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胎中千鶴『あなたとともに知る台湾―近現代の歴史と社会―』(歴史総合パートナーズ⑥)清水書院(2019年)

「高等学校の新科目『歴史総合』に向けた新シリーズ!」ということなので高校生向けなんですが、大人の台湾入門書としてもバッチリの優れものです。台湾については、これまで習ってこなかった方が多いでしょうからね。

ところで「歴史総合」ってなに?とネット検索してみたら、こんなページに行きあたりました。

日本学術会議さん、ちゃんとお仕事されてます。(ホントだ)

「本書は、日本と台湾という『ふたり』の関係に力点を置きながら、台湾の近現代史を概観」したものです。台湾についてすべてを網羅しているわけではありませんが、100ページほどに短くまとまっているぶん入門者にとっても、そうでない人にとってもわかりやすくなっています。

はじめに
―なぜ台湾は「友だち」なのか―
1.台湾のプロフィール
―「友だち」はどんな「人」なのか―(1)~(6)
2.日本統治期の台湾
―「ふたり」はなぜ出会ったのか―(1)~(4)
3.戦後の台湾社会
―「友だち」はどんな道を歩んできたのか―(1)~(3)
4.現代の台湾社会
―「友だち」はどんな明日を迎えるのか―(1)~(2)
おわりに
―「ふたり」がこれから歩く道とは―

研究者である著者の体験談もおりまぜて、読者に語りかけたり問いかけたりしながら解説が進んでいきます。専門書からの奥深い引用もあり、内容的には「高校生にわかってもらえるかなぁ」という箇所もあります。

とはいえどうしても控え目な表現になってしまうでしょうから、大人のみなさんは「実際はこんなもんじゃないよねー」とか、いつもより想像力を働かせた方がいいかもしれません。

さらに深く知りたいという方には、各パート末尾の注に参考文献が紹介されています。以下はその一部について。

呉濁流さんは、日本語教育を受けた客家系台湾人作家です。日本植民地統治時代の台湾社会や(ひそかに書き継いでやっと完成させた)、二・二八事件を(発禁処分になった)日本語で描いています。読みやすい文章だったという記憶があります。(遠い目)

周婉窈(著)濱島敦俊 (監訳)『増補版 図説 台湾の歴史』平凡社(2013年)
監訳者あとがきにこうあります。

台北の「霖英文化教育基金会」は、1994年、設立直後の「中央研究院台湾史研究所籌備処(設立準備室)」に対し、台湾のあらゆる年代の読者に読まれるような、多くの図版や写真を使った台湾通史の編述を要請し、着任したばかりの周婉窈専任講師がこれを担当することになった。

霖英文化教育基金会っていったい何者?(怪しすぎる)

初版は1997年10月。1998年9月に第2版。2007年2月の日本語版で戦後編を追加。2013年2月の増補版で本編10、11章を追加しています。(英語版や韓国語版などもあり、出版の都度に内容を追加しているようです)

年代順に並んでいますが通史ではなく、著者が選んだトピックを中心に記述されています。台湾の民主化が急速に進んだ時期の台湾社会を反映した、「中華民国の歴史」ではない「台湾の歴史」を模索した著作です。

未来の台湾史の叙述は、どのように民族集団と歴史単位の問題を処理すればよいのだろうか?私たちにはまだわからない。本書は、こうした手さぐりの中で、台湾が直面している、そして検討すべき課題をいくつか明らかにし、読者の参考に資するために書かれた。私たちは一つの系統だった通史を書くつもりはない。現在の研究成果は、まだそのような試みをすることを許さないのである。

「中華民国の歴史」はさておき、(冷たいじゃない)「台湾の歴史」の方もまだ発展段階で、政治や社会の影響から無縁ではいられません。(統独問題、台湾ナショナリズムなど)本書も偏った見方であることに注意が必要でしょう。「歴史」と呼ぶにはあまりにも恣意的で扇情的です。

これには日本統治時代とそれにつづく国民党政府時代に、台湾では「台湾の歴史」を学ぶことができなかったという事情があります。

わたしが1981年に台湾を離れてアメリカに留学したのは、日本統治期の台湾の歴史を研究するには、「戒厳令」統治下の台湾を離れなければならないと当時考えていたからだった。

