まだまだ青く、まだまだ弱い。
繰り返し歳を重ねて、少しは大人になったような気がしていたけれど
まだまだ自分の未熟さ、心身の弱さに打ちのめされる日々。
「見つめたくない、認めたくない」という気持ちを一旦置いて、事実とだけ、素直に向き合ってみる。
大切な人ほど、大切にすること
人と接する時は「相手の立場に立って物事を考える」ということを大切にしてきたつもりだ。
自分だけの目線では見えないもの
自分だからこそ、客観的に見えるもの
相手の、これまでの経験や気持ちに思いを巡らせ、想像すること
一歩外に出ると、本当に色々な人がいて
自分と似たような価値観を持ってはいても
全く同じ人なんてほとんどいなくて
それこそ「?」と、理解できない感情や言動も見ることになる。
その時に
流したり、飲み込んだり、受け入れたりすること。
少しずつ、“外では”それができるようになって
それが「大人になった」ということなのか、嬉しいことなのか、よくわからなくなっていた。…でも、そうでもしないと、やっていけないことも事実だった。
あまり続けたり、溜め込んだりしてしまうと
“ずっと我慢しているような状態”になって
心が落ち込んできたり、体が思い通りに動かなくなったりしたから、ほどほどに発散しながら、うまく折り合いをつけていく。
しかし、これを
自分の大切な人たちにも、同じようにすることの難しさと
「それでいいのだろうか」という思いがある。
大切な人だからこそ、本心を知ってもらいたい。
でも、ぶつかることも出てきてしまうかもしれない。
いくら身近な存在でも、配慮や思いやりは必要だ。
だからと言って、他人と同じように気を遣いあって接していたら、なんだかちょっと寂しさを感じないだろうか。
…本当は
大切な人ほど、大切にしたいのに。
どうして“赤の他人”にはできることを
“大切な人”にはできない時があるのだろう。
他人と思わないからこそ
「こうあってほしい」とか「わかってほしい」とか、「かつて自分がそうしたように、自分にもしてほしい」とか…そういう気持ちが生まれてしまうのだろうか。
…もしかしたら、これを「甘え」というのかな。
「自分とは違う」ということ
「自分だったら、こうする」を相手に押し付けないこと。
例えば
「今日はこれが着たいから」と、平日に街をコスプレして歩いたり
お店の店員さんに横柄な態度を取ったり
誰かの家にお邪魔した時に、“我が物顔”でくつろぐことは
私にはできないことだ。
だからといって
外で見かけた時に、意見することは基本的にないだろう。
しかし、おそらく自分の家族や友人が
コスプレすると言ったら、「え?どんな?」と興味津々だろうし
横柄な態度を見たら、店員さんに謝ったり、本人に注意してしまうと思う。
誰かの家では「何か手伝うことないかな」と、それとなく気にすると思う。
…でも、どんなに身近な存在でも
やはり自分とは少し違うのだ。
長年の付き合いで、100%同意見だと信じて疑っていないことって、本当にないだろうか。と、ふと思った。
「あれ?」と思った時や
新たな一面が垣間見えた時に
十分に分かり合えていて、同じ思いなんだと思っていたけれど
…そうか。“これ”に関しては、自分とは違うんだ。
じゃああなたは、そのままでいいよ。
…と、素直に受け入れられるだろうか。
相手が“赤の他人”だったら、すんなり受け入れられることが
“大切な人”相手だと、内容によってはショックを受けたり、受け入れることがなかなか難しかったりする。
でも実際に、自分にとっての正義が、絶対に正しいなんてことはないのだ。
当たり前のことなのに、なぜか頭からポーンと抜けていたような気がする。
もっと、話そう。
話さないと、わからないことってあるよなあ、と改めて思う。
いくらたくさん会話はしていても
意外と大切なことには触れていなかったり
疑いもせず完全にAだと思っていたけれど、実は相手はBだと思っていて
それに気づくことができなかったり。
顔の表情、態度、言葉。
「同じ空間で過ごす」というだけで、色々な情報が目につく。
その時間が長ければ長いほど
あれ、いつもと違うな。という小さな変化にも気づけるし
その都度「どうしたの」と話すことができる。
反対に、話さなければ
相手の“わからないこと”は増えていく。
憶測に拍車がかかることもある。
物理的に距離が離れれば、どうしてもその時間は減ってしまうし
心の距離も、どんどん遠のいていってしまうような気がする。
もちろん
会えば、元通り。なんて場合もあるけれど
その空いた時間を無かったことにはできないような気もするから。
だから、なんでもいい。
ちゃんと話すことって、大事だ。
相手のことを知る上で、とても大事なことなんだ。と思う。
「関係を続けたい」とか「壊れないように大切にしたい」と思う相手になら、なおさら。
少し気がかりなことがあると
他のことに集中できなくなったり
夢に登場したり
その夢を引きずって、午前中立ち直れない日などもある。
体も、心も
…まだまだ、弱いな。
そしてまだまだ、未熟だな。青いな。
と、思った9月の始まり。
自分の未熟さを知っていることは、きっといいことなのだと信じたい。
この先、自分のことを今より好きになれる可能性も持っている。
私は私の未熟なところを知っている。
私の弱さも知っている。
実際、今回書いたこと以外にも欠点はたくさんある。
その上で、自分の好きな自分でいられるように
今日も考えて、綴って、見つめ直して
生きている限りは、人と、自分と、向き合っていくんだ。
そして
私は、自分の人生“だけ”に集中することが苦手なようだ。
時には誰かのことを考えるのをやめて
自分だけのために生きることも大切にしよう。
まあいっか、忘れよ。
アイスでも食べよー。というような気楽さを、大切に。
さあ今日は、餃子食べるぞー。
2024.9.1
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