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私が経験した"適応障害"について。③

まだ、"私が経験した"適応障害”について。②”  を読んでいない方が居たら、
そちらから読んでいただけると幸いです。


そして、長らくお待たせしてしてしまってすみません😭

今回は少し長くなります。

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大学2年生のGWが終わり授業が始まった頃、
私は布団から起き上がれなくなりました。

このままでは私はだめになる....。
そう感じた私は新潟に居る母に連絡をしました。

何も聞かず、
「今すぐ帰ってこい」と言ってくれた母には本当に感謝しています。


大した荷物も持たず、新幹線に飛び乗り帰ってきた日。

そこから数日間の記憶は正直ありません。


帰ってきて1週間ほど経ち、
 " 精神科 " という所に初めて足を運びました。

ずっと避けていたその場所に行くことを決めたのは
きちんと病気であることを診断してもらった方が
私は楽になるタイプではないか、
そう感じたからです。

実際に"慢性適応障害"であると分かった時は
すっきりとした、そんな感覚でした。
言語化するのは難しいですが、
自分自身の今の状態がまともでないと認められて安心したんだと思います。

その後2週間に1度のペースで2~3ヶ月ほど通いますが、
通う事に意味はない、そう感じるのに時間はかかりませんでした。

「何か変わったことはあったか」「心境の変化は?」
「できるようになったことは?」

何も変わらず辛いから病院に行っているはずなのに
出来ることは増えたか?と聞かれる。
通院すればするほど、
自分の人生の先の見えなさ、前に進めていないことをより実感させられツラいだけ。



「毎日がつらくて苦しくて死にたくなる気持ちを抑えてなんとか生活しているのに、わざわざ自分の口から「なにも変わっていない」と言葉にする。

これはあまりにも酷で辛いことでした。


私は4ヵ月目で 精神科に行かなくなりました。


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病院に行かないのであれば、
自分自身でこの状態から抜け出さないといけない。


1.ここまで追い込まれるほど、
 自己肯定感が低く自分の存在意義を感じなくなってしまったのはなぜか。

2. 12年間音信不通の父は今どうしているのかを目を背けずに知る。



この2つを解決しないと復活できないことを私はよく分かっていました。

今まで目を背けてきたこと、ただ1人で戦ってきた孤独、
それに正面から向き合わなければなりませんでした。



正直この方法は、かなりの荒療治。結構、精神的にキツイ。
誰にでもオススメ出来るやり方ではないです。

ただ、私には必要で数年後に振り返っても本当に重要な時間でした。


19年間の出来事とその時の感情、それが何に繋がったのか
事細かく1から振り返りをする方法です。


沢山のきっかけが積み重なって原因となっていることを、
平気だと思っていたことは
実は自分の心を守るためにそう思おうとしていただけだったのだと、

私自身もやっとここで初めて自覚したんです。

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1つは、両親の離婚。

離婚の形は夫婦や家庭それぞれですよね。
色々な理由ですれ違ってしまったり、不仲になってしまったり。
先を見据えてお別れする。
離婚はするけど良いパートナーとなる。
パパが2人、ママが2人。という形をとる。

家族の在り方も今現在もどんどん多様化してよりさまざまな形で自己表現や愛情の表し方を選べるようになってきているように思います。



私の両親は私が2歳の時に離婚をしましたが、
お互いを、家族を守る為の手段として"離婚"を選んだんです。

私の母は重度の"子宮内膜症"で、[子どもはできない]と言われていました。私がいない状態での結婚生活が約10年ほど続き、
なんとまさかの私が生まれたのです。

それまでにも色々な苦労があったはずです。

それでもなお、離婚せずに一緒にいた。


共に過ごした大切なふたりの10年間ではなく、
私を守るためにお互い離れることを選んだ。

 私が産まれていなければ、
 今も私の大切な2人は共に生きていたのではないか。



いつからかこんなに大切にし合っている2人を離してしまったのは、
「私が生まれてきたからだ」
と思い込むようになりました。

その思いは年々強くなっていきます。

父との思い出の場所に来た時に母がふと話す父との思い出話や、
marineといる私だけ幸せでパパを1人にして不幸にしている、
と自分を責める母を見て、

共に生きてくれたことへの感謝と、
それ以上に自分の存在が家族を不幸にしているのだ、
という申し訳ない思いが年々強くなっていくのを感じていました。

これがずっと心の中にあった一番大きな感情です。
この世の