[書評]一番幸せだった日は明日かも。そう思って今もこれからも生きて。
優しい言葉にあふれていた。痛みから発する語が、僕の胸をうずかせた。詩人・岩崎航さんの詩を見たとき以来かもしれない。弱さの力を丁寧に句につなぐ「美」に触れたのは。ナナチルさんのご著作『何もいいことがなかった日の君へ』は、言葉少なにそっと、あなたに寄り添ってくれるだろう。
精神病棟にいた頃を思い出した。
トラウマではない、ずっと昔のこと。僕は、精神疾患を持つ人が収容される病棟にいた。重く、病んでいた。窓には鉄格子。そこから見えるのは、枯れ木が刺さった狭い荒れ地。それと、全方位にある病棟(建築物)、壁、壁、壁。
病室のドアには、のぞき穴。もちろん、いつ自殺するかわからない僕を看護師が監視するためのもの。否、覗くだけでなく、1時間に3~4回ほど、ノックなしにドアを開け、看護師が僕の様子を確認しに来た。「精神隔離病棟と牢獄は同じ構造をしている」。作家の佐藤優さんがそう書いていた。トイレにまでのぞき穴があった。牢獄もそうなのだろうか。
まだ「鬱」が珍しかった時代である。「鬱病の人とどう向き合うか」みたいな本を書店で見ることはなかった。「『頑張れ』って言っちゃダメらしい」くらいの認識がせいぜいで、精神疾患者にはきつい視線が向けられた。
僕は、入院した日に「とうとう来てしまった」と思った。「人生、終わった」と思った。鳴り物入りで社会に出て、挫折。しかも原因は不明。自分で言うのもナンだけれど、周囲からけっこう期待された人材だった(スミマセン)。その期待が一瞬で霧消していく「かげろう」な感じに、僕はただただ、驚き、泣いた。
いつの間にか「なんちゃって相談員」に。
社会復帰した頃からだったと思う。当時「mixi(ミクシィ)」というSNSが流行っていて、僕は匿名でそれに参加した。「匿名だから明け透けに書くかぁ」と、プロフィールに病歴を添えた。
だからかもしれない。何カ月後かには、僕はmixiお悩み相談員になっていた。心身の病、家庭不和、貧困、誰からも必要とされていないモヤモヤ……。じっくり、ゆっくり、懇々と、色々な人と語り合った。人が人を呼んで、多い時には15人程の相談を同時並行で受けた。もちろん僕自身も悩んでいた。だから、mixiにはその時の気持ちを率直に投げた。散文と、詩。あと、相談してくれた人が心底よろこんでくれた言葉の端々。じっくり書き留めた。
みな、行き場がなかった。居場所がなかった。死にたいと言っていた。僕もそうだった。社会不適合者で存在自体が迷惑でしかない(僕が食糧を得て生き延びるより、他の人に食糧を回した方が良いと本気で思っていた)。存在が負荷。消えてしまいたかった。
ナナチルさんがこう書いている。
私には君の痛みがわからない。私は君と同じ体験をすることができないし、たとえ同じ苦痛を受けても感じ方は人それぞれ。だから、安易に「わかるよ」なんて言いたくない。でもね、たとえ100万分の1すらわからなかったとしても、ただ君の話に耳を傾けて、「そかそか」ってくらいはしたいんだ。
僕も、相談を受けながら「わからなさ」にもだえた。「わかるよ」なんて怖くて言えなかった。ただただ、相談を聞いた。メールを読んだ。自然と「そかそか」になっていた。
「こんなに色々聞いてもらっちゃって、迷惑だよね」と時々言われた。僕にとって相談は迷惑ではなかった。むしろ、相談してくれる、相談したいと思ってくれる、自分を必要としてくれる。それが嬉しかったくらいだ。自身の存在価値をかろうじて支えるもの。僕にとってそれが「相談という迷惑?」だった。だからこそ、こうも思った。「迷惑をかけずに生きなさい」っていう言葉が時に人を「苦しみの檻」に閉じ込めるだろうな、と。
