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アーモンドチョコと彷徨う犬(三)

 最近夢を見ない。人は眠るたびに必ず夢を見ていて、夢を見なかったというのはただ夢を見たことを忘れているだけなのだという説を見聞きしたことがある。でも僕には忘れたと思えない。思えないのは正に忘れたからなのかもしれないが、とにかく、目覚めた後の僕の頭に夢の記憶は欠片もない。
 ところが、さっき、久しぶりに夢を見た。懐かしい顔だった。高校生の頃に僕が惚れていたクラスメイトの女子と、互いに半裸で抱き合った。性交には至らなかった。夢なので脈略のある経緯はなかったように記憶してるが、まず柔らかいソファの上にお互いなぜか下着姿のまま横たわりながら抱きしめ合った。彼女は眼鏡を外さない。裸眼の彼女の息を呑むような美しさを僕は知っているが、掛けたままの素朴さも堪らない。それなのに……それなのに彼女はわざわざ眼鏡を脱いで、適当に放り捨てたのだ! 僕は息が荒くなった。その大きくて綺麗な二重の瞳を、僕は夢中になって見つめた。彼女は、何の前触れもなくいきなり僕に接吻をした。舌と舌が、それも僕の舌と彼女の舌が、縦横無尽に絡み合った。彼女の両手は、僕の両腕を強く掴んでいる。僕はとっくに勃起しているが、血流の集中とそれに伴う海綿体の膨張が臨界点を更に飛び越えようとした。堪らず、堪えられず、原初の欲動に逆らわず服従して僕は彼女と交わろうとした——僕はそこで目が覚めた。
 惚れていたと言っても、卒業したらやがで別の女の子に恋をした。実際のところ殆ど喋ったことがない。……ん? 僕はふと思った。思ってしまった。むしろ気付いてしまった。僕は、彼女、池端美久ちゃんと、全く喋ったことがないのではないか?
 いくら思い出そうとしても思い出せない。学祭の時も、当番の掃除の時も、何より数ヶ月席が隣どうしだった時も、会話の記憶が全くない。これは、僕が否定するあの夢に関する説よろしく、覚えてないだけで実際には会話を交わしたことがあるのだろうか。そう思いたくすらなってきた。
 代わりになる記憶を思い出したくなった。会話の記憶がないのなら、何か、さっき僕が夢の中で愛し合った女性にまつわる、心ときめく思い出はないものか。
 ある。というかたまに思い出してる。先述した通りに僕は池端さんと席が隣だった時期があるわけだが、その時の記憶だ。別の女子が、僕の隣に座る池端さんとの会話の中でこんなことを言ったのが僕の耳に入った。
「チャンスじゃん、美久」
 すると池端さんは、
「うーん。彼、いつもここら辺見てるんだよね」
 別に嫌悪感や不快感は含まれていないが、少なくとも明らかに困ったようにそう言って、池端さんは自分の脚の少し前の方を指差した。僕は、ぎくりとし過ぎるくらいぎくりとした。
「美久の美脚見てんじゃない?」
 その通りだった。女子バドミントン部の池端さんの持つ長くてしなやかな美脚を、僕は毎日つい何度も見てしまっていた。
 その笑い混じりの質問に対して池端さんは笑いもせず何も答えなかった。僕は、今までこのエピソードを、「チャンスじゃん、美久」の意味についてのみ注目していた。そして、彼という代名詞が僕のことを指すと考えられるという点について。つまり、池端さんが僕のことを好きだった可能性が高いということのみを噛み締めるために僕は時々このエピソードを思い出していた。しかしながら、今初めて、このエピソードにおけるネガティブな側面を、少なくとも二つ新たに見つけた。まず、池端さんが、池端さんの脚をちらちらと見る僕のことを、さすがに気持ち悪がっていたのではないかということ。二つ目に、池端さんが僕に好意を寄せている可能性が高いことは、当時の僕も実は気づいていたのだが、それにもかかわらず、僕は池端さんに対し何一つ行動を起こしていなかったということだ。つまり、手も、足も、出せなかった。
 一つ目の側面については、それを否定する余地がある。たとえ好きな人であろうと、制服のスカートの下から露出する自らの脚を毎日のように見られるのは気持ちが悪いとも確かに考えられるのだが、一方で、どこまでいっても好きな人に自分の肉体の一部を、言ってしまえば性的な意味で見られたとしても、それは気持ちが悪くないどころかむしろ嬉しいのではないかという希望がある。しかし二つ目は救いようがない。決定的なヒントを貰ったのに、みすみすそれを全打席見逃し三振試合終了する僕は、一言で言って臆病者の馬鹿野郎だ。
