応援したいスポーツ

 スポーツに対する興味や関心が乏しく、スポーツをしている選手や、応援している観客に対する感情移入や共感があまりできない。スポーツの試合の過程や結果に一喜一憂したり、素晴らしい技やプレイに感動できる人のことを、羨ましく思うことがある。

 なぜ関心が乏しいのかと考えると、単純にスポーツをするのが苦手だからだと思う。コンプレックスの裏返しかもしれない。
 幼い頃から運動神経が特別悪いわけではなかったが、球技など、道具を使ったスポーツや運動がとても下手だった。

 幼稚園の頃、三点倒立が得意で、「すごい」と言われたくてよく友達や先生に見せびらかしていた。三点倒立のまま数メートル移動することもできた。つまり運動神経自体は悪くなかったのだが、僕は縄跳びすらまともにできなかった。園内の小さなホールに縄跳びの縄がいくつか置いてあって、休み時間に他の園児がそれで遊んでいたが、縄跳びができないのに仲間に入りたかった僕は、それを持ちながら自分がぐるぐると回って振り回すなど、間違った遊び方しかできなかった(今思うと危ない遊び方だ)。

 小学校に入ってから、友達とキャッチボールをしたり、サッカーボールのパス回しをしたり、ドッヂボールをしたりする機会ができたが、いずれの場合も、僕は下手すぎてまともに遊ぶことができず、次第にそれらの遊びに参加しなくなっていった。
 運動神経が特別悪いわけではないと書いたが、体力はどちらかと言うと人並み以下で、小学校の授業のマラソン大会の順位は下から数えた方が早く、毎回、何度も途中で走るのをやめて歩きながら、へとへとになっていた。

 小学校の高学年になってくると、体育の授業でバスケやサッカーをやる機会も出てきた。バスケやサッカーのゲームをやると教師から伝えられると、みんなは喜んでいたが、僕は憂鬱だった。

 それでも、やはり運動神経自体はそんなに悪くなかった。側転やハンドスプリングは、当時できない同級生もいたが、僕はできたし、その他のマット運動も決して苦手ではなかった。
 また、小学6年生の時には、腕立て伏せなどの筋トレを家でするようになり、クラス内での腕相撲の戦績は、上位三名の中に入るほどには強かった。

 筋トレを始めた理由は、小6の頃からプロレスを観るようになったからだ。プロレスはスポーツというより、ショーやエンターテインメントであることに気づくのはもう少し後のことだが、当時の僕はプロレス観戦に夢中になり、父親に録画してもらった深夜のプロレス番組を毎週観たり、時に会場に足を運び全力でレスラー達を応援したりした。プロレスがスポーツであるか否かは別として、体を使った試合の観戦や応援にあれほど熱中した体験は、僕にとってプロレスが初めてだった。

 プロレスにハマった小学6年生の僕は、次第にプロレスラーへの憧れが強まり、プロレスラーになりたいと思うようになる。それは、33歳になった今思い返すと、少年の抱く一時的な夢だったのだが、当時の僕は、自分が将来プロレスラーになると信じきっていた。
 とにかく、プロレスラーを目指した僕は、プロレスラーに少しでも近づくために、まず筋トレを始めた。そして体を鍛えるだけでなく、何か格闘技を習おうと思った。僕が選んだのは、空手だった。

 プロレスラーを目指すなら、空手よりレスリングだろうと思うかもしれないが、近所の体育館の習い事にレスリングはなかった。では、同じ組技系格闘技の柔道はどうかというと、確かに近所の体育館には柔道の教室もあったのだが、当時の僕は、背が高い割にひょろひょろと痩せていて体重が軽かったため、投げられやすくて不向きなのではないかと考え、体重がそれほど関係なさそうな打撃系格闘技の空手を選んだ(実際には、ボクシングの細かいクラス分けが示すように、打撃系格闘技に体重が関係ないわけではない)。

 週に二回、1時間半程度の稽古をした。構えや基本技の稽古から始まり、型と呼ばれる、技や構えを順番に繰り出す演舞の稽古、拳を握りながら腕立て伏せを行う拳立て伏せや、匍匐前進などの体力作り、ミットを使った突きや蹴り技の稽古などを行い、そういう稽古を、確か一年ほど続けた後だと思うが、中学に上がったくらいから、グローブやレッグガードを装着しての組み手をやらせてもらった。

 組み手の稽古が一番楽しかった。もちろん、それ以外の基本的な稽古があっての組み手なわけだが、楽しさで言えば、一番だった。
 最初、小学5年生くらいの男子に翻弄された。中1と小5では体格や体重、体力にそれなりの差があるし、もし組み手ではなくただの喧嘩だったら、それらの差を良いことに、無理やり力技で勝つこともできたかもしれない。しかし組み手なら話は別だ。僕の攻撃は、かわされたり受け技で受けられて当たらないし、相手の攻撃は様々なフェイントもあって僕にヒットし続ける。勝ち負けのない、飽くまでも稽古としての組み手だったが、もし審判のいる試合だったら、僕は判定負けになっていただろう。

