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アーモンドチョコと彷徨う犬(二)

 死人でも見るかのように皆が僕を目を丸くして見る。後で落ち着いて考えてみても、その現象がなぜ起こったかについて決定的な仮説は思い浮かばない。でも、同じ宴会担当の北内さんという小柄な年配女性に限っては、怒りを通り越しているというよくある表現が当て嵌まるんだと思う。何せ一週間以上無断欠勤した上に堂々と始業時間五時間遅れの出勤だ。チーフの坂口さんに関しては少し妙で、僕をまるでそこに居ないかのように振る舞った。透明人間になった気分で壁に貼られたシフト表を見ると、僕の欄が全て空白になっていた。ところで、坂口さんは頭上の戸棚から何か物を取ろうとしていたが、その時のほぼ静止状態の彼女はまるで彫像のようだった。いや本当にどうでもいいけど。

 丸井さんの心配そうな顔にだけは心が痛んだな。佐藤さんは受付にいなかったけどどこにいたんだろう。そう考えながら、ボロの軽自動車を自宅兼実家に向けて走らせる。鳴らす音楽はレッド・ホット・チリ・ペッパーズの「スカー・ティシュー」。MVではアメ車っぽいオープンカーにメンバー四人が乗って米国の荒野における公道を颯爽と走行し横断していたが、僕が乗る軽自動車が走行するのは北海道の中途半端な田舎の中途半端に広くてしょぼい農道だ。
 夏の太陽がやけに眩しい。サングラスが欲しい。
 家に着いても誰もいない。父さんと母さんは働きに出てるし、弟は徳島の大学院に通うため現地に下宿してる。二十年近く飼っていた愛猫はつい三ヶ月ほど前に亡くなった。祖母が亡くなったのは四年前で、祖父は僕が中学生の時にとっくに他界してる。そしてもう一方、母方の祖父母はというと、現在、同じ市内でお互い二人で暮らしてる。
 特に何もすることがない。こういう時、僕は真っ先に自慰行為による射精を検討するところだが、今は違った。あろうことか、この壊滅的に散らかった自室の片付けを始めてしまったのである。
 不意に、自分の中に、イメージが湧いてきた。自分が、この吉川涼平自身の部屋を片付けるためだけに産まれた奴隷のような機械であるというイメージだ。「考えるな、感じろ」というブルース・リーによる台詞があるが、今の僕はさながら「考えるな、片付けろ」である。そこら中に散らばっているのは、まずCDのケース、そして書籍、更には衣服だ。機械はまず服を掴んだ。色の褪せたデニムシャツ。ベルトが巻かれたままの灰色のスラックス、ポール・マッカートニーの顔写真が大きくプリントされた半袖のTシャツ、ビームスのボーダーT、秋物のレザージャケット、冬物のピーコート、チェックのショートパンツ、古着のポークパイハット、柄物のウェスタンシャツ——それらを一着ずつ、無感情に、出来るだけ無駄を省いた動きで部屋の入り口付近に低空で素早く放り投げた。部屋の入り口付近にはそれらが無造作に溜まっているはずだが、機械はその集合体に見向きもしない。主にサブカルチャー系の雑誌と音楽雑誌、それから小説の文庫本と漫画の単行本が書籍類の主な内訳だが、機械はそれらと、海外のロックを主としたCDのケースを、パズルや積み木のように組み合わせて整理する手法を選んだ。何も、考えない。書籍の系統も音楽のジャンルも無視し、機械はまさに機械的に、しかしながらどこか人間味を残した直感的でエモーショナルな判断のエッセンスも加えながら、次から、次へと、無呼吸的に、ノンストップで、一定のハイスピードを保ち、ひたすらに、どこまでも感情を排しつつ、それらを積み上げたり隣接させたり縦にしたり横にしたり立てたり倒したりしながら、吉川涼平の部屋のお片付けを行った。