 そうして、卒業から十年近く経った昼寝において、彼女の夢を見るのだ。
 今の僕を見たら、池端さんはどう思うだろうか。がっかりするに違いない。失望するに違いない。
 絶望的で哀しい気持ちになってきた。僕は自分を慰めるため、更にはその哀しみに陶酔すらするため、エリオット・スミスの『エリオット・スミス』というアルバムを再生した。聴いてるうちに、僕は池端さんの写真が見たくなった。僕はすぐにベッドから降り、本棚にあるR高校の卒業アルバムを開いた。僕のクラスのページを開く。可愛い女子が多いと他クラスからも評判だったこのクラスにおいて、彼女にこそ僕は見惚れる。
 だが、僕はすぐにアルバムを閉じた。こんな後ろ向きな行為に意味はない。エリオット・スミスの音楽はそのまま流し続けたが、僕は池端さんについて思い出したり考えたりすることを停止した。

 いただきますは言わない癖に、ご馳走様だけは言う僕は、食べ終えた母親の手料理であるソース焼きそばに僕がお好みでマヨネーズをかけたものが盛られていた皿及び米粒の残るご飯茶碗を片付けもせず、その台詞を言って自室に戻り扉も閉めぬままベッドに転がった。今日の昼に機械と化してまで片付けた部屋は、最早また徐々に元の状態へ戻ろうとする気配を臭わせている。食卓の方からは、母が食器を片付けている音が聞こえる。
 僕は、スマートフォンにSNSのアプリを入れていない。スマホを買ったばかりの頃にアプリの入れ方がわからず、元々入ってたネットのブラウザやGPS地図、電話や、録音などのベーシックな機能のみを、初めの頃は使っていた。アプリのインストール方法がわかったのは最近のことで、しかしながら、僕はスマホではなくパソコンでSNSを使うことに慣れてしまったため、スマホにTwitterも Facebookも、ついでにTumblrも mixiも入れないままにしてある。
 音楽のサブスクだけは入れてある。非常に使用頻度が高い。Apple MusicなのかSpotifyなのか、或いは他のものなのかは派閥論争を避けるため伏せるが、とにかく僕は、音楽が大好きというより完全に依存してる。
 食後の今、デザートを食べるよりも僕の脳は何らかのグッド・ミュージックを求めている。僕は、インディ・ロックを聴きたいと思った。それも、日本の。くるりか? ネヴァー・ヤング・ビーチか? それともミツメか? 僕が出した結論は、サニー・デイ・サービスの『ポップコーン・バラッズ(完全版)』だった。
 PCの電源を入れる。パスワードを入力して起動する。グーグルを開いて、ブックマークに登録されたFacebookを開く。メッセンジャーに新規のメッセージが一件届いてる。開いてみると、そこにはタイムラインでたまに見る、しかし僕自身とのやり取りは大分ご無沙汰だった、僕より十歳以上歳の離れた、確か四十前後の中々に綺麗なシングルマザーのアイコンが表示されていた。三浦さんだ。彼女は僕が前に勤めていたレンタル店の先輩である。
 内容を読むと、近々、僕とも一緒に働いていた、桑野さんという三浦さんと同世代の女性従業員が退職するとのことで、その送別会をするので、よっしーも来ないか、というものだった。
 桑野さん、辞めるのか。元従業員として感じるその一抹の寂しさは元より、もう辞めてから四年は経つのに届くそのネット上の電子的な便りに、有難いな、と深く感じながら、僕は、その宴会への参加を快く表明した。

 ぐだぐだ、ごろごろ、だらだら、相変わらずバイトに行かぬまま過ごしていたら、あっという間に送別会の日が来た。「よし田屋」というこの街の歓楽街にある居酒屋に、父の運転で到着する。看板も、店構えも、なんだか随分この街にしてはお洒落だ。最近できたような佇まいもある。入ると、更にお洒落だった。デザイン性の高い空間を照らす穏やかな照明と、ジャズの調べ。ついでに、店員の女性は可愛い。
 既に何名か参加メンバーが小上がりの席に座っていた。挨拶を交わす。社員の山中さんという男性は意外にもラルフ・ローレンの半袖シャツを着ている。三浦さんや桑野さんより少し世代が下の入江さんは紺色のワンピースを着ている。すごく似合っている。もう一人の僕より若い男性は……誰だろう、おそらく僕が辞めた後に入った従業員だ。