 だからこそ、面白かった。僕はその小学生からフェイントのしかたを盗んだり、先生から、間合いの取り方や相手の技を受け流すコツ、相手の隙をわざと作る方法などを学び、同年代の生徒や大人の生徒などとも組み手を交わすようになった。
 いつからか、僕はその小学生を逆に翻弄するようになった。僕の技量が上がったのだ。そういう、自分の成長を確かめるのも楽しかった。

 しかし、僕は中2の頃、空手を習うのをやめた。理由は、もともとの体力のなさもあり、稽古の厳しさ(今思うと特別厳しいわけでもなかった気がするが)についていけなかったからだ。要するに、根性だとか、気概だとか、心の強さだとかが足りなかったのだ。

 ただ、やめた後も、空手のことはたまに思い出した。回し蹴りや前蹴り、正拳突きや手刀を、かつて教わった通りに、時々自宅の居間でやったりした。
 去年、実家から今の部屋に引っ越すまでは、また同じ道場で再び空手を習っていた。引っ越しが予定外のものだったため、復帰してからわずか2ヶ月ほどで道場に通えなくなる結果になってしまった。コロナ禍の中の失業後、再就職した先は出張が多いそうなので、また空手をやるのはなかなか難しそうだが、中学生の時よりは忍耐力のついた今なら、稽古の厳しさに耐えるどころか、その苦痛や疲労を楽しむことすら出来るし、またいつか空手を少しでもやりたいと思っている。

 だいぶ前置きが長くなってしまったが、僕の応援したいスポーツは、空手をはじめとした格闘技全般だ。格闘技はスポーツなのかどうかという問題には、色々な考え方があると思う。グレーゾーンだからこそ、冒頭では「スポーツの選手や応援する人に感情移入したり共感ができない」だとか、「技やプレイに感動できる人が羨ましい」などと書いたわけだが、格闘技をスポーツだと捉えて良いなら、僕は全くそうじゃない。
 
 ネットでたまたま見つけた総合格闘技の試合の映像なんかに、つい夢中になってしまうことがある。
 経験者と名乗るにはあまりに経験が浅い、空手を少しかじった程度の僕でも、プロの格闘家の凄さはわかる。

 蹴りやパンチの速さ、それをぎりぎりで回避する素早い反応、回し蹴りやハイキックのジャストなタイミング、無理な体勢からでも攻撃ができる身体能力、リプレイのスローモーションでなければ見逃してしまうスピーディーな攻防、それら全てに「すごい!」と感動し、興奮する。自分には絶対できない離れ業に、何度も驚き、陶酔する。
 お互いが間合いを取り合いながら、時にフェイントを掛け合い、おそらくはリングにいる二人にしかわからない細かい駆け引きをし対峙している時の緊張感に息を呑み、クリーンヒットによるダウンの瞬間に溜息を漏らす。
 グラウンドでの攻防は、立ち技の攻防より地味に見えるが、立ち技よりも濃密だ。関節技や絞め技を極め(きめ)ようとする者と、そうさせまいと逃れようとする者。肉体と肉体を密着させながらの攻防は、立っている時と同じく、一瞬も油断できない。そして、見事に技を極めた瞬間のカタルシス。逆に、グラウンドが不得意な選手が見事に抜け出し立ち上がる事にに成功した瞬間のカタルシス。そういう興奮や熱狂が、格闘技にはある。

 格闘技の事を、野蛮だと見なす人がいるが、僕はその人の言っている事を完全に否定する事はできない。格闘技の技は全て、木の板や瓦やバットや分厚い氷を破壊するためのものではなく、それができるほどの威力を持った技で、試合とは言え相手に身体的なダメージを与えるためのものだ。また、格闘技は断じて暴力とは区別すべきだが、暴力として使う事もできる。格闘技を習得した現在と過去全ての人が、例外なくそれを暴力として使わなかったと証明する事はできない。選手どうしが殴り合い、蹴り合い、投げ合い、絞め合う様、そしてそれによって顔が腫れ上がったり、出血したりする様を見て、野蛮であると感じるのは、むしろ自然な事と思える。

 では、格闘技は本当に野蛮なのかというと、僕はそうではないと思うし、それは誤解だと思う。
 簡潔に言えば、格闘技は使う人次第だ。
 極論を言うと、これはよくある例え話なのだが、料理をするために作られた包丁で、ある人は魚や肉を切り捌き、ある人は人を刺し殺す。ハンマーを使って釘を打ったり、鉄骨のパーツの歪みを矯正する人もいれば、それで人の頭を殴る人もいる。スタンガンや催涙スプレーを用いて、自分の身に降りかかる犯罪から身を守る人もいれば、逆に犯罪に用いる人もいる。
 では、包丁やハンマー、スタンガンや催涙スプレーは、野蛮な道具なのかというと、決してそうではないはずだ。

