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ライブハウスの薄暗さ

 カタツムリの殻の回転に似た、途方も無い虚無感のうずまきを手のひらに掴みながら、岩見沢方面の列車を、棒立ちをしながら間抜けな顔で、ただ待った。
 ホームで列車を待っている人たちは、皆、同じ顔をしているように見える。性別も年齢も、服装も髪型も関係ない。魂や意思のようなものが、抜けたような、すべてのことを他者にゆだねて、ぶら下がったような、心の中のあらゆるスイッチをオフにして、待機することだけに専念したような、僕と同じ、間の抜けた顔だ。他人だらけのこの場所に、中には気の合いそうな雰囲気のやつもいる。しかし、その彼と僕が、会話を交わすことはおそらく永遠にない。
 ライブハウスの薄暗さや薄明るさが、ロマンティックなものと全く思えない。それらは僕にとって、どうすることもできない現実を、触って、思い出すための引き金でしかないからだ。
 今日のライブも、観客なんてほんの少ししかいなかった。前回に至っては、観客の人数がゼロだった。
 こんなことをして、何になるのか。一人で弾き語りをしてライブハウスのステージに立つのは、これで、両手で数えられるほどの回数しかこなしていないし、始めてからまだ一年も経っていないが、既に、僕はそう思うようになっている。
 最初のライブのことはたまに思い出す。僕はその日、ソロの演者のみを集めたライブイベントにブッキングされていた。ライブイベントとは言うが、実際にはその言葉のイメージ通りの華やかなものではなく、アコースティック・ギターの弾き語りがメインの、観客の少ない、地味なイベントだった。
 共演者の中に、一人だけ、キーボードの弾き語りの女性演者がいた。リハーサルの時、彼女の歌声に圧倒された。美しく、抑揚の効いた、力強い歌声だった。それが何なのかは断定できないが、人間の生命や尊厳に関わる何かに対し、凛として対峙するような、そんな歌声と旋律だった。
 聴いていて、僕は尻込みしたし、まるで立ちくらみがするようだった。こんな人に、敵うわけがないと思った。その人の出番は、僕より先だったのだが、そのステージの素晴らしさに、僕は敗北感を抱くと同時に、観客の少なさを勿体なく思った。
 自分の出番が終わった後、味わったことのない高揚感が全身を巡っていた。ギターを片付け、観客席に戻ると、眼鏡をかけた一人の女性客が、笑顔で僕の前に現れた。
「あの、さっきステージで歌ってた方ですよね?」
「あ、はい、そうです」
「すごくかっこ良かったです」
「本当ですか、ありがとうございます」
「なんか、最初の曲とか、何も喋らないでいきなりあの曲始まって、すごい良かったです」
「ありがとうございます」
「よくライブはされるんですか?」
「いえ、これが初めてですね」
「あ、そうなんですかぁ」
「もし良かったら、これからもたまにライブやるんで、チケットに書いてある僕の名前でTwitterかFacebookを検索してみて下さい。ライブ予定とか投稿するんで」
「わかりました、ありがとうございます」
 そう言って、彼女は笑顔のまま再び、会場に並べられた椅子のうちの一つに座った。
 少し背の低い、黒髪の、聡明そうな顔をした彼女とは、その後もう一度だけ僕の出演するライブハウスで会うことが出来たが、それっきり、姿を見たことは一度もない。
 
 僕が待っていた電車がやっとホームに着いた。降車する沢山の人の列が消えたら、僕は前の人に続いて流されるように乗車した。
 アコースティック・ギターのハードケースを携えながら電車に揺られる。僕は席に座れなかったので、ケースを縦にして床に置き、倒れないように手で支えながら、もう片方の手で吊革につかまった。無力感は心や胸の中ではなくむしろギターケースの中にあった。僕は、それがケースの隙間から漏れてしまうのではないかと、一人で無意味に気を揉んだ。
 

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