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外出する狂気(三)

 ここはアパートの二階にある一番端の部屋だ。階段からは十五メートル以上は離れている。それにもかかわらず、玄関の前にいた彼女は、彼の目の前から一瞬で消えた。
 まさか飛び降りたのか? そう思って彼は鉄柵に身を乗り出したが、地面に敷かれた砂利の上に、彼女は倒れていなかった。
 飛び降りたのではないかという答えは、この場合確かに当然だが、もちろん、そんなことが起こり得るのは、彼女が彼の幻覚であるためだ。だが彼からすれば、まるで彼女が幽霊か超能力者かイリュージョニストになったかのようだった。
 次に彼がした推測は、彼女が二階から飛び降り、尚且つ見事に着地したというものだ。軽いという有利性はあるものの、彼の目にだけ映る彼女の細身で華奢な身体からすると少し無理がある推測だ。だが、彼にとってはそう考えるしかないだろう。
 彼はサンダルさえ履かぬまま玄関を飛び出し、階段まで走ったら、急いでそれを駆け下りた。そして彼女が住んでいる部屋に向かおうとしたが、ここで問題が発覚した。彼女が住んでいる部屋がどれかわからないのだ。
 言うまでもないことだが、彼女はこのアパートのどこにも住んでいない。彼女が彼に、部屋の番号を告げたこともない。
 彼は再び混乱した。どの部屋かわからないことによる混乱というよりも、自分が長く付き合っている恋人の部屋をなぜそもそも知らないのかということについての混乱だ。
 彼は取り敢えず表札を見て回ったが、いずれの名前も、サエキトモコという幻覚の名前と一致しなかった。
 一つだけ、表札のない部屋があった。それはただ単に、空室であるためなのだが、彼はその部屋を見つけた途端、心の底から安堵の気持ちが湧いて出てくるのを強く感じた。ここだ、ここに違いない。
 彼はまずチャイムのボタンを押した。しかしチャイムの音は鳴らず、代わりに聞こえるのは近くを走る自動車のエンジン音のみだった。人の住んでいないこの部屋のチャイムは、電池が抜かれていた。
 彼は何度もボタンを押した。しかしいくら押してもチャイムの音は鳴らない。
 彼女は普段からチャイムを使わないことにしているのだろうか? そんなことを思いながら、彼はチャイムを鳴らすことを諦め、部屋をノックしだした。コンコンと、彼は拳の骨を使って扉を叩く。「トモコ、俺だ。どうしたんだ、トモコ、開けてくれ」。
 しかし、部屋の中からトモコの声、即ちトモコの声の幻聴が聞こえることはなかった。トモコが中にいると完全に思い込んでいる彼は、彼女が余程怒っていて、へそを曲げて返事すらしないのだと、この沈黙を解釈していた。
 トモコに電話するという選択肢は彼の中になかった。誕生日も部屋の番号も知らないが、電話に関してはそうではなく、トモコは携帯電話も固定電話も持っていないことになっている。
 理由に関しては、なぜ彼女が彼氏である自分とわざわざ同じアパートの別の部屋に住んでいるのかの理由と同様、「そうしたいから」という理由で納得している。電話がなくて困らないのか等の、普通抱いて当然の疑問を彼は抱かない。
 彼は一旦諦めた。扉の隣の壁を背もたれにし、地面の砂利に座り込んだ。
 相当怒っているな、と彼は思った。彼女の怒りは、もしかしたら大分時間が経たなければ治まらないのではないかと彼は睨んだ。しかし、かと言ってここを離れて自分の部屋に戻ってしまえば、より一層彼女の怒りは深まるのではないかとも彼は思った。ここでじっと待っていれば、いざ彼女が出てきた時に、「ずっと待っててくれたの?」と、彼女の機嫌を取ることができるかもしれないと打算した。
 彼が扉の横に腰を下ろしてからおよそ三十分後、その部屋の隣の住人と思われる、作業服を着た若い男性が現れた。男性は、訝しげな顔をして彼に目を向けながら鍵を鍵穴に差し込んだが、彼は男性を一瞥するのみで、気にもしなかった。

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