戴國煇『 台湾 ―人間・歴史・心性―』岩波新書(1988 年)
内容がつまっているのでけっこう手強いんですが、最新のまともな一般向け通史はこれになるのでしょうか。(かれこれ32年…)この本を土台にして新しい情報を加えていけば、道を誤らないで済むかもしれません。(^^;)じつは最初に取り上げるつもりだったんですが、「ちょっと古いかなぁ」と思って新しい本を探していたらこんなことになってしまって…

中華民国(台湾)で「台湾の歴史」を研究することが許されていなかった時代、それが可能だった場所のひとつはかつての宗主国である日本でした。ただし、そんなことをすると台湾にはもう戻れなくなります。(ゲッ)

台湾での民主化運動にさきがけて、日本やアメリカでは海外在住「中国人」による反体制運動がありました。著者はこうした台湾独立運動や中国統一運動には批判的で、公平で理性的な立場で台湾研究を続けた数少ない人物のひとりです。

 幸いなことに、私は一九五五年秋以来、東京を中心に、いわば「外」から台湾を観察できる立場を確保し、かつ堅持することができて、今日に至っている。微力で、スローテンポではあるが、あるべき台湾史像の構築にも情熱とささやかな努力を積み重ねてきた。
 台湾史の解釈と台湾史の書き方をめぐって、台湾を中心に内外で繰り広げられている、喧騒に満ちた政治的渦から、ある程度の距離に自分を置くことができたとも、自分では考えている。
 この「有利」な立場と相対的な自由度を駆使して、変革をめぐる底流と方向の解読を最終的な狙いと定めて、転形期台湾の全体像のスケッチを試みるべく、あえて一石をここに投じてみることとした。

1988年1月に蒋経国総統が亡くなり、台湾は激動の時代に突入します。研究者は政治動向や社会変動の分析などに没頭し、一般向けの通史までは手が回らないのでしょう。

さらに難解になりますがあわせて読みたい本が、(注にはないけど)若林正丈『台湾―変容し躊躇するアイデンティティ』筑摩書房(2001年)です。これも、かれこれ19年…

胎中千鶴先生はこう語りかけます。「あなたがすぐに台湾を上手に理解できなくてもよいのです。大事なことは、相手を多角的に知ろうとする気持ちです」

この本は「台湾と日本がともに歩む」ために、著者が用意してくれたきっかけなのでしょう。「さて、それでは一歩を踏み出し、あの親切な『友だち』に会いに行きましょう…本書のページを閉じたあとは、すべてあなたの自由です」

そういうことならお言葉に甘えて、大人向けに外交関係を簡単に説明させていただきたいと思います。やっぱり高校生向けだと、ヤバいことは書きづらいでしょうからね。(そりゃそうだ)

それに前回やった若林正丈先生の論文についての解説が不十分でしたので、この機会に具体例を示してみようという目論みです。


本書の「1.台湾のプロフィール(6)日本と国交がないのはなぜ?」には下記引用太字の説明があります。

当時、世界を二分する冷戦体制のもとで、アメリカが束ねる「資本主義陣営」( 反共産主義陣営)の一員だった日本が選ぶ相手は、もちろんひとつしかありませんでした。1952年、中華民国台湾と「 日華平和条約」を結びます。これはすなわち日本が台湾を「 唯一の中国」とみなしたことを意味し ます。

別にこれで十分なんですが、それでは「ふたり」の関係は進展しません。強引にツッコんで話のきっかけを作ります。

当時、世界を二分する冷戦体制のもとで、アメリカが束ねる「 資本主義陣営」( 反共産主義陣営)の一員だったイギリスは、1950年1月に中華人民共和国を「 唯一の中国」として承認しました。

あれっ、おかしいですよね。同じ条件だったイギリスは中華人民共和国を承認したのに、なぜ日本はできなかったのでしょう。(白々しいぞ)

五百旗頭真(編)『戦後日本外交史』(第3版補訂版)有斐閣(2014年)の72ページにある、1951年12月にジョン・フォスター・ダレス大使宛に出した「国民政府との講和に関する吉田書簡」についてのコラムから一部を引用します。(有斐閣さん、長いけど許して)

