増川貴裕

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アーモンドチョコと彷徨う犬

 体の力を抜いて、少し前に傾いて、あとは、重力に任せてそのまま。  風のない夜、僕の体は水しぶきと共に大きな音を立ててプールの水面に落下した。  着ている服も、髪も、びしょ濡れだ。水面から顔を出し、空を仰ぐと、満月ではないがそれにかなり近い形の月の光は程よく眩しくて、気持ちが良かった。けど、思っていたより水は冷たくて、僕は身震いしながらすぐにプールから上がった。  月明かりは綺麗だし、せっかく忍び込んだんだから、もっとここを満喫しようとも思ったが、車は無防備にもこの小学校の校

    • アーモンドチョコと彷徨う犬(三)

       最近夢を見ない。人は眠るたびに必ず夢を見ていて、夢を見なかったというのはただ夢を見たことを忘れているだけなのだという説を見聞きしたことがある。でも僕には忘れたと思えない。思えないのは正に忘れたからなのかもしれないが、とにかく、目覚めた後の僕の頭に夢の記憶は欠片もない。  ところが、さっき、久しぶりに夢を見た。懐かしい顔だった。高校生の頃に僕が惚れていたクラスメイトの女子と、互いに半裸で抱き合った。性交には至らなかった。夢なので脈略のある経緯はなかったように記憶してるが、まず

      • アーモンドチョコと彷徨う犬(二)

         死人でも見るかのように皆が僕を目を丸くして見る。後で落ち着いて考えてみても、その現象がなぜ起こったかについて決定的な仮説は思い浮かばない。でも、同じ宴会担当の北内さんという小柄な年配女性に限っては、怒りを通り越しているというよくある表現が当て嵌まるんだと思う。何せ一週間以上無断欠勤した上に堂々と始業時間五時間遅れの出勤だ。チーフの坂口さんに関しては少し妙で、僕をまるでそこに居ないかのように振る舞った。透明人間になった気分で壁に貼られたシフト表を見ると、僕の欄が全て空白になっ

        • 結晶化

           古いガラパゴス携帯の画像フォルダの中に彼がいて、粗い画素数の画面の中で笑ってる。彼が好きだったThe xxのデビュー・アルバムを聴くと、いつもこの写真を見たくなる。ここに、帰りたくなる。  なんて後ろ向きなんだろうって、この行為をする度に思う。昔振った男の好きな音楽を聴いて、思い出して、ガラケーを取り出して、写真を見て、懐かしくなって、戻りたくなって、後悔する。この一連の流れを、年に二、三回は繰り返してる。  だめだなあ、私、なんて思ってるうちに、音楽は止まらなくて、あの曲

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        アーモンドチョコと彷徨う犬

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        • アーモンドチョコと彷徨う犬
          3本
        • 外出する狂気
          4本

        記事

          眠り薬

           約一時間後に飲んだ二錠目の睡眠薬がそろそろ効いてきて、頭の働きがやや鈍重に感じるようになった。ほんの少しだけ、歩くのが難しいし、あまり複雑に物事を考えられなくなっている。飼い猫のヤーは、さっきから部屋の照明と自らの小さな身体からできた影が気になるようで、それを捕まえようと必死になっている。  ダブルのベッドにはすでに妻が横たわっていて、睡眠を続けている。僕は彼女の隣に、身を縮めるように自らの身体を再び収納した。寝室には妻の希望で間接照明が暖色の光を放っているが、僕は、眠る時

          板垣退助の髭

           飼い猫にネコと名付け、飼い犬にイヌと名付けるような少し頭のおかしい友達からまた電話がかかってきた。曰く「今日のサバ缶は美味かった」そうだ。「何かあったの?」と聞くと、「は?」と言ってから「別にないよ、俺ニートだし」と彼は返答した。彼は毎日同じサバ缶を夕食に食べているそうだが、同じ商品なら、それそのものの美味しさに、今日も昨日も明日もないだろう。しかも何か嬉しいことがあったとか、何かに精を出して疲れていたとかいう背景もないのなら、それはただの気のせいだろうと僕は思ったのだが、

          板垣退助の髭

          応援したいスポーツ

           スポーツに対する興味や関心が乏しく、スポーツをしている選手や、応援している観客に対する感情移入や共感があまりできない。スポーツの試合の過程や結果に一喜一憂したり、素晴らしい技やプレイに感動できる人のことを、羨ましく思うことがある。  なぜ関心が乏しいのかと考えると、単純にスポーツをするのが苦手だからだと思う。コンプレックスの裏返しかもしれない。  幼い頃から運動神経が特別悪いわけではなかったが、球技など、道具を使ったスポーツや運動がとても下手だった。  幼稚園の頃、三点

          応援したいスポーツ

          外出する狂気(四)

           男性は、少し恐怖していた。目の前の、壁を背に座り込む彼が、男性の目に不審者としか映らなかったからだ。  話しかけても良いのだろうか。何か質問しても良いのだろうか。鍵がなかなか鍵穴に入らないことを装いながら、男性は躊躇し困惑した。靴もサンダルも履いていない目の前の不審者は、その顔もどことなく病的で、近寄り難い雰囲気がある。男性は彼に対する関心を胸の奥に押しとどめ、鍵を開け、黙って自分の部屋に入った。  一方で、彼の頭の中はというと、トモコが扉を開けて出てきた時のための言い訳を

