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「教養」の真の理解

この記事は広い緑豊かな庭が見えるゲストハウスで書いている。小旅行気分で貸し切り状態の広いゲストハウスに宿泊することにしたのだ。

以前に雑誌でワーケーション(観光地やリゾート地でテレワーク(リモートワーク)を活用し、働きながら休暇をとる過ごし方)に関する記事を見たが、今まさに自分はそういう環境だ。これなら仕事もはかどるだろうなと思う。

いつもは満員電車の中で立ったまま記事を作成しているので、ゆっくり腰掛けて文章を書けるのは幸せ以上の何物でもない。


そのような緑の中で今日は「教養」について考えたいと思う。

「教養を身に付けておいた方がいい」「教養のために勉強しています」というような言葉はしばしば聞く。「教養」という言葉は数ある言葉の中でも、重みがあって響きがいいと個人的には思う。

さて、では「教養とは何か?」と問われた時に、迷いなく簡潔な答えを出せる人はいるだろうか。これがけっこう難しい。私も教養を身に付けたいと願う1人であるが、教養とは何かということを深く考えたことはあまりない。


本日も『京大現代文で読解力を鍛える』から文章を引用して考えたいと思う。今回は野上弥生子『ローマへ旅立つ息子に』という文章だ。これは息子がイタリア留学へ行くときに「真の教養とは何か」という主題で激励のメッセージを送った書簡らしい。

それではなにが教養かということについてはいろいろ複雑な規定を必要とするでしょう。しかし最も素朴な考え方をすれば、知識が単に知識として遊離しないで総合的な調和ある形で人間と生活の中に結び付くことだといってよいだろうと思います。

この節で「教養」が何かということが簡潔に述べられている。ポイントは①単なる知識ではないこと②人間の生活に結び付くことだ。

教養とは単なる知識ではいけない。単に理論や考えを知っていることや単に単語や用語を知っているだけでは、それは教養ではない。

また、人間の生活に結び付いていなければならない。単に何かを知っている、覚えているというだけでは物知りや博学の域を出ない。人間の生活に関係することで、知識が教養として生きるのだ。


野上氏のこの文章は自分にスッと入ってきた。単に本を乱読することで教養を身に付けようとしていた私であるが、それだけでは単なる物知りで終わってしまう。誰かの生活や何かの役に立つことがあって教養となるのだ。

もちろん人によって「教養」の解釈や理解は異なる。野上氏の考えだけが「教養」ではないだろう。ただハッキリと言えることは「教養」には何かしらの条件がある。それを満たせなければ知識は知識でしかないのだろうと思う。

そう考えると「本物の教養」を見つけている人というのは少数なのではないか。「教養を身に付けよう」という言葉以上に教養を身に付けることは難しい。


知識のままではいけない。

頂けたサポートは書籍代にさせていただきます( ^^)