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人は変われるのかという論考(人間の可能性に対する一つの論考)

 恒久的に変わらないもの。仮にそれが存在するのならばそれは何故に変わらないのか。いや変われないのか。それは例えば天から与えられたからならば、なぜそうなのか。例えばこのようにして煎じ詰めていくとしたら、我々は最終的に、なるたけ進んでみた結果、どこに(どのような場所に)たどり着けるのだろうか。果たしてあらゆる疑問の検討は、その最終的な目的地にどこまで近づくことができるのだろうか。まあ私自身、まず自然哲学における形而上学が、人間を超越的なものへと担ぎ上げようとしている限りは、人間の可能性の範囲を異常なまでに引き延ばし、そうして完璧な真理を求めている限りは、その疑問とはそもそも「認識されていない」に等しいと料簡している。(たとえ人間には本当に可能性が無限大にあって、そしてその可能性の中に真理があるのだとしても)
 さて。いやしくも、火に触れて火傷をしたという事実(経験)はなぜ事実なのだろうか。なぜ人間はそのような名前を付けて、そうして認識し実存させるのだろうか。否、できているのだろうか。(まあ、できているのかどうかも定かでないが、しかし考察の範囲は確かに広い方が真理の探究においては正確なのだからこれだけは追加させてほしい)誰に裁可されたというのだろうか。まさしくここに人間の、いや世界の本性が隠れているのだと私は考える。
 だから、「火は熱くそれに触れると火傷する」という真実とされている認識は、通俗的認識であり普遍的であるし、しかも何故かはあまり明らかでないのだが「なぜかそう認識している」ということから、恒久的で変わらないものであると、人間はその根拠をもってそう認識している。(いや、そのように覚えず実存させている)それは生得人間に偶有されている認識(性質)である。そういった考えが人間を人間一般にしている。がしかし、人間一般とは何であるのか、というそういった推察は人間の可能性についての論及であることから論の範囲を決めるのだから触れることにするが、(範囲を決めずしてどうして目標までたどり着けのだろうか)それは生来的に人間に具備されている性質全般が備わっている(言ってしまえば)人間的人間のことである。とそう簡単に仮定した場合、まず第一に私が指摘したいのは人間一般は本当に存在しているのか、もしくは存在させるべきなのかについてである。(もっとも、こう言っている時点で存在していない或いは認証されていないということなのだが)
 「同種」であるということは、それはまさしく「同じ何かしらを備えている」からに他ならない。だから、人間一般とは「同種」という言葉から明らかなように存在している、という意見は浅薄でしかない。なぜと言うに、人間の認識の範囲を、そもそもこの世には何が実存しておりしていないのかを全く考えていないからである。(まあ、ここでは私も浅くしか考察しないのだが)すなわち、同種であるという認識は、まずそもそもその「共通しているなにがしか」は確かに存在しているとして、「勝手に実存させる」ことでそのような名前を付けてはそう認識している。(ここで一つだけ忠告しておきたいのだが、ここでは人間の身勝手さということに触れた後はあまり深く認識については触れずにおく。なぜなら、論の範囲があまりにも広くなってしまうからである)この世には何が実存しいるのかいないのか。それを決めるということは人間の身勝手さによって可能になっている。だがしかし、その身勝手さというのは本当のところ、「自然法則への隷従」、「人間の限界」、そして知りたい認識したいという人間の欲望が生んだ「抵抗」のことなのではないだろうか。だからおおよそ人間は、とにもかくにも生まれた時から共にしている「自然法則」に恒久的に固着して忍従しているのである。
 だから「人間は変わることができるのか」、その問いに対して私は「時間という自然法則は、移り変わりだけを告げている」と答える。すなわち、移り変わりは自然法則なのであって、それは時間が可能にしているのである。

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