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「信じる」という選択。

中高生の頃。
「頭痛がひどいので、学校をお休みします」

この言葉を、言葉通りに信じてくれた先生が、どれくらいいただろうか。

…そして、大人になった今でも同じような体験をすることがあって、私は時々考える。「信じること」について。


本当なのに。


「頭痛がひどい」という言葉に嘘はなかった。

ベッドから起き上がれないほどの痛み。
殴られているような、脈打つような、締め付けられるような…と、色々な痛み方がある中で、学校へ行き、授業を受けられるほどの元気がなかったことは事実だ。

これが、“頭痛”でなく、“腹痛”でも同じだ。
“吐き気”でも、“背中や腰の痛み”でも、“熱が出た”でも、同じ。

その言葉をそのまま信じてくれたなら
私の予想する返事は

「大丈夫?」
「心配です」
「お大事にね」
「今日はゆっくり休んで」
「明日は良くなるといいね」

…こんな感じが、自然なやりとりのような気がする。


お休み“一日目”は、そうかもしれない。


…しかし。
お休みが2、3日以上続くと、こうはいかなくなってくる。


「学校で何か嫌なことがあった?」
「何か不安なことがあるの?」
「しばらく休んだから、学校に来づらくなっちゃったのかな?」
「大丈夫だよ。みんな待ってるよ」
「誰にも言わないから、話してごらん」

…こんな風に、頭痛とは別の要因があるのでは、と
素直に言葉を受け止めてもらえなくなる場合がある。

言葉の裏側に、きっと本心が隠れているのだろうと、探りを入れているように感じることがある。
体調不良の「原因」を突き止めて、解決しようとしてくれているのだろう。


実際に、そのケースもあるかもしれない。

本当は人に話せていない思いがあって
それが、体調に現れ
結果、お休みしている場合だ。


…でも、もしも。
本当に体調不良“だけ”が理由で、学校をお休みしていたら。
あるいは、どうしても言えない事情があるのだとしたら。


「特に、心配事はありません」
「頭痛がひどいんです。それだけです。」
「誰かに何かされたとか、全くないです」

こう言う他ない。


最終的には

「本当です」
「信じてください」

と言いたくなってしまう。


実際に、中高生の頃。
体調不良でしばらく休んでしまったことがある。

その時に感じたことだ。

特に友人と何かあったわけではなく
授業についていけない、とかでもなくて
普通に楽しく学校生活を送っていた頃に、体調を崩した。

本当に、なんの心配事もなく
ただただ頭の「激しい痛み」だけが悩みだったため
それ以外の要因を見出そうとする先生方に対し、
最初は「不思議なことばかり言うなあ」と思っていたけれど、だんだんと「なぜ言葉通りに信じてくれないのか」と言う気持ちになっていたような気がする。


…そして、今。


数ヶ月前から続いていた、面接、勉強、試験、病院、引越し、手続きなど…少し忙しない日々が続いたところに
引越し先の住居のトラブルで、食事や睡眠、トイレが使えないなどの影響をもろに受け、生活が乱れてしまっていた。

急遽、家の工事が必要になり
工事が終わったところでついに、体調を崩した。
「さあ、これから頑張るぞ!」と思っていたのに…最悪のタイミングだ。


この、家のトラブルと体調不良で結果、数日間休むことになり、謝罪の日々が続いた。…すると

「研修で嫌な人いたかな?」
「続けて休んで、来づらくなっちゃった?」
「一人暮らしは、初めてだっけ?」

…おお、これは。
なんというか…この感じ、知ってる。と思った。


悲しかったのかな


私は、傷ついたのだろうか。
自分でもよくわからない。


最初は、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいで…でも、家のトラブルは自分自身も困り果てていることで、どうにもならなかった。
その代わり、自分にできることをやろうと
勉強したり、薬局やホームセンターであれこれ買って処置したり…今できる目の前にあることをやった。

