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数学を教えるのではなく、教えさせていただく精神

その”支援”は、”支配”になっていないか

今回は、「数学を教える」という仕事を真剣に考えてみたいと思います。

これまで講師面接をたくさんこなしてきましたが、あくまで一部の方ではありますが、講師や先生歴が長い人ほど、「数学を教えて”あげている”」という感覚を持っていることに気がつきました。しかも、その年数が長ければ長いほど、数学を話すことに対する態度も変わっていくように思いました。

そこに至る過程はおそらく、構造的なところから生まれているのだろうと推測できます。なぜなら、「先生」という職は、先生がどういう性格、やり方であっても、生徒の方が「変わる必要がある」のです。なぜなら、評価するのは先生ですから。つまり、生徒がわからないような教え方をしていた&どんなやり方をしていても、自分が変わる必要がないのです。もちろん、相互評価の仕組み等もあるところもあるかもしれませんが。

先日、とあるコミュニティでこんな言葉を聞きました。

「支援する、という立場が長ければ長いほど、支配的で、暴力的になることもある。」

と。学習塾や学校の中で生徒を教育していく、この教育とは、支援でもあります。「支援」と聞くとよいように聞こえますが、裏表の関係でもあり、数学を教えるという支援活動も、確かに「教える」という立場を利用すれば、支配的にもなれるのかと思ってしましました。

教えさせていただく幸運

創業当初からずっと大切にしているのは、「教えさせていただく。」という精神です。なぜなら、たまたま数学が他の人より運がよかったおかげでできたからです。数学ができるから、優秀なのか、と言えば、NO。数学ができるから偉いのかと言えば違います。何らかの役職や立場を持っていたとしても同じです。

さらに運がよかったのは、”大人”向けの数学教室をやっていたことでした。子供向け塾や学校などと違うのは、対象が大人の方であることで、相手に尊敬できるところを見出しやすく、たまたま自分は数学だけができるだけなのかもしれない。と気づきやすいというのも要素として一つあるのかもしれません。数学というフィールドに話を持ってくれば当然私の方が優秀そうに見えますが、全くそんなことはなく、たまたまそういうフィールドだからです。お客様がどういうフィールドを選ぶのか。プロの野球選手でもサッカーでは勝てないのと一緒です。

それでも、「支援」と言う名の元に「支配」的なスタンスでいる先生も見てきました。

数学を教えるとは、教えさせていただくことであり、相手が求める数学を必要な分だけ提供するということだと思っています。時にサービス精神も必要ですが、必要量の知識だけが適正です。

自分が教えたい数学を押し付けることではなく、数学という強みを元に相手を否定することでもありません。

私も先生と呼ばれる歴としては、10年は軽く超えます。年齢を重ねれば経てば経つほど「指摘してくれる人はいなくなる。」そんな一言を胸に、どういう教育、指導、教授の精神を持つか。原点に立ち返り、気を付けなければならないなと改めて感じています。

<文/堀口智之

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