 ならば、格闘技の本来の目的とは何か。
 僕は、空手を少年時代に少しかじったことがある程度で、格闘技の試合を観て興奮や感動を覚えることのできる人ではあるが、特別に格闘技ファンというわけではない。格闘技の歴史についても殆ど知らない。そんな僕が、偉そうに語ることのできるテーマではないのだが、それでも敢えて考えてみると、それは、まず他の非格闘技のスポーツと同様、精神、技術、肉体の鍛錬と、その競い合いだと思う。その競い合いは、決して互いが憎しみあってのものではない。そして、こと格闘技に関しては、自分や自分の大切な人を、悪しき暴力から守るという目的もある。繰り返すが、格闘技は暴力ではない。むしろ、暴力に対抗するための力だ。

 この文章を書くために、YouTubeで総合格闘技の試合の動画を改めて視聴した。最初に観たのは、新型コロナウィルス対策のために無観客状態で開催された大会の模様だった。しんと静まり返った会場の映像の中で、アナウンサーや解説の音声以外に聴こえるのは、セコンド達の声と、レフェリーの声、そして、選手の足音や、打撃が体に当たる音、体がマットに叩きつけられる音など、試合の音だけだ。
 続けて、別の大会の動画も観た。こちらはまだ世界が新型コロナウィルスの脅威にさらされる以前のもので、先程挙げた音以外に、観客の歓声も聴こえた。その差は圧倒的だった。選手を応援するための声が、選手だけでなく、他の観客や画面を見ている僕をも奮い立たせる。興奮や熱狂の度合いは倍加し、たとえ画面越しでも、その場に同化するような錯覚を覚える。

 もちろん、無観客試合がつまらないわけではない。むしろ、試合それ自体に対する観戦の集中力が増し、通常とは違った趣の観戦ができた。しかし、それでも、やはり僕は観客がいてくれた方が好きだ。

 きっと、スポーツの応援というのは、戦ってる当事者だけに作用するものじゃない。その声の力は、選手も観客も監督もスタッフもセコンドもコーチも含め、そこにいる全ての人に作用するものなのだ。
 
 格闘技以外のスポーツから距離を置いている僕だが、親や兄弟に誘われて、野球やサッカーの試合を一緒に観に行ったことが何度かある。
 歓声に包まれたあの空間は、明らかに非日常のものだった。そこにいるだけで、心が昂った。試合の事はよくわからなかったが、その試合を、きっと僕よりもずっと楽しめているであろうファンの人たちを羨ましく思った。

 僕自身も、スポーツをして応援されたことがある。
 それは、空手の試合ではなく、高校の体育の授業での、柔道の大会での事だ。
 高2か高3の体育の授業で、男子のみでクラス対抗の団体戦を行った。その際、女子生徒はみんな男子の応援をした。
 僕は柔道が苦手ではなかった。他クラスの生徒と組み合っていると、二人か三人の女子が僕の背中の後ろで声を合わせて「マッサン(僕のあだ名)頑張って〜!」と応援してくれた。
 誰と誰の声なのかわからなかったが、嬉しかったし、それ以上に、「負けるわけにはいかない」と鼓舞された。次の瞬間、相手は僕に大外刈りを仕掛けたのだが、僕は堪え、そのまま逆に大外刈りで相手を倒し、一本勝ちした。あの応援があってこその勝利だった。

 応援とは、あなた(達)に勝って欲しいという意思を、相手に伝える行為だ。そしてその事で選手は力を発揮する事がある。さらに、ある人の応援が別の観客の気持ちに作用する事もある。
 
 そう言ってしまうと、ネットやテレビでの観戦の場合はどうなのかと思ってしまうが、確かにそれらの観戦方法では選手にも会場にも声は届かない。しかし、だからと言ってその行為に意味がないと切り捨てる必要もないだろう。会場に行けないなら映像で楽しむのは当然だし、視聴率や視聴者数を伸ばすのは、そのスポーツ自体を応援する行為だ。と言うか、僕も格闘技のライブストリーミングを観て「行け!」とか「よし!」とか、会場にいるわけでもないのに声に出して言ってしまう事があるが、ああいうのはつい反射的にしてしまう行為だ。

 スポーツの応援が、その場のあらゆる人に作用するとすれば、例えば4万人の観客がいる球場で野球を観戦し、選手やチームを応援する時、それは、選手もチームも客も敵も味方も全て含め、4万人で一つの共同作業をしている事になるのではないか。
 応援という行為が、スポーツという営みと同化して混ざり合うのだ。

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