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過食と並存する

こんにちは。私は摂食障害はじめ、精神疾患経験者で経験談から考え方、メンタリティーについて X @mgmgpai で質問やお悩みを頂いて Ameba blog @konpaichan でお答えさせて頂いています。

今回は「過食」と並存する"受け入れていく"考え方について書いていこうと思います。前回書いた過食の理由を先に読んでいただけると、分かりやすいかなと思います。


心の器を用意する

心と体は繋がっています。体の行動をコントロールするのは心なので、受け入れていく器を用意していく事が何よりも大事なことだと考えています。

「過食」ってなんだろう?を前回書いたのですが、重ねて自分にとって「過食」が "どんな存在" なのか?を知る事が心の器となります。

そもそも、向き合い受け入れて生きていく事が必要なのか?という話をさせてください。

確かに「過食(病的で生活や心が蝕まれる場合)」って本来なら必要のない欲で、ない事が理想なのかもしれません。何かしらの原因があって存在する本能であるから、根本を解決する事がゴールです。

(補足:自然な本能の中に食欲や一時的に増す食欲もあります。なので0にする事が理想という認識は間違いだと警鐘します)

ですが、それを受け入れられない状態のまま制限を続けたり過食を軸に生活を送れば送るほど、その沼に深く浸かってしまいます。それが過食のメカニズムです。

なので、問題と向き合うためにも一度「過食」を受け入れて体と心から向き合う必要があると考えます。その為の心の器です。


過食の理由は悩み方にある

メカニズムや目的からなる「過食」について前回書いたのですが、その理由となるものは「生き辛さ」だったり「悩み」からくるものだと考えています。

が、ここが大事。悩みが無い人なんていないのです、皆んな何かしらに悩んでいます。過食に繋がる行動をする多くの方がその「悩み方」に問題があります。

性格でもあり個性でもある部分で、考え方や価値観の話になってしまうのですが例えば「極端な性格」だったり「頑張りすぎてしまう気質」の方が多いのです。

悩む事の種類ではなく悩む過程に抱え込む負担の量が「多い」と言えます。

また、悩みの種が自分の性格や考え方ではなく他に「見た目」とか「自分のコンプレックス」から生まれていると考えて、外側から解決しようとする考え方も悩みの解決に至らず、容姿への依存を高めていきます。

今ここでは「過食」に向き合う為の話なので、該当する方は一度考える機会にして頂けたらと思います。


以上を含めて私が摂食障害になったキッカケとなる「無理なダイエット」から「過食」→「過食嘔吐」になり回復を目指すまでに自分の心と悩み方に向き合った話を書いていこうと思います。


過食に依存した自分を振り返る

健全なダイエットで減量に成功した私ですが、元に戻る方法が分からなくなりました。というのも、普通の感覚を忘れてしまう程、自分の当たり前を「痩せ」に近付けて、作り出して過ごしていたのです。

例えばどんな事か?

○○kgを保つ | それ以上オーバーしたなら厳しい食事制限で数日以内に戻す

数字に絶対的安心感を抱いていました。一定の体重でいる事がメンタルを安定させていたのです。それを軸に食も生活も合わせていったので、体重を気にせず食べる感覚を忘れていました。

甘い物を食べたらご飯を減らして調整する | ご飯を沢山食べる日の前後は減らして調整する

何か食べたら、何かを減らす。調整は罪悪感を紛らわす為でした。素直に「美味しい」と感じるよりも「明日明後日は制限しよう」とばかり考えてしまい、味わう事の感覚を忘れてしまったのです。


他にも例を挙げると沢山ある「マイルール」は限りなく自分がデフォルトで痩せている状態(自信や尊厳に値する)それを保つ事を軸に、生活も心も体も合わせていたようでした。


痩せていたい目的も、制限する理由も忘れていたように感じます。無意識の中に「当たり前」や「絶対」を作り出してそれをただ守る為の生活へと変わっていきました。それに安心していたり優越感を感じていたので、手放し方が分からなかったのです。

