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結晶化

 古いガラパゴス携帯の画像フォルダの中に彼がいて、粗い画素数の画面の中で笑ってる。彼が好きだったThe xxのデビュー・アルバムを聴くと、いつもこの写真を見たくなる。ここに、帰りたくなる。
 なんて後ろ向きなんだろうって、この行為をする度に思う。昔振った男の好きな音楽を聴いて、思い出して、ガラケーを取り出して、写真を見て、懐かしくなって、戻りたくなって、後悔する。この一連の流れを、年に二、三回は繰り返してる。
 だめだなあ、私、なんて思ってるうちに、音楽は止まらなくて、あの曲が始まって、男女がデュオで歌ってて、その曲を聴いてまた、彼との記憶が自動的に頭の中で蘇る。
「カラオケ行った時これ歌おうよ」って彼が言って、私は、「えぇ、私洋楽歌えないよ」って彼に言って、実際にカラオケ行った時、その曲なくて、私はほっとしたんだけど、彼は、あとで、「耳コピしたんだ」って、アコースティックギターで弾いて見せて、私は呆れながらも、そこまでするならって思って、「じゃあ、私、練習するから、CD貸して」って言ったら、「俺はパソコンにデータ入れてあるから、あげるよ」って言って、プレゼントしてくれた。
 結局、一緒に歌わないまま、別れた。そのCDは今ここで回転してる。
「Crystalised」って曲。タイトルの意味は、「結晶化」らしい。彼がくれたCDは輸入盤だったから、歌詞の和訳はネットを頼った。
 一つだけ、この曲の和訳を紹介してるサイトを見つけて、それを読んだ。最初、意味がさっぱりわからなくて困惑したけど、何度も読んでるうちに、私なりの解釈が作られていった。
 別に、そんな大層なものじゃないし、ただ自分の体験をこの歌に投影してるだけかも知れないけど、これはきっと、すれ違う男女の恋愛を歌った歌。男に期待し過ぎて、自分の理想を押し付ける女と、それに疲れてしまう男。あの頃の私と彼の関係に似てる。違うのは、この曲で振ったのはおそらく男の方ってことと、二人がよりを戻すこと。
 最初の男性パートで、こう歌われてる。
「そして君は信仰を持った/僕が楽園を持ってきてくれると」
 この歌詞みたいに、私は彼が、絶対的な幸せを私にくれることを求めてたのかもしれない。そしてそれは、楽園のように理想的で、楽園のように決して存在しない。
 そんなもの、くれなくたって、彼の優しさと痩せた体さえあれば、それで良かったのかも知れない。心臓で直接感じるあの優しさが懐かしい。あの肋骨に、肉を隔ててまた触れたい。
 そんなことを思って、いよいよやばいな私、と危機感を覚えるけど、それでも音楽を消したりはしなかった。
 音楽は、淡々としていて、陰鬱。男女二人の歌声は、囁きのようであり、どこか気怠げで、悲しい。なのに、この音楽の奥の方には、何かが高い熱量で発熱している。
 本当に、彼らしい音楽だと思う。無口で、何考えてるかわからなくて、ちょっと変わり者で、でも信念みたいなものを心の中に潜めてる。
 この曲を聴いてる間は、騙し絵の四角い階段を延々と歩いてるような感覚に陥る。出口も入り口も目的地もないし、下ってるのか昇ってるのかすらわからない。目的地があるとすれば、それは彼がいた場所。でも、この騙し絵の中に彼はいない。ただの私の思い出の痕跡が所々にあるだけ。
 もう、こんなことやめよう。そんな衝動が私の中に生まれるけど、この行為は、ぬるま湯に浸かってるみたいに心地良くて、私はバスタブの中から出られない。
 音楽は決して止まらず、淡々とした曲調で進行する。バスタブの中にいる私は、だんだん溺れそうになってゆく。
 そして、あのフレーズが始まる。私はその歌に合わせて、つぶやくような小さい声で歌った。

Glaciers have melted to the sea
氷河は海へ溶けてしまったわ
I wish the tide would take me over
潮の流れが私を連れて行ってくれないかしら
I've been down on my knees
私はひざまずいていた  

 氷河は、手に負えないほど肥大化した私の彼に対する不満。それはもうとっくに溶けてなくなった。潮の流れに連れて行ってほしい場所はもちろん彼のいる場所。彼の隣。彼の横たわるベッド。それが叶うなら、私はひざまずくことも躊躇わない。それは、彼にというより、神様に。
 歌い終わった後、私は涙を流していた。ほんの一粒の微小な涙が、目から頬へ、頬から唇の端へ伝って、降下した。それは、結晶化した私の寂しさや後悔や悲しさの群が、再び液体化したかのようだった。
「今は歌えるんだよ」
 私は画面の中の彼に囁いた。言い終えた瞬間、頭の中がぞっとするような感覚がして、完全に陶酔から醒めて我に返った私は、すぐに画面を終了し、携帯電話をぱたんと閉じて、元の棚に戻した。
 涙を拭いた後、音楽を消そうと思った。けど、なぜか私にはそれが出来なかった。 

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