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履歴書の長所の欄が書けなくなり毎日泣いていた私が、自分を認め、愛せるようになるまで。 ~人との出会いときっかけ~


私は履歴書が書けなかった時期がある。


4年前、

私がうつ病/適応障害 になって半年以上経ち
「バイト、少しずつしてみようかな」と思っていた頃のことだ。

履歴書の全ての欄が書けなかった訳ではなく、
私を毎回どん底に落としていたのは、自己PRの欄

この自己PRの欄というのは、

自身の魅力や能力について
「私はこんな素晴らしい人間です!こんなことができます!
こんな素敵な私を雇用しないわけにはいかないでしょ?」
と力説しなければならない。

「口からでまかせでいけ!(上手く生きろ)」
「物は考えようだ!(少しくらい自分勝手に考えてもいいんだ)」

と母から英才教育(?)を受けていた私は、
それまであまり履歴書を書くことに困ったことがなかった。


自分で言うのはなんだが、
うつになる前まで、割と優等生として生きてきた。

人に優しく他者を思って行動ができ、
長年培ったリーダーシップがあり、
人に頼られ、沢山の人と関わることも容易にできる。
真面目で時間がどれだけ掛かっても努力し続けられる。
また、
私の関心のある分野は社会的にはボランティアや"良心的なこと"に
当てはまっていたようで、
興味を示しその部分を「素晴らしい」と言ってくれるはとても多かった。


ただ、
うつ病/適応障害になってからこれらが全て
短所 (良くない所) へと変わってしまった。


「物は考えよう」


この言葉の通りなのだが、
プラスな方向ではなく、マイナスな方へ裏目に出てしまっていた。



人に優しく他者を思って行動ができる
人のことばかり気にして、自分の思いや意見を押し殺してきた。
 だから、うつ病になってしまった。


長年培ったリーダーシップがあり、
人に頼られ、沢山の人と関わることも容易にできる。
リーダーだから、という名目で沢山の仕事や作業を押し付けられた。
 誰かに「手伝って」と言うことが苦手だったので、ひとりでいくつもの
 ことを抱える"やること"が多く、疲労困憊の日々を過ごしていた。
 だから、うつ病になってしまった。

真面目で時間がどれだけ掛かっても努力し続けられる。
自分に厳しすぎて100%でないと許せない。
 どれだけやっても自分はまだまだだ、と自分の努力が認められない。
 だから、うつ病になってしまった。

私の関心のある分野は社会的にはボランティアや"良心的なこと"に
当てはまっていた。
良くも悪くもとても目立つ人になってしまった。
 私を気に入らない人からしたら、
 "いい子ちゃんぶってる奴”に見えていたのだろう。
 いじめや仲間外れ、陰口の標的になることは日常茶飯事だった。
 慣れてしまっていた。私は強くなれた、と思い込んでいた。
 だから、うつ病になってしまった。


こんな調子で今まで長所だと思えていたことが
全て短所、自分のダメな所、と変換されてしまう。

それらが原因でうつ病になってしまったんだ、と。



この、履歴書の長所欄(自己PR)が書けない時間は
おそらく皆さんが想像する何倍も辛く長い時間だった。

本来であれば自己PR欄を書く時、
自分を認め、自信を持って書く欄のはずで、
絶対的な味方であるのは、自分自身であるはずなのだ。

私の場合は、一番のアンチが自分自身になってしまっていた。


書こうとするたびに手が止まり、
自分を認められず、どんどん自分自身を嫌いになっていく。

そんな自分に涙が止まらなかった。

沢山努力してきたし、思いやりを心掛けて精一杯過ごしてきた結果、

自分の全てを認められない。自分の全てが嫌い。

虚しくて、悲しくて、なんのために生きているのか、分からなかった。


そんな時間は約2ヶ月程続いた。


なんとか履歴書1枚、書き上げられるようになっても
(「長所なんてないのに、私は嘘付きだ」と泣きながら書いてた。)