「あれ?私ってもう、好きなものを好きなように食べられない人生なのかな?」と思ったのです。


好きなものを食べたらいいのに、好きなだけ。それを許せない心が邪魔をして食べても美味しくなかったり、怖かったりする。

既に摂食障害の症状が出ていたのですが当時は気が付きませんでした。

「一生制限」「一生ダイエット」は無理だと思ったから、好きなものを好きなだけ食べる選択(過食)をしたのです。嘔吐を取り除けば、無茶食いも本来の望む姿だったのかもしれません。

沢山食べて美味しいなって唯一味わえる時間が「過食」の時間で、それを許せない痩せたい心が嘔吐という選択肢になり選んでしまったのです。


過食の終わり


過程をかなり飛ばして、回復期間の話になります。私は摂食障害でした。拒食症も併発した私は「何も食べない」を辞めようと、拒食症だけを治療していく方針で食べ始めました。

(この頃は何も食べない・食べたら吐く生活)

ある程度、食べられるようになってきて食べる幸せを味わっていく最中に「食べる意味って何だろう?それを吐き出す必要って何だろう?」と考えられるようになりました。

(ここからは摂食障害か否か関係なく、食や容姿に囚われている方にも共通した考えになります)

「痩せたい」と思う心でしか味わってなかった食事を久しぶりに「味わう為」に食べてみたら、とても心地が良かったんです。解放されました、いや解放してあげたんです。

具体的に言えば「食べる」ってただの栄養摂取の行為ではなくて「思い出」も含まれていて、そこには「幸せ」とか「満たされる」が存在しています。

お腹が満たされる為だけの食事でもなければ、数字のためでも見た目のためでもありません。

家族と囲む食卓で生まれるコミニケーション。友人との楽しい時間、旅行先で味わうもの、会話や思い出を振り返ればそこには思い出の味があったりします。

食べる事に見た目や自信や安心感を結びつけて、制限していた時間で忘れていた「味わう」気持ちを思い出したのです。

摂食障害ではなく「健康意識」「自己管理」「美意識」の範囲内だとしてもそれが1番大事になっていませんか?生きるって、それだけが大事なのでしょうか?この問いを忘れないで欲しいと願います。


我慢も数字への執着も調整も過食への依存も「選ぶ理由がない」つまり、生きていく上での選択肢には要らない選択肢なのだと「納得」できました。

「納得」というのが大事だなと思います。頭や心のどこかで「理解」していても自分が納得できなければ、行動に移して手放すことも向き合うこともできないのです。

その為に「納得のいく理由」を探していくのです。痩せに対する執着心や依存している目の前のことだけじゃなく「先にある理由」を向き合ってみるんです。

器にして受け入れていく、これが過食と並存して自分の生き辛さまで向き合うことで「終わり」が見えていくものだと思っています。

最初から「明日から過食しない」と決めてパッとやめられるほど簡単な話ではありません。そもそも不足した栄養が過食欲になっているので、心の入れ替えで治るものでもないのです。

繰り返しになりますが、心や変化を受け入れて栄養を体に届ける事も過食を終わらせる役目です。食べる事を許す・受け入れる為の心の器として「納得の理由」を探っていくのです。


最後に

過食の理由の先にある自分の考え方や悩み方「性格や価値観」に過食の原因があるとは、知っているようで知らない事だと思います。

それより手前に見えている現実の問題に対して自分が選ぶ選択肢は「一時的」なものであったり「心の凹みに蓋をしている」だけだったりします。

それで健康で、それで心地良く生きられているなら苦しくないし過食にもならないのです。過食に左右されている時点で何かしら「根本の問題」が大きな影響になって心と体に出ているという事です。

このnoteを読んで向き合う機会にして頂けたらと思います。また、私は経験談や痩せと向き合った数年で勉強して培った知識を私なりの言葉のチョイスでシェアしています。気になる事や1人で解決できない問題は第三者の力を借りて、ぜひ問題解決して欲しいと思います。

過食は必ず理由があるから、終わりもあるのです。冒頭にも書いた通り「0になる」は間違った認識ですが今囚われて苦しい部分は手放していけるものです。

これからも、間違った認識や情報が拡散されても、それを目にして戸惑いを感じても、ここに戻ってきて何が「自分の為」になるのかを考え続けて欲しいと思います。最後まで読んで下さりありがとうございました。









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