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怖い「何か」

読書が好きで普段からちょこちょこと本を読んでいる。一応平日はフルタイムでお勤めに出ているので、本を読むのは往復の通勤電車帰宅後になる。あとはもう土日にゆっくり読むしかない。

というかゆっくり読めるのは土日くらいで、平日は時間に追われながらの読書になる。本は確かに持ち運べるし、片手で読むこともできる。だが、やはり文脈を考えたり、内容を頭で反芻するにはまとまった時間が必要である。忙しい中の読書ではなかなか集中して読むことは難しい。時間ばかり気になってそわそわしてしまう。

だが本当に興味のある本、自分にぴったりの本を読んだときはかなり集中できる。本当に「時間を忘れた」ように読みふけってしまうことがある。人間はやはり興味のあることにはとことん集中できるのだと改めて感じる。最近そんな本に久しぶりに出会った。

それは『大阪怪談』という怪談系作家の田辺青蛙氏の著書である。ひょんなことからこの著作のことを知り、買ってみた。

内容は田辺氏が様々な人への取材やインタビューによって得た、大阪に関する怪談や不思議な話を短編でまとめたものである。大阪にある実際の地名やスポットが出てくるため、単に怪談話を聞くよりもリアリティが増している。

個人的には大阪在住ということで大阪にはかなり馴染みがある。そして都市伝説や怪談、フォークロア、ネットロア、オカルトといったモノが大好きだ。そんな私にとってこの『大阪怪談』はかなり興味の惹かれる1冊だったのだ。

普段新書やビジネス書を読む時よりも、集中してかなり早く読み終えてしまった。


大阪にはずっと住んでいるが、本には私の知らない怪談や話が載っていた。私は霊感などなく、不思議な体験をしたことないが、大阪にも様々な話があるのだということを知った。本書の話はどれも曖昧な感じで終わるので、テレビ『世にも奇妙な物語』のように続きが気になるところで終わる。

Amazonのレビューではそれが気に入らずに、「話が曖昧に終わる」ということで低評価をつけている人がいたが、それが怪談や言い伝えのおもしろい部分でもある。


そもそもで言うと、このような怪談や不思議な話というのはどこでどういう風に生まれるのであろうか。何か話が生まれるところには共通点や見えない力があるのだろうか。

私個人的には「怪談」と言えば山中や田舎のエリアで生まれるモノだと思っていた。山や田舎は総じて暗い、光が無い。そういった環境では暗い中で見えたモノ(動物や植物)が例えば霊や妖怪に見えてしまうこともあっただろう。言わば、そのような「見間違い」「思い込み」が話を作り出すものだと思っていた。

だが、『大阪怪談』には都市部での話も多くあった。言われてみればそうだ、大阪に限らず全国の都市伝説や学校の怪談などは、田舎や山中に限られない。確かに「大阪」と言っても大阪市を中心とする都心部を離れると、郊外には田んぼが多くあったり、北摂や南大阪には深い山もある。怪談が生まれる条件は十分に揃っている。

だが、本には大阪城や京橋、天満、天満橋、天王寺と言った大阪の都心部の話も多く掲載されている。そしてそれらの話は例えば「豊臣家の怨念」「大阪大空襲」「地域に根差す地蔵」と言った歴史的な背景を基に語られることが多い。何か話が生まれる場所というのは「その地域の特異な歴史」や「言い伝え」「事件・事故」がある場合が多いのである。

そういった実際にあった歴史や事件、出来事が語られる中での聞き間違いや言い間違い、誇張や脚色によって、そういった怪談や不思議な話は生まれるのだろう。福岡県で有名な都市伝説と言えば、2020年に映画化もされた「犬鳴村」の伝説があるが、あれも実際に存在する「犬鳴峠」や「旧犬鳴トンネル」「犬鳴ダム」に絡められた話として語られる。


怪談や不思議な場所というのは「実際に存在する場所であり、そこに『暗い』『事件があった』などという事実が加えられた時、その地域やスポットは『何かある場所』として捉えられる」のであろう。そこに様々な脚色や憶測が飛び交って、様々な怪談や怖い場所に変化していくのだ。

我々は「何か」に期待する生き物である。「何かあるのではないか」「何か起こって欲しい」そういった無意識下での欲求・欲望は怪談を生み出す一つの要因にはなっているだろう。もっともパワースポット的な力や霊的な力が存在しないとは言い切ることができないが。

大阪には多くの地域や建造物、山も海もある。怪談や不思議な話が生まれる余地は十分にある。『大阪怪談』に乗っていない話もまだまだたくさんありそうだ。引き続き大阪や怪談に関する個人的な考察や研究を続けていきたい。


「怖い」は生み出される








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