…サンフランシスコ講和会議では、中華人民共和国を承認したイギリスと、承認していなかったアメリカとの間で、日本と中国との関係は独立回復後の日本の決定に任せるという妥協が成立していた。…しかし、アメリカ議会には反共産主義の感情が強く、上院では、対日平和条約批准の前提条件として、日本が中華人民共和国を承認しないように求める声が高まった。その結果、ダレスの要求に応じて、吉田はこの有名な書簡を出さざるをえなかったのである。ただし日本政府はこの書簡に基づいて結ぶことになった日華平和条約の効力が及ぶ範囲を国民政府の支配の及ぶ範囲に限定し、将来に含みを持たせることはできた。

吉田首相はイギリスとの約束を破ったアメリカの外交圧力に屈して、しぶしぶ1952年、中華民国台湾と「 日華平和条約」を結んだようです。

独立回復後も日米安全保障条約によって国防をアメリカに丸投げしていた日本は、アメリカの非公式の植民地とも呼べるような弱小国だったのです。ただし沖縄、奄美、小笠原は公式の植民地でした。ちなみに南樺太、千島列島、色丹島、歯舞群島はソ連が併合。(なんてこった)

吉田首相の本音を想像してみると、こんな感じだったんじゃないでしょうか。「どっちか選べって言われても困っちゃうんだけど、広大な国土と巨大な人口を擁する中華人民共和国との通商関係は日本にとって死活問題だから絶対に諦めるわけにはいかねえ」(この回想シーンはフィクションです)

日中戦争と第二次世界大戦で、日本がとてつもない被害を与えた地域を実効支配している中華人民共和国と平和条約を結べないのも、日本にとって深刻な問題でした。(どないしょう)

じつはアメリカは1949年8月に「中国白書」を公表し、一度は中華民国(台湾)に見切りをつけていました。ところが1950年6月に勃発した朝鮮戦争で状況が一変します。

アメリカは第七艦隊を台湾海峡に派遣し、両者に戦闘を止めさせることで中華民国(台湾)を中華人民共和国の侵攻から守ります。(やったら負けちゃう)

そして中華民国(台湾)の国際的地位を保全し、共産主義の拡大を阻止するために(封じ込め政策)、「 日華平和条約」が重要な意味を持つことになったのです。(香港を領有していたイギリスは関与政策を採用)

もし朝鮮戦争が起こっていなかったら、中華民国(台湾)は中華人民共和国によって「解放」されていたでしょう。(元も子もない話はやめて)

ところが国共内戦の敗者であるはずの中華民国(台湾)が、アメリカの後ろ盾をえて国連安保理の常任理事国として君臨し続けたのです。1954年12月にアメリカは中華民国(台湾)と米華相互防衛条約を結びます。

国連の中国代表は、中華民国(台湾)なのか中華人民共和国なのか(中国がひとつだとすると、どちらの政府を中国の代表にするのか)。「中国代表権問題」は、毎年の国連総会で決議案が審議され採決がおこなわれることになります。(そんなのおかしいじゃん)by ソ連と東側諸国

はじめのうちは余裕で中華民国(台湾)が防衛していたのですが、だんだん接戦になり、過半数じゃ心配だから三分の二以上の多数票を集めなければチャンピオンが防衛というルールに変えたりします。(ズルい…)

時は流れて1971年4月。アメリカの卓球チームが中華人民共和国を公式訪問します。ピンポン外交のおかげだったのかどうかはともかく、アメリカは中華人民共和国と急に仲良くなります。ホントの理由は書ききれないので省略します。(手抜き)

1971年7月にキッシンジャー大統領補佐官と周恩来首相が、数年後にはアメリカと中華人民共和国で外交関係を結ぼうと内緒で約束します。(隠密外交)そしてニクソン大統領が、中華人民共和国を来春訪問するつもりだと発表します。(第一次ニクソン・ショック)

1971年10月の国連総会。会場はアメリカと中華人民共和国の不倫話で持ちきりです。(不謹慎ですみません)スキャンダルの煽りを受けて中華民国(台湾)は王座から陥落。いたたまれず国連から脱退します。ついに新チャンピオン、中華人民共和国が誕生しました。国際社会での実力を考えれば妥当な成り行きだったとも言えます。(勝負とは非情なもの)

いえ、これが正しいとかどうとかいう話ではないんです。国際社会は不公平でハチャメチャなところなんです。(学校では教えてるのかな?)

