とする、いわゆる芸人に転身した。退役する十年ほど前から、そういった芸を、何かの催し事に出演して

          ロノミーの湖水(三十五)

          ロノミーの湖水(三十四)

           茜色と呼ぶにはまだ色の浅い夕焼けが、木々の向こうに広がっている。その手前、ブロハニ一族が作った小道の奥には、何やら湖としか考えられない水域が、その夕焼けを反射していた。  しかし、この世界に帰還したニルはそれに見向きもせず、まず、ルヴォワの幻の死体をゆっくりと道の上に寝かせ、次に、道の脇の地面を思い切りジャガの杖で叩いた。ニューレイ荒野の時と同様、凄まじい音と共に大地が揺れ、その衝撃の反動でニルは高く宙に舞い上がった。そうして、女性一人を埋葬するには十分な窪みが出来上がった

          ロノミーの湖水(三十四)

          眠り薬

           約一時間後に飲んだ二錠目の睡眠薬がそろそろ効いてきて、頭の働きがやや鈍重に感じるようになった。ほんの少しだけ、歩くのが難しいし、あまり複雑に物事を考えられなくなっている。飼い猫のヤーは、さっきから部屋の照明と自らの小さな身体からできた影が気になるようで、それを捕まえようと必死になっている。  ダブルのベッドにはすでに妻が横たわっていて、睡眠を続けている。僕は彼女の隣に、身を縮めるように自らの身体を再び収納した。寝室には妻の希望で間接照明が暖色の光を放っているが、僕は、眠る時

          ロノミーの湖水(三十三)

          「うそ……。ニル君、私の首、触りたいって思ってくれてるの……?」  彼女は驚いた顔をして顔を赤らめていた。 「はい。触らせてくれますか?」  ニルは、彼女に対してそう答えつつも、決して彼女の瞳に焦点を合わせずにいた。彼女の目を見るふりをしながら、何もない空間を見つめていた。 「嬉しい……。いいよ、ニル君」  彼女は目を瞑り、自らの首を差し出すように顎を上げてそのままニルに委ねた。  圧倒的な躊躇。ニルは何もできずにただ脂汗を顔面に滲ませていた。自分は、今から、目の前のこの女性

          ロノミーの湖水(三十三)

          板垣退助の髭

           飼い猫にネコと名付け、飼い犬にイヌと名付けるような少し頭のおかしい友達からまた電話がかかってきた。曰く「今日のサバ缶は美味かった」そうだ。「何かあったの?」と聞くと、「は?」と言ってから「別にないよ、俺ニートだし」と彼は返答した。彼は毎日同じサバ缶を夕食に食べているそうだが、同じ商品なら、それそのものの美味しさに、今日も昨日も明日もないだろう。しかも何か嬉しいことがあったとか、何かに精を出して疲れていたとかいう背景もないのなら、それはただの気のせいだろうと僕は思ったのだが、

          板垣退助の髭

          ロノミーの湖水(三十二)

           ルヴォワの幻は、ニルが会った時と同じ服装を身に付け、同じ髪型をし、肌の日焼けの度合いも同じで、いつかの瞬間ニルの瞳が捕らえた左の二の腕に付いた擦り傷のような傷跡も、美しい顔に施された化粧の具合も、何もかもが全く同じだった。 「ロイ君……君は嘘をついているんだろう?」 「何の話?」 「今、僕の目の前にいる人、ルヴォワさんが偽物だなんて全く思えない。君は、ルヴォワさんをこの世界に連れてきたんじゃないか?」 「偽物だなんて一言も言ってないよ。君が見ているのは、偽物ではなく全てが完

          ロノミーの湖水(三十二)

          ロノミーの湖水(三十一)

           暗闇の中を手さぐりで進む。光源はどこにもない。闇は緩むことなく、ニルの全身を包んで離さない。その手に、その指に、あの舌の、あの吐息の主は触れないか。いや、そんなものよりむしろ、向かい合う岩壁のどちらかは触れないか。手や指に全神経が集中する。しかし、依然としてそこには何も感じない。  やがて、ニルの心に、恐怖とは異なる情緒が芽生え始めた。苛立ちである。  恐怖は僅かずつ減衰していた。一向に見えぬ光、空気以外に何も触れぬ手や指、舐めるだとか息を吹きかけるだとか、直接的な危害を加

          ロノミーの湖水(三十一)

          ロノミーの湖水(三十)

           燃え盛る炎に向かって突進するニルは、何も考えずに目前の炎だけを見ている。およそ、あと十秒足らずでニルはその炎に到達する距離にいるのだが、すでに、炎の熱が、ニルの皮膚に微かに届いている。 「ニル君、その炎は、こっちの世界の炎よりもいささか温度が高いんだ。気をつけてね」  ニルは、その言葉を聞いても怯まなかった。尤も、それは単にその熱さをうまく想像できなかったためとも言えるが、いずれにせよ、ニルは強い意志と覚悟をもって、その炎に向かい全力で走った。  炎は近くなる。もはや、相当

          ロノミーの湖水(三十)

          ロノミーの湖水(二十九)

           岩壁の起伏に、ニルの背中や脚や腕や胸や腹や背中や頭が衝突する。その衝撃で、ニルの体は様々な角度に向きながらひたすらに落下する。ニルの視界は目まぐるしく変化する。ニルは何も考えることができずに混乱したまま、ただ激しく叫んでいる。  そのようにして崖の下に向かい急降下するニルは、遂に地面に叩きつけられた。地面のその部分は窪み、多量の砂埃が巻き上がった。  砂埃は舞い散り、辺りを覆う。それが止んだ後、なんとニルは仰向けの状態から手をついて上体を起こした。  ニルの頭は、先ほどとは

          ロノミーの湖水(二十九)

          ロノミーの湖水(二十八)

           余地なく鬱蒼と生い茂る雑草を、手でかき分けたり足で踏み倒したりしながら前へ進むニルに対しその前方には、宙に浮かびながら楽々とニルを誘導し前進するロイの姿があった。  前に進む二人の間に言葉はなく、そこにはただニルの手や足などによって草が擦れ合う音以外、鳥のさえずりすら聞こえぬ静けさしかなかった。 「あの二本の木が良いかな……」  ロイは、空中で静止した。 「どれのこと?」  何のことかわからぬままそう尋ねるニルに対し、ロイは何も答えなかった。 「……うん。あれが妥当だろうな

          ロノミーの湖水(二十八)

          ロノミーの湖水(二十七)

           その者が側に来てから、ニルは不思議な安心感を得ていた。それは、側にいてさえくれれば誰でも良いという類のものではなく、その者が与える特有の安心感のようにニルには思えた。また、理由は何もわからないが、クルワセガニの毒の作用は消えていた。 「君は誰?」  ニルがその者に尋ねた。 「僕の名前を聞いているの?」  その者は、ニルの目を見ながら尋ね返した。 「うん」 「僕に名前はないよ。少なくとも、親から付けられた名前は何もないんだ」 「そうなんだ……」  ニルは、この目の前の者が、元

          ロノミーの湖水(二十七)