面接で
「うつ病/適応障害があります。」
「良くはなってきていますが、完治した訳ではありません。」
と伝えると

「ゆっくり少しずつできるようになればいいよ」
という理解を示すような言葉の後、結局落とされる。
多分、10社くらい落ちたと思う。

そりゃあ、雇用する側からしたら
いつ出勤出来なくなるか分からない人よりも、
心身ともに健康な人が欲しいのは当たり前なのだから仕方がない。

それは十分に分かっているのだが、
希望のある言葉をかけられた後に次々落とされることは、
結構、辛かった。

希望を持たせないでくれ、って思った。




なんとか受かったバイト先は、
ある人気パンケーキ店のオープニングスタッフだった。

その時の面接でも病気のことは変わらず伝えていましたが、
「少しの時間から、周りに頼りながらやってくれたらいいよ」
と採用をもらえた。

やっと、1歩前に進めた気がして嬉しかった。


オープニングスタッフだったので、周りもみんな初心者。
レジの使い方から、オーダーの取り方、ドリンクの作り方など
みんな初めてやることばかり。

ある程度基盤が出来ている所にポーンと1人で入るより
こっちの方が合っていたように思う。


地元1号店だったのでオープン当初(半年間)は本当に忙しく、
早急に覚えなければならないことも山ほどあった。

「今日は、ちょっとしんどい。
行きたくないな。」
と思う日も沢山あったがバスに乗ってさえしまえば、案外大丈夫だった。

それは、同期たちはみんな優しくバイトの時間は割と楽しく
あっという間に感じれたからだ。


バイト開始から3ヶ月後、
週2勤務(3~4h) → フル勤務(8h)になった。

ドリンクのプロ/メレンゲ・オムレツのプロと呼ばれるようになり、
気付いたらホールとキッチンの兼任スタッフになっていたりもした。

1年弱でここのバイトはやめてしまったのだけれど、
私にとっては大事な、前に進めた大きなきっかけだった。





同い年のTくん。


オープンから一緒だった彼(後に付き合う)と出会えたことは、
人生のターニングポイントだったと思う。


もう数年前に別れているので詳しくは話さないが、

同じように辛い過去がありながら
誰よりも努力し前向きで、
人の本質を見抜くことができる、そんな、優しくて強い人。

私も彼のようになりたい、
彼が安心して弱みを見せられるくらい、
私は彼以上に強い人に、頼られるようになろう。

そう思い、必死で這いあがろうともがいた日々。

彼の前向きな考えがうつ病が治っていなかった当時の私はつらくなってしまったこともあったが、
そのポジティブな彼に早く届こうと食らいついた結果、今の私が居る。

もう何年も前の話だが、心から、感謝している。
何処にいても、誰と居ても、必ず幸せになって欲しいと願っている人。
いつか、「こんなに変われたよ」って直接お礼がしたい。




このバイト先を退社して半年後には、
憧れのブランドがあるアパレル会社に入社するのだが

もう履歴書で涙を流すことはなかった。




高校時代からの親友A。


私が私を好きになれたきっかけをくれたもう1人の人物。


Aとの初対面の印象は、かなり癖強エピソードで面白いので、
出会についてはまた追々、詳しく話したい。


Aとは1年時のみ同じクラスだったが
なんだかんだ3年間仲が良く、卒業まで一番遊んだ友達だった。

それでも、過去裏切られたトラウマから、結局"今だけ”何だろうな。
(私が経験した、適応障害について③)

という思いは根強くあり、分厚い壁を持ったまま接していた。


卒業後、私は関東の大学に行った。
長期休みで地元に帰ってくると、
Aだけとは必ず連絡を取り合いご飯に行っていた。

もしかしたら、Aは他の子とは違うのかもしれない。と。
出会いから4年目にしてやっと、
2人の関係を信じてもいいかもしれないと思えた時期だったと思う。


大学2年生。病気になって大学を休学するから地元に帰る、という時でも
「むしろmarineと沢山会えるから嬉しい!」
と何一つ態度の変わらないAに安心したのを今でも覚えている。