1972年2月にアメリカと中華人民共和国は上海コミュニケを発表。アメリカは次のように表明しました。

米国は、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している米国政府は、この立場に異論をとなえない。米国政府は、中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する。かかる展望を念頭におき、米国政府は、台湾から全ての米国軍隊と軍事施設を撤退ないし撤去するという最終目標を確認する。当面、米国政府は、この地域の緊張が緩和するにしたがい、台湾の米国軍隊と軍事施設を漸進的に減少させるであろう。

ところで国連とは、多国間条約(国連憲章)によって国家が集まった国際機関です。国連に加盟すると、すべての加盟国から国家として承認されることになります。(あんたは一人前の国だ)

1972年9月。日本は名実ともに大国になった中華人民共和国と国交を結び、中華民国(台湾)と断交します。(だってアメリカが乗り換えたんだもん)

中華民国(台湾)も中華人民共和国も「一つの中国」を主張していたので、両方と同時に国交を結ぶことができなかったのです。(どっちも意地っ張りなんだから)

1979年1月にアメリカと中華人民共和国はやっと外交関係を樹立します。(いろいろもめてたの)

1979年4月にアメリカ議会は台湾関係法を制定します。これはアメリカ国内の法律ですが、同年末で失効する米華相互防衛条約に代わる事実上の軍事同盟です。(自主的にやってるから軍事同盟じゃないもんね)

アメリカは台湾関係法により、防衛のための武器を中華民国(台湾)に売っています。そして台湾海峡で緊張が高まると、横須賀と佐世保を母港とする第七艦隊が派遣され睨みをきかせます。(オラオラ騒いでんじゃねえ)

アメリカは上海コミュニケで表明した「中国はただ一つ」という原則を守りながら、台湾関係法によって中華人民共和国が武力で中華民国(台湾)を統一するのを防いでいるのです。

中華民国(台湾)を完全には見捨てずに、中華人民共和国と良好な関係(そうは見えませんが)を保つための苦肉の策ですが、これが国際社会における中華民国(台湾)の現状を固定化させることになっています。(統一も独立もダメよ)

現在の台湾は、国際法で定める「事実上の政府」と考えればわかりやすいでしょう。

ところが台湾では、民主化の進展にともなって「中国はただ一つ」ではないと主張する人たちがどんどん増えてきました。(見ないふりしてたのに)by アメリカと中華人民共和国

踏んだり蹴ったりの国連脱退と思いきや、国際的孤立が起爆剤となって(やっべえなんとかしなきゃ)民主化が進展したのです。(すったもんだありますが)

アメリカや国際社会にアピールするためにも避けられなくなった民主化にともない、中華民国の台湾化が進みました。そしていまでは台湾の大多数の人たちが「台湾の将来を決めるのは、自分たちであるべきだ」と考えています。(そんなこと言われても)by アメリカと中華人民共和国

けれど台湾の前途には依然として大きな壁が立ちはだかっています。国連に加盟するためには安全保障理事会の勧告が必要です。ということは常任理事国として拒否権を持つ中華人民共和国の合意がなければ、台湾は国連に加盟できないのです。(無理ゲー)

国連憲章 第4条

1.国際連合における加盟国の地位は、この憲章に掲げる義務を受託し、且つ、この機構によってこの義務を履行する能力及び意思があると認められる他のすべての平和愛好国に開放されている。

2.前記の国が国際連合加盟国となることの承認は、安全保障理事会の勧告に基いて、総会の決定によって行われる。

結局のところ、台湾は中華人民共和国との対話による紛争の平和的解決を目指すほかないのでしょうか。(ふりだしにもどる)

台湾を理解するためには、中華人民共和国やアメリカ合衆国、そして日本へも視野を広げましょう。





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