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アーモンドチョコと彷徨う犬

 体の力を抜いて、少し前に傾いて、あとは、重力に任せてそのまま。
 風のない夜、僕の体は水しぶきと共に大きな音を立ててプールの水面に落下した。
 着ている服も、髪も、びしょ濡れだ。水面から顔を出し、空を仰ぐと、満月ではないがそれにかなり近い形の月の光は程よく眩しくて、気持ちが良かった。けど、思っていたより水は冷たくて、僕は身震いしながらすぐにプールから上がった。
 月明かりは綺麗だし、せっかく忍び込んだんだから、もっとここを満喫しようとも思ったが、車は無防備にもこの小学校の校門のすぐ近くに駐めてしまったし、誰かがここに来てもヤバいので、Tシャツとジーンズを脱いで雑巾のように絞ったら、それらを再び着て、サンダルを履き、さっさと車に戻った。

 十五年以上前に製造された古い軽自動車のエンジンをかけると、時間差で車内に途中から流れるのは、ゆらゆら帝国のアルバム『ミーのカー』収録の、「アーモンドのチョコレート」だ。シンプルなギターリフと何度聴いても断片的にしか意味のわからない奇異な歌詞が僕のテンションをぶち上げる。僕は濡れた体と服を乾かすと同時に、高揚した気分を開放するため、全ての窓を全開にし、カーオーディオに差し込んだCDが流すこの音楽に合わせ歌った。

 車が目的地のコンビニに着いた頃、「アーモンドのチョコレート」はアウトロに差し掛かっていて、まだ終わっていなかった。曲が終わるのを待たず、僕はエンジンを切り車のドアから出た。小学校からここに来るまでのたった数分間で、いくら窓を開けようが服が乾ききる訳もなく、僕はびしょびしょのまま店内に入った。
「えっと……、いや、めっちゃ濡れてるじゃないっすか、どうしたんすか吉川さん」
 レジカウンターに一人で立っている店員の海斗くんは、僕の顔見知りだ。彼がまだ研修生のバッジをつけていた頃、倉升という珍しい名字と顔の雰囲気から、友達の弟じゃないかと話しかけてみたら、その通りだった。別に大して仲が良いわけじゃないが、会うたびに挨拶くらいはする関係だ。
「ちょっとD小のプールで泳いできた。バタフライで」と、僕が話を盛ったら、「え?」と海斗くんは目を丸くした。
「いや嘘。泳いでないし俺バタフライ出来ない。ただプールに入っただけ」
「いやどっちにしろ何してんすか」
「わからん。なんかそういう気分だったとしか言えない」
 苦笑いをして明らかに引いてる海斗くんをよそに、僕は「赤ラークロング一つ」と言ったら「あ、はい」と意表を突かれたように彼は返事をして、棚から煙草を取り出し、それのバーコードを読み込んだら「年齢確認のボタンお願いします」と言い、僕はそれを押して、代金を支払って「じゃあね」と彼に言ってレジを離れ、彼は「ありがとうございました!」と店員らしく元気よく言った後「あの、風邪ひかないように!」と言って、僕は振り返って「うん」と腑抜けのような返事だけして店を出た。

 運転席のドアを閉めると、エンジンをかけないまま、ラークの封を開け、火をつけて喫煙した。
 田舎町の駅裏の深夜二時は呆れるほど静かだ。人の気配なんて少しもないし、この駐車場に車を駐めてるのは僕だけだ。店の窓の内側で、海斗くんがモップで床の掃除をしている。だが、こんな時間にこんな場所のコンビニで、わざわざ掃除をして迎えるべき客が一体どれだけいるのかと、僕は疑問に思った。
 少し煙たくなってきた。僕はまず運転席のドアを半開きにしたが、その状態は自分のプライバシーが公共の空間に漏れてゆくようで居心地が悪かったので、すぐにドアを閉めて、エンジンをかけて窓を開けた。カーオーディオからは、「アーモンドのチョコレート」のアウトロが流れ、その後、次の「午前3時のファズギター」のイントロが流れたのだが、今、僕はその曲の気分ではなく、というかゆらゆら帝国の気分ですらなく、代わりに何か落ち着いた音楽を聴きたくなり、七尾旅人の『Stray Dogs』を再生した。

 くしゃみが出た。その後、「寒いな」と独り言をつぶやいた。アルコールなんて一滴も摂取していないが、僕は酔いが醒めたような気分になっていた。「帰るか」とまた独り言を言い、シフトを変えて車を発進させた。
 自宅である実家に向かう途中、ふと、さっきの海斗くんについて思いを巡らせた。ずぶ濡れの僕とその理由に対して彼はどう見ても引いていたが、そもそも、19歳大学生の海斗くんは、27歳フリーターの僕のことをどう思っているのだろうか。クソやゴミのように思っているに違いないのではないかと僕は思えてきた。彼の兄は僕と同い年の同級生だが、普通に就職しているその兄と比べ、金もやる気も将来もない屑または負け犬だと思っているのではないか。なぜ今僕がこんなに悲観的になっているのかはよくわからないが、僕は悔しくなって、涙を流した。かと言って、海斗くんに対する怒りや憎しみは皆無だった。全て、自分が悪いと思ったからだ。