 片付けが完了した。いや、完成した。人間に戻った僕の目に、その光景は、一種の芸術作品とも呼ぶべき有様に映っていた。僕はすぐに、中学生の頃に買った一眼レフのフィルムカメラを探した。部屋の押し入れに入っている気がした。押し入れをまさぐると、専用のバッグに収納されたそれはあっさりと見つかった。電池の残量は残り僅かだが、少しの撮影ならいけると思った。フィルムの残り枚数表示の数字は、最大枚数を記憶してないがおそらくフルである。僕はカメラのストラップを無視してファインダーを除いた。傑作の匂いがそこには確かに存在した。右手の人差し指が、磁力で引っ張られるかのようにシャッターボタンを押す。焦点を合わせた上で、何度も、何度も、少し引いたり、寄ったり、角度を変えたりしながら磁力は僕の右手人差し指に強力に作用した。
 ゼンマイのような機械音が持続的にカメラの内側から鳴る。それが停止した直後、カメラは一回だけシャッターを切った。フィルムを、使い果たした。
 僕はカメラをちゃぶ台の上に置いた。晴れやかな気分のまま、僕はちゃぶ台の前に座り、煙草に火をつけた。何か音楽が聴きたくなりスピーカーの電源を入れたら、ブルートゥースを繋ぎサブスクでアイズレー・ブラザーズの『3+3』を流した。一曲目のイントロにおけるギターの高音が美しい。
 二センチメートル程の吸いしろを残して赤ラークを揉み消すと、僕は、眠くはないが、眠ろうと思った。アイズレー・ブラザーズをかけながらの、午後一時の昼寝だ。しかし眠くはない。ゆえに、僕は以前処方されまま残っている睡眠導入剤の服用を即決した。ただし、飽くまでもオーバー・ドーズは決してしない。睡眠薬ではなく睡眠導入剤とは言え、それは良くない。以前、貸しスタジオの掲示板に貼らせてもらったバンドメンバー募集の張り紙から連絡してきた二十代前半の若い男のことを僕は覚えている。彼は最初、やや陰気な雰囲気を纏いつつも総合的にはごく普通の若者の顔をしてスタジオのロビーに現れた。普通というか、若干素朴さすら醸し出していた。「あの、吉川さんですか?」ロビーのソファに掛ける僕にそう聞く彼に、ドラムもギターもできる悪友城坂が「おう。君が安田くん?」とまず声をかけた。「あ、はい、安田和希といいます。よろしくお願いします」とお辞儀をした。僕も城坂も自己紹介をして、スタジオに入って僕が予め作った曲のコード進行を彼に教えてベースを弾いてもらい、城坂のドラムをバックに僕はギターを弾きながら歌った。そういうのがあと一回あった。三回目のセッションの連絡を彼にした時に、彼から妙な返信が返ってきた。「すいません、今睡眠薬をODしてキマってます、ラリってます、気持ちいいです、きもちいいですスタジオ行けないです」僕はどんな文章を返信したらいいのか分からず、睡眠薬を多量摂取することで麻薬のような効果があると知ったことによる驚きを他所に、つい、その連絡を無視し、結果的に放置する形にしてしまった。城坂にその連絡のスクリーンショットを送ると「やべえな、こいつ」とだけ返ってきた。それ以降、安田くんから連絡は来ていない。
 僕は、睡眠導入剤を、この薬剤における一回の服薬の最大量、つまり二錠のみを手に取り、スポーツドリンクと一緒に喉の奥に流し込んだ。自室の窓の分厚い焦茶色のカーテンを閉め、音楽の音量を少し下げたら、穿いていたスキニーパンツをパジャマのズボンに着替えて、ベッドのシーツとタオルケットの隙間に滑り込んだ。ドラムスのビートの中で特にスネアに注意が傾く。たまにオープンハイハットも気になる。決して反復してるわけじゃないが、飽くまでもテンポは一つの楽曲の中では変わらず保たれてる。そこに、入眠性がある。曲のリズムと己の精神の波長のようなものが段々と同期されてゆく。いよいよシンクロ率が高まってきた、というところで曲が終わるのを、四回ほど繰り返した後、数えてなどいないが五回目くらいの同期で、僕は眠りに到達できた。

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