助けを求めたり、頼ったり、依存したりすることを「迷惑」と呼ぶことがある。人は、ともすると「自分が下手なばっかりに/無能なばっかりに/弱っちいから」と、迷惑を詫びる。迷惑をかけないようにと強く思うがゆえに、悲鳴をあげられずに抱え込んでしまう人もたくさんいる。そういう人が行き詰まりの先で「苦しみの檻」に入ったら、どうなるか。怖い。
「迷惑」や「弱さ」が喜びを生む。
迷惑を一切かけないで生きている人なんて、そもそもいない。みな、お世話になり、助けられ生きている。
生まれた瞬間の人の自活力は、ゼロだ。赤ちゃんは何もできない。他者の助けなしには生きられない。でも、その子を抱きかかえる親が、それを迷惑だと思うだろうか。少なくともいま親である僕はそう思わないし、それと同じような線形で、相談されることを迷惑と思わない自分を描ける。例え相談が「迷惑」と呼ばれたとしても、僕自身がその「関わり」に救われたのだ。
ナナチルさんがこう書いている。
弱音なんて吐きたくない。弱みなんて見せたくない。軟弱なヤツだと思われたくない。できることなら、自分を強く見せていたい。確かに、いつでも弱音を吐く必要はない。でもね、あなたが弱みを見せれば、勇気をもらって弱音を吐けるようになる人もいるから。その弱みに救われる人もいるんだよ。
誰にも相談できず、抱え込んで、まさに「あふれかけたコップ」のようになっている人の心の扉を開けることができるのは、優しさ、そして誰かの「弱さ」だ。弱さを知る人のまなざしだ。弱さが、迷惑が、誰かの生きがいになる。他人の不幸を嗤うのではない形で、誰かの救いにすらなる。弱いからこそ自然につむげる言葉が希望になる。確かな、強度をもって――。
そうなると、何が弱くて何が強いのだろうと空を仰ぎたくなる。僕は相談されまくって(「迷惑かな?」くらいの関わりが)むしろ嬉しかった。
迷惑? 誰かを貶めたり苦しめたり損をさせたりしなければ、どんどんかけていいんじゃない? むしろ多様に多彩に依存して、一箇所に固執しないことは推奨すらする。
僕は、そう思う。
人間性にほっこりしてしまうような書き手が。
そんなことをし続けていたら、mixiを介してある出版社から「本にまとめて、世に出しませんか?」と依頼が来た。僕は、戸惑った。当時の僕が全力で動けていなかったからだ。仕事でさほど動いていなかったからこそmixiにたくさんの時間を注げた。投稿もできた。相談にも乗れた。それなのに「書籍出版!」としてしまったら「もっと本業をやらなきゃ」という思いもわく。
結果、お断りした。
そういった経緯があるからこそ、今こうしてナナチルさんのような言葉の編み手がいるんだと思うと僕は嬉しくなる。社会は情報にあふれ、言葉が散乱している。けれど、大切に扱われる言葉は少ないように感じる。欲望の表出ばかりだ。それは、誰かを扇動するには役立つかもしれない。でも、そうやって「動きすぎな人」にさせる言葉を世に送り、市場のカネ回りをよくしてせかせか儲けている人が、人としての豊かさを示せるだろうか。
ナナチルさんがこう書いている。
偽りのない真実な言葉には、人を動かす力があると思うんだ。「この人の言葉なら信じてみよう」という心が、自分を変えるための原動力になってくれるから。
カネや名誉や地位、そして有名であること、それら以外の、人としての本質的な豊かさ、魅力。人間性にほっこりしてしまうような振る舞い。それに惹かれて「この人の言葉なら信じてみよう」ってなれたら、素敵だと思う。僕も、そういう書き手でありたい。
■ナナチル『何もいいことがなかった日の君へ』PHP研究所
https://www.amazon.co.jp/dp/4569845797/
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