「自分を大切に出来ない人は、周りを大切に出来ない」


その年の夏休み、
初めてAの家に泊まりに行って夜通し話をした。

私がとんでもない噂話を立てられた時の話、高校の行事のこと、恋バナ、
お互いの大学の人間関係について、バイトの話…。
本当にいろんな話をした。


私の休学の話になり、何処まで伝えるか悩んだが、
その時の素直な感情や状態を私はAに伝えた。

「未だに生きたくないと思う時がある。自分の良さが分からない。
 Aは私を沢山褒めてくれるけど、素直に私は受け止められない。」と。


Aは、

「はじめから心を閉ざしていたのは知っていた。
 関わらない方が逆に迷惑がかからないかもと思った時もあった。
 それでも私は、私には無い部分を持つmarineが好きだし、
 marineの見ているもの、事、経験、考え。
 全て好きだし素敵だと思う。
 そのままで十分、気付いてないかもしれないけれど、私は、
 marineからいろんなものを貰って、すごい存在に見えてる。
 marineが辛い時は私も辛いし、死にたいと言われると物凄く辛い。
 役に立てなくてごめんって思う。私が友達でいいのかなとも思う。」

と、言った。


泣きながら。


その頃には、私も彼女とずっと友達で居たいと願っていたので、
彼女がそこまで私のことを好きでいてくれてたことに本当に驚いた。
そして、それ以上に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「自分を大切に出来ない人は、周りを大切に出来ない」

本当にこの言葉の通りだった。



私が私を信じれないが為に
私が私を愛せないが為に

私は、
私が愛している人を沢山傷つけてきてしまった。


と初めて気付かされた。



彼女が魂を込めて伝えてくれたあの日の言葉は、
真っ直ぐ私に届いて、何年経っても絶対忘れない出来事になった。

決して見捨てず見放さず側にいてくれたこと。心の底から感謝している。

彼女や彼女の大切なものに何かあった時、
周りが全て彼女の側から離れてしまっても、
私は何を捨ててでも、絶対に彼女を守り、味方でいる。

私は、そう誓った。
彼女が私にしてくれたように、今度は私が。


あの時、彼女があの言葉をかけてくれなかったら
未だに私は大切な人を知らぬ所で傷付けてしまっていたかもしれない。



あの日から私はガラリと変わった。


変わるように努力した。

自分へのハードルを極力低く設定し、
何か出来た時はどんな低いことでも私を褒めちぎるようにした。

「なんて素晴らしいんだ!」「よく頑張った、私。」と思うようにした。

「今日もちゃんと起きた!えらい!」と口に出すようにした。

これらをあの日から何年もやり続けた結果、
ブラジルにまで到達してしまいそうなほど低かった私の自己肯定感は、
徐々に上がっていった。


そして、大切な人にはいつも
「あなたが大好きで、大切だ」と伝えるようになった。


Aが私に全力で伝えてくれたように。私も。





今回はどん底で履歴書の自己PR欄が書けなかった状態から
自分を認めるきっかけをくれた2人とその出来事についてお話ししました。

実はこの2つの出来事は
ほぼ同時期(どちらも2019夏)に起こったことです。

その後の私の価値観や人生を大きく変えてくれるきっかけであり
生涯忘れることはない出来事だと思います。

今も決して器用に生きれている、とは言えません。
ですがこの2人の出会いがあったおかげで、

見てくれている人は必ず居る。
愛してくれる人は必ず居る。

そう思え、安心して自分自身を貫くことはできています。

2人には沢山の気付きと愛情を貰い、
考え方を見直すきっかけをつくってもらいました。

その中で人間関係も見直し、
今私の周りにいてくれている友人たちは利益や都合の良い関係ではなく、
お互いの幸せを心から願える素晴らしい人たちばかり
です。

そんな素晴らしい人たちに囲まれていることへの感謝を忘れず、
日々思いやりの中で過ごしたいな、と深く思っています。

そして、今度は私が、
誰かの背中をそっと押せるような存在になりたいと願っています。




最後に、友人からの言葉とともにこの言葉を … 。




あなたは、そのままで十分。
不安な時はあなたの周りを見て。

素晴らしい人たちに囲まれているあなたなら、
それはあなた自身が素晴らしい人物である証拠。

もし、この人間関係はどうなんだろうという不安があるなら、
勇気を出して「さようなら」をすることも時には重要。

自信を持って自分を愛して、自信を持って誰かを愛して大丈夫。

どんなあなたも、本当に素敵で素晴らしい。



今回も最後まで見ていただきありがとうございました。

1つの考えるきっかけになれば嬉しいです。


marine





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