 続々と、参加者が入店する。三浦さんが僕を懐かしがる。桑野さんも僕を懐かしがり、送別会への参加について感謝の意を述べる。従業員の中で唯一顎髭を容認さされている有坂さんは、相変わらず顎鬚を生やしたまま、僕が左腕につけている腕時計に注目した。「チープカシオかぁ」僕は、はい、と笑顔で答えた。
 楠木さんが入店した。僕と同い年の女性従業員の彼女は、既に着席している僕とかなり離れた入口側の席に座った後に僕に気付き、笑顔で手を振りながら「よっしー、久しぶり!」と明るく言った。僕も、「久しぶり」と言って、不得意な作り笑顔を見せた。やり取りはそれだけだった。
 見覚えがあるが、一緒に働いたことのない、おそらく僕より少し年上の男性が僕たちの席に上がってきた。彼の逆立てた短髪は黄色に近い金色をしている。僕と同じ、過去の店員かもしれないし、深夜の時間帯の店員かもしれないが、記憶にない。
 その他に数名、僕と関わりが薄く、しかも名前の覚えてない従業員が入店し、席についた。僕は彼らと会釈を交わした。
 刺身や揚げ物など、運ばれてくる料理はいずれも美味しかった。僕はビールやサワーを飲みながらそれらをつまみ、近い席にいる元先輩たちと会話を交わした。近況を当然聞かれるわけだが、僕はK温泉でバイトをしてるとだけ答え、それ以上その話が広がらないよう努めた。
 入江さんの口数が、妙に少なかった。僕の斜め向かいの席に座る彼女の様子が、僕は気になった。入江さんがなぜあまり喋らないのか、理由は想像もつかなかった。
 どういうわけなのかよくわからないが、僕がこの居酒屋に入店した時に既にいた知らない若い男性と、テーブルを挟んで一対一でトークをするという流れになった。皆、なぜかにこにこ或いはにやにやと、面白がるような嬉しそうな顔をしている。特に山中さんの銀縁の眼鏡の奥にある目が輝いているように見える。なぜだかわからない。僕と、その庄司君という大学生風の男性は、お互い仕方なく会話を交わした。まるでお見合いのような会話だった。いや、中学か高校の英語の教科書の例文のような会話とも言える。聞いていて何も面白味がないはずのその対談を、依然として皆は、というか主に山中さんと三浦さんと桑野さんが、注目と好奇の視線を注ぎながら聴いている。
「なんで震えてるの?」
 ビールの入ったジョッキを片手に、なぜか右手を震わせている庄司君にそう尋ねると、山中さんが僕の台詞をそのまま若干小さな声で復唱し、唸るように笑んだ。これも理由がわからない。
 いかにも真面目そうな顔をしている庄司君は、苦笑いをしながら、答えられずに窮している様子を見せた。僕は、訳がわからず、とりあえず自分で頼んだ濃いめのレモンサワーを一口飲んだ。

 会の終わり、幹事の三浦さんが代表して、桑野さんに記念品と花束を贈呈した。桑野さんは感極まっている。全員と握手する展開になった。僕の番が回ってくると、桑野さんは、「人の目を見て話すように……」と、涙によって濡れた顔で僕の右手を両手で握りながら、告げた。
 三浦さんの手は、柔らかくて小さかった。僕は思い出した。去年か一昨年、往年のディスコをイメージしたイベントがこの街で開催され、友達と会場に訪れた僕は、桑野さんと三浦さんの二人とばったり遭遇した。僕と三浦さんはチークダンスを踊った。その際の、三浦さんの肩の柔らかさを、思い出したのだ。

 二次会は有坂さんの知人が経営するバーだった。L字型に設置されたソファの角に座った僕は幸運にも、楠木さんと入江さんに挟まれる形になった。
「何飲む? よっしー」
 透き通った声で楠木さんにそう聞かれた。僕は、その質問はむしろ僕がすべきだったのではないかという後悔と恥を抱きつつ、
「ジントニックあるかな」
 と、メニュー表を覗き、その商品名を見つけた。
「入江さんは何飲みます?」
 僕は、どこか暗い表情の入江さんに尋ねた。
「私は……カシスウーロン」
 穏やかなトーンの声で入江さんは答えた。
「桑野さんは?」
「あ、私、ビールで」
 桑野さんの涙は既に乾いていた。けろっとしたような雰囲気だった。
「冨樫は?」
 有坂さんが、金髪の男性に問う。ここで、初めて僕は彼の名前を知った。
「俺もビールでいいっす。ってか、千明ちゃんは何飲むの?」
「私は、梅酒ロック飲みます」