 泣き顔で家の玄関を開け、くぐり、仕事で疲れている両親を起こさないように、そっと階段を上がって、自分の寝室に入った。
 濡れた服を脱ぎ捨てた頃には既に涙は止まっていて、僕はまず性欲を解消するためXvideosを開き、女性が二人並んでただ座って膣を指で開いてるだけのいつもの動画を見てマスターベーションをし、ものの二、三分で射精した。Pornhubにも似たような動画どころか全く同じ動画はあるし画質も良いのだが、広告やスパムがウザいので滅多に開かない。
 また、くしゃみが出た。僕は暖まろうと、タオルと着替えを携え階段を降りて風呂場に向かい、入浴した。
 浴槽に浸かりながら、また更に一段階酔いが醒めてゆくのを感じた。繰り返すがアルコールは全く摂っていない。
 僕は浴室の中一人で自分のことを省みた。「最近、俺、おかしくないか?」と僕は思った。
 近所の小学校のプールに侵入して服のままダイブするとか意味不明だし、防犯カメラのない古いボウリング場で普通の客に成り済まして何の用途もないのにボウリングの球を盗むのも意味わかんねえし、軽自動車乗ってる癖に爆走したくなって、深夜とは言え国道の直線道路を120キロで飛ばすとか危ねえし、ただ札幌で買い物するだけなのに、古着屋で買ったクソでかい軍用のキットバッグに雑誌やら画集やら小説やら『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』全7巻やらビートルズのアナログ盤やらニルヴァーナのボックスセットやら着替えやら非常食やら消毒用エタノールやらをパンパンに詰め込んで電車に乗って、その旅人みたいな量の荷物を携えて中心街を歩き回ったりパルコで服買ったりカフェでコーヒー飲みながら煙草吸ったりとかただのバカだし、そもそもキットバッグの件以外普通に犯罪だし、最近の僕は、頭がおかしくなったり気が狂ってしまったんじゃないかと少し心配に思う。
 でも、別に大したことじゃないとも思う。自覚してるだけマシだと思うし、何というか、最近、毎日が楽しい。
 とは言え、こんな事ばかりしてたらいつか捕まるし、国道爆走みたいに、行動によっては大怪我または死に至るかもしれない。誰かの命を奪ってしまう可能性もある。
 かと言って、精神科に行って医者に相談するのも怖い。もし入院を強制されて閉鎖病棟に入れられたらどうしようと思う。そんな訳ないだろうとも思うが、取り敢えず、僕が今陥っている心の状態は、何に起因するものなのか、ぬるい湯に浸かったまま自分の頭で考えてみた。

 十分か十五分ほど経過しただろうか。冷めきった湯に浸かりながら、僕の現時点での答えは、“全く見当がつかない”だった。最近嫌なことや悲しいことがあった訳じゃない。彼女に振られたのは一年半前だし、祖母が亡くなったのは四年前だ。かと言って、薬物に手を染めた訳でもなく、頭を強くぶつけたなんてこともない。
 原因が思い当たらない。原因不明の精神疾患、例えば統合失調症にでも罹ってしまったのだろうか。でも、統合失調症の患者が、自分で自分のことを統合失調症だなんて疑うのだろうか。普通、自覚がないものじゃないのか? というか第一に、僕はその病気についてよく知らない。

 いくら考えてもわからない。僕は諦めて、浴室を出て、バスタオルで自分の体を拭いた。本当に、だいぶ痩せたよな、とバスタオルを体に擦りながら思った。痩せた理由は、アルバイト先の温泉ホテルでの労働だ。まず、朝が苦手過ぎて早く起きられず、朝食を食べない。そして人手不足だから午後の一時半だとか二時或いはそれより後に昼休みに入り、そこでその日初めての食事をとることも全く珍しくない。更に、同じく人手不足の影響で、十日ほど休日がなかったこともあった。僕が担当してる、客室及び宴会係は、元々五人しかいなかったスタッフが、二人辞めて三人になってしまい、多忙なのだ。そういう仕事の仕方が一ヶ月ほど続き、僕はその間に6キロも体重が減った。これが、最近の僕の精神状態に影響を及ぼしてるのではないかともさっき浴槽に入りながら思ったが、それは違う。細かい説明ができないが、とにかく、かなり疲れはするが、それほど苦しくはない。ワーカーズハイってやつなのか、楽しいとすら感じる時もある。
 浴室のすぐ近くの洗面台の鏡に、自分の裸身を映してみた。悪くないなと僕は思った。K温泉に対して、こき使われたことへの恨みなど微塵もない。あるのは、この無駄な贅肉のないパンクロッカーみたいな体を与えてくれたことへの感謝だ。
「よし」僕は鏡の中の自分と目を合わせながらつぶやいた。明日はバイトに行こうと、そう決めた。確かに苦しくはないのだが、疲労は限界を超えた。ここ最近の多忙さに音を上げた僕は一週間以上バイトを無断欠勤している。服を着て、二階に上がり、ドライヤーで髪を乾かしたら、コップ一杯のオレンジジュースを飲んで、一本だけ煙草を吸った後、部屋を消灯して、就寝した。

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