          外出する狂気(四)

          道化の夜

           酩酊状態でわけもわからぬまま、マイクを握り、大袈裟で滑稽な動きをしながら大声で歌った。すぐ脇では、僕が吐き出した吐瀉物を店員の女性がモップや雑巾を使い掃除している。部屋の中央に立っている僕を、ソファに座りながら複数の友達が面白そうに眺めている。僕はその視線を心地よく感じながら、部屋の床にひざまずいた。間も無くして僕は、ひざまずくどころか、床にうつ伏せになった。誰かと誰かが、声をあげて笑った。僕はその笑い声を、心地良く思った。僕はそのまま、ほふく前進をして床を這った。モニター

          苦痛

           苦痛が始まる。それは精神的な苦しみではなく、ダイレクトな肉体の痛みだ。  僕が、これから味わう苦痛のことを思い憂鬱になっている一方で、妻は寧ろこれから妻自身が行う行為に対し、嬉々としている。わくわくしている。うきうきしている。  鼻の、角栓と呼ばれる老廃物を、ピンセットのような金属製の器具を用いて取り除くのだ。その行為は最初、それがどんなものなのかの説明がなされぬまま行われた。痛い。あまりに痛い。激痛に耐えかね、妻の膝枕に頭部を預けながら、何度も顔を背けた。もう止めるよう催

          外出する狂気(三)

           ここはアパートの二階にある一番端の部屋だ。階段からは十五メートル以上は離れている。それにもかかわらず、玄関の前にいた彼女は、彼の目の前から一瞬で消えた。  まさか飛び降りたのか? そう思って彼は鉄柵に身を乗り出したが、地面に敷かれた砂利の上に、彼女は倒れていなかった。  飛び降りたのではないかという答えは、この場合確かに当然だが、もちろん、そんなことが起こり得るのは、彼女が彼の幻覚であるためだ。だが彼からすれば、まるで彼女が幽霊か超能力者かイリュージョニストになったかのよう

          外出する狂気(三)

          ライブハウスの薄暗さ

           カタツムリの殻の回転に似た、途方も無い虚無感のうずまきを手のひらに掴みながら、岩見沢方面の列車を、棒立ちをしながら間抜けな顔で、ただ待った。  ホームで列車を待っている人たちは、皆、同じ顔をしているように見える。性別も年齢も、服装も髪型も関係ない。魂や意思のようなものが、抜けたような、すべてのことを他者にゆだねて、ぶら下がったような、心の中のあらゆるスイッチをオフにして、待機することだけに専念したような、僕と同じ、間の抜けた顔だ。他人だらけのこの場所に、中には気の合いそうな

          ライブハウスの薄暗さ

          外出する狂気(二)

          「どうしたんだい、珍しいな。いや、初めてかもしれないな」  彼女が彼の部屋を訪れるのはこれが初めてだった。彼は部屋の入り口に立つトモコに対して、微笑みながらそう言った。  だが、微笑む彼に対し、彼女の表情は不機嫌で、眉間にはしわができていた。そんな顔で彼の目をじっと見る彼女の口は何も語らず、どうやら彼に対し怒っているようだった。 「どうしたんだ、トモコ?」  困惑しながら彼がそう尋ねたが、彼女は依然として何も喋らなかった。彼女はしばらく黙った後、口を開き、 「サプライズ?」と

          外出する狂気(二)

          外出する狂気

           冬の凍えも、日々の労働の労苦も、賃金の少なさから来る貧しさも、その男は物ともしなかった。彼には愛する恋人がいたからだ。  今日も、仕事帰りの彼が運転する車の助手席には恋人のトモコがいた。キャメルを何本も吸いながら、窓を全開にし、彼の好きな音楽を大音量でかけた。 「ねえ、この曲、素敵」 「そうかい。これはアヴァランチーズっていうんだ」  彼女は、彼が音楽に強く聴き惚れながら運転していることを知っている。運転中のお喋りよりも、運転中の音楽鑑賞の方が好きだということを、彼女は知っ

          外出する狂気

          なめくじのように進むその時間の経過の遅さ

           凍え死ぬほどは寒くないし、欠伸をするほどは退屈じゃないが、とにかく、寒いし、退屈だ。  インナーを何枚も重ね着し、アウターすらも重ね着して、首にネックウォーマーを二つ着けてもなお、北海道の真冬の寒さからは完全には逃れられない。午前の八時からここに立っていて、あと三〇分ほどで正午になるが、僕が警備するこの地点に、車なんて一台も来ていない。僕は、早く休みたい、早く喫煙したい、早く昼飯を食いたいというそれらの衝動を、雪に覆われた真っ白な田畑に周囲を囲まれた車道の真ん中で、必死に抑

          なめくじのように進むその時間の経過の遅さ

          青い

               一  くたびれた顔をして、僕の車のドアを開けた彼女は、ため息をつきながら助手席のシートに座り、バックパックの中からペットボトルのお茶を取り出して、それを少し飲んだ。 「疲れた?」と僕が聞くと、「うん」と彼女は答えた。  二十二時の札幌の中心街は、喧騒と呼べる程ではないが、週末らしく、人が多くて賑やかだ。僕は、僕の隣に座る彼女の化粧が、その賑わいに、何だか似合ってる気がして、一人で密かにそれを喜んだ。 「キスは?」と言われ、僕は彼女の唇にキスをした。キスをした後、「