 オーケー。そう言って、有坂さんは以上五名の注文に自分の飲む分を加え、知り合いだという店主に取りまとめてオーダーした。店内にはハウスのような音楽がかかっている。
「よっしーって、目悪いの?」
 乾杯が終わった後、楠木さんが僕に尋ねた。
「うん、悪いよ。かなり」
「でも今眼鏡かけてないじゃん」
「あ、これは、コンタクト付けてて」
「なんでコンタクトなのー?」
「それは……外した方が、顔がかっこいいかなぁ……って」
 楠木さんは笑った。しかし、ちらりと入江さんを見ると、くすりとも笑ってなかった。
「面白いね、よっしー。まぁ、でも——」
 楠木さんは、その先を言おうとして、やめた。
「え? 何が?」
「ん? なんでもないよ」
 楠木さんは屈託のない笑顔を僕に見せた。
「よっしー、視力どれくらい?」
「0.01だよ」
「え、めっちゃ悪いんだね!」
「たとえば、この財布だけど——」
 僕は後ろのポケットから財布を取り出した。
「これが、俺にはこう見えるんだよね」
 僕は、十年ほど前に撮影した財布の写真をスマホに表示させて楠木さんに見せた。それは、わざとピンボケさせて撮った写真だった。
「えぇ、面白ーい」
 楠木さんは微笑んだ。一方で、僕はその写真を、入江さんにも見えるようにテーブルに置いて見せたわけだが、入江さんの顔は画面を見ながらも無表情だった。
「千秋ちゃん」
 冨樫さんという男性が、楠木さんの名前を呼んだ。
「はい」
「この前のさぁ——」
 楠木さんと冨樫さんは、二人で話し込み始めた。そこはかとなく、冨樫さんの髪の色が不快に思えた。
 僕がジントニックを飲み終わるまで、僕と入江さんの間に何の会話も発生せず、楠木さんと冨樫さんの会話は終わらなかった。僕は入江さんに申し出て、トイレに行った。一応用を足したら、鏡を見た。目を見開いて、自分の容姿を確認した。髪型のセットの状態、鼻の高さや、眉毛の角度、顎のライン、顔全体の輪郭、唇の形状と色、目の形を、入念に確認した。全て、悪くないと僕は判断して納得したら、洗面所を出て、ソファの席に戻った。
「入江さん、今日元気なくないですか?」
 僕はこの日初めて入江さんにまともに話しかけた。
「そう?」
 入江さんの目は、暗いと同時に冷たかった。
「……多分」
 言ってすぐ、訳のわからないことを言っていると気づいたが、訂正や取り繕う余地がなかった。
「吉川君、飲み物、次何飲むの?」
「あ、ええと、同じもので」
「ジントニックだっけ?」
「はい」
 入江さんはカウンターに座る有坂さんの名を呼んだ。はい、と返事をする有坂さんに対して、「ジントニックとカシスウーロンひとつずつ貰える?」と言い有坂さんがそれに返事をして店主に伝えた。
 一分間ほど経過した後に、飲み物が届く。冨樫さんと楠木さんの会話は止まない。桑野さんは既にカウンターに移動し、有坂さんと店主の会話に混ざっている。僕と入江さんは特に何も話さない。冨樫さんが楠木さんの膝を、というか太ももを手で触っている。楠木さんの表情はさっきから笑ってない。桑野さんがカウンターの二人の前で爆笑している。入江さんはカシスウーロンを飲んだ後に小さなチョコレートのお菓子を口に入れた。届いた二杯目のジントニックはまだ少ししか飲んでいないが、一次会の酒も相まって、程よい酩酊を僕は一人で感じている。この店で、僕と入江さんは場の流れから取り残されている。
「入江さん」
 僕は彼女の目を見ながら語りかけた。
「何?」
「その紺のワンピース、素敵ですね」
「え……。ありがとう」
 入江さんは照れたように微笑んだ。
「これ、近くのイオンで買ったんだけど……」
 服の襟元を触りながら、やや俯き加減で彼女はそう言った。近くのイオンとはここI市のイオンを指すが、そこは決して名のあるショップが入ってるわけじゃない。
「あんま、そういうふうに見えないです」
 僕は、そう来たらそう返すだろう、というような言葉を投げ返したが、実際、入江さんのワンピースはもっと高そうに見えた。
「ありがとう」
 この言葉を最後に、どういうわけか会話はまた沈黙に変わってしまった。しかし、場の流れには変化があった。冨樫さんと楠木さんの会話が終了していた。
「よっしー何飲んでるの?」
 両手に持ったグラスをテーブルに置きながら、楠木さんが僕に尋ねた。
「ジントニックだよ」
「好きなの?」
「うん。飲みやすくて」