その後、体調を崩したのは完全に自分の責任で
何度も何度も謝罪をして
一日も早く復帰しようとしていた。


けれど、その想像の斜め上の言葉たちに
ちょっとだけ、心がしぼんでいくのを感じた。


「研修…?嫌な人…?」
「「一人暮らしはもう何回かしている」と伝えたはずだし、そのことと今回のことはどう関係があるのだろう…?」

そして何よりも
行こう行こうと準備をしているところへ
「来づらくなっちゃった?」
これは、学生時代に先生に言われたことのある言葉と全く同じだ。


なぜ言葉通りに信じてくれないのか。
嘘は一つもないのに。

この気持ちが肥大していく。



もちろん、私のことを心配してくれたのは事実だろう。
もしも何か要因があるのだとして、それが、自分に解決できるかもしれないことなのだとしたら。ぜひ教えて欲しい、力になるよ。という気持ちがあったのかもしれない。
…当時の学校の先生もそうだったのかもしれない。


そして、大人になった今だから、わかることが一つ。

事務的な話だ。
学校にしても、会社にしても
休む理由や、日数、復帰できる目処などが知りたい。学校だったら成績やクラスに、会社なら他のスタッフへの分担などにも影響を与えてしまうから。

その事務的な要素が、
学生時代はなんだか寂しくて
大人になってからは逆にありがたいような気がする。


…結局、おそらく私は「悲しい」と思ったのだ。

最初は
「行けないこと」が悲しい。
「痛いこと」が悲しい。
「頑張る気力はあるのに、頑張れないこと」が悲しいと思っていた。

でも気にかけてくれていて、「嬉しい」とも思っていた。


しかし、何度「そんなことはない」と言っても
繰り返し聞いてくる、“体調以外”の心配。


言葉通り「信じてもらえないこと」が悲しいと思うのと同時に
「頑張る気力を奪うもの」でもあるように感じた。

不思議なことに、聞かれれば聞かれるほど、元気がなくなっていくのだ。
本当に体調が良くないだけだから、今は少し休ませてほしい、と。


そして何よりも
中高生の頃の、自分にとってはあまり喜ばしくない記憶と感覚を鮮明に呼び起こす、ちょっとだけショックな出来事だった。

大人になっても、人と関わって生きている限り
こういう思いをすることはあるのだ。


相手の言葉を尊重する大人に。


今、私は
今度は自分自身が「先生」と呼ばれることもある仕事をしている。


もちろん、明らかに言葉の裏側に本心が隠れている場合もあるだろう。

でも、本人が隠しているのなら
それなりの事情があるのかもしれない。

だからできるだけ、
本人の言葉を疑うことなく、“言葉通りに信じてあげられる大人”でいたい、と心から思った。

その相手が“子供”であっても、“大人”であっても。

大人だって、悲しい気持ちになることもあるのだから。


“全てを素直に話している人”に対しては
「信じてくれない」という思いをさせたくないし、そもそも駆け引きの必要がない相手に対して、言葉を疑うこと自体が失礼だとも思う。

“何かを隠している人”に対しては
まずはそのまま信じて、話してくれるまで待つ。
無視はしない。
常に気にかけて、なるべく話しやすい、話したくなるような空気感は作るつもりだ。


人によって違うものに対して、「この時は、こうしよう」などとマニュアルを考えても、あまり意味がないのだろう。

何が正解かわからないけれど

少なくとも
“相手の言葉を尊重する大人”でありたい、という今の気持ちを残しておこう。


嘘だとわかっていても、本人の言葉を信じること。

…それは一種の“優しさ”のような気もするから。


童話とは違う世界


では、イソップ物語に登場する「オオカミが来た!」と嘘をつき続ける“オオカミ少年”を、信じ続けることは正しいのだろうか。


“泣きながら「大丈夫です」と言っている子供”は
辛くて泣いているのかもしれないし
声をかけてくれたことが嬉しくて泣いているのかもしれない。


“体調不良で会社を休んだ同僚”の元気な姿を、街で見かけたとしたら
病院の帰りで、少し回復したのかもしれないし
仮病かもしれない。


きっと事情があるのだろうと、信じて待つことはできるだろうか。


「信じる」の基準を設けるのは、難しい。


ピノキオの鼻ように
嘘か否か、目に見えてわからない世界だからこそ

「嘘か、真実か」を置いておいて

「信じるか、信じないか」を自分で決められるんだ。



2024.7.3


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