「へえ。私は苦手だなぁ。苦くて」
「楠木さんは何飲んでるの?」
「レモンサワー。よっしーもさっきのお店で飲んでたよね」
「うん」
「真似してみた」
「え? ああ、うん……そうなんだ」
「何そのリアクション。面白い」
 笑って、楠木さんは、口元を手で隠した。
「ねえ、入江さん、よっしーって面白いですよね?」
「……面白いっていうか、彼はどっちかというと個性的なところがあると思う」
「わかります」
 楠木さんは、両手でグラスを持って、上目遣いのままレモンサワーを一口飲んだ。
「よっしーは個性派なんですよ。……顔に似合わず」
 だんだん酔いが回ってきて、僕はぼんやりとした気分になってきた。つい先ほど、楠木さんがとても重要なことを小さな声で喋った気がするが、受け取ることができなかった。
 精神に、とろみが出てきた、亡き祖母がたまに作ってくれた、昔ながらのカレーライスのルーのような、優しくて、温かいとろみ。僕の内側がとろみを帯びる一方で、僕の外側というか周囲の景色が随分と煌びやかに見えてきた。店内の照明が舞台装置のようだし、カウンターに座る有坂さんと桑野さんの後ろ姿がやけに絵になってる。入江さんはこんなに綺麗だったろうか。レモンサワーを少しずつ飲む楠木さんが、可愛くて仕方ない。視界から楠木さんの顔や姿が入力された途端、関連した映像が頭に自動再生された。冨樫さんが楠木さんの太ももを触る映像だ。僕は対抗したくなった。
 僕は、おもむろに、楠木さんの体の側面に、酔いと眠気に任せて、傾いて体重を預けてみた。
 想像以上の肩や腕の柔らかさだ。僕の自意識は消失していた。店内の音楽はいつの間にかボブ・マーリーに変わっていた。俺は警官を撃ったのであって、何を撃ったのではないんだっけ? 入江さんが周辺視野の端で僕と楠木さんのことをじっと見つめているように見えるがただの気のせいかもしれない。有坂さん達は何の話をしているんだろう。あれ? そう言えば今日、髭剃ったっけ? パーマ、またかけようかなぁ——。
「もぉ、よっしーったら、人のことソファみたいにしてぇ……」
 甘い声——甘い楠木さんの透き通った声が聞こえた途端、僕は酔いも眠気も一気に醒めて、すぐに楠木さんの体から離れた。
「ごめん! そんなつもりじゃなかったんだ!」
 僕は、楠木さんのことを、モノや家具扱いした訳じゃないことを慌てて伝えた。すると、楠木さんは、何か笑いを堪えるような、それでいて嬉しそうな微笑みを浮かべて、僕のことを真っ直ぐに見ていた。僕は酩酊したまま取り敢えずジントニックを飲んだ。冨樫さんがちらりと僕のほうを見た。意外にも、敵意のようなものは感じられず、むしろ友好的ですらあるほどの何気ない表情だった。僕は改めて入江さんの方を見た。入江さんと目が合った。どこか冷ややかな眼差しをしていた。

 会が終わり、店の出入り口を出た。階段を降りる手前、僕は楠木さんによく似た風貌の見知らぬ女性を楠木さんと勘違いし、付いて行こうとしたら、後ろから楠木さん本人の声が聞こえ、きょろきょろと、二人を見比べた。見知らぬ女性の方は後ろを向いていて、僕という酔っ払いに気づかなかったが、楠木さんは、おそらく僕が赤の他人を楠木さんと勘違いしたことを見抜き、上目遣いで微笑んでいた。まるで、「……ばか」とでも言いたげな優しい表情だった。
 三次会もあるらしかったが、僕は辞退した。三次会に進む有坂さんと冨樫さん、そして桑野さんと楠木さんに別れを告げ、手を振り、僕はI市の歓楽街を徒歩で抜け出した。入江さんはというと、いつの間にかタクシーで帰ったらしい。

 交通量がほぼゼロの深夜の駅前の車道の真ん中を、僕は歩いた。そして走った。更に、跳んだ。跳ねた。踊った。回った。タクシードライバーの存在を無視し、僕は踊りながら帰路についた。アンダーパスを歩行者用ではなく、車両用の道路から通過し、その後、途中のセブンイレブンの入り口付近で店内に入らずしゃがみ込んだ。スマホでフー・ファイターズの「ザ・プリテンダー」のMVをYouTubeから再生した。意味がよくわからないMVだったが、観終わると、少しすっきりしたような気持ちになり、さっきよりも冷静な気持ちになれた。
 自室に戻ると自慰をした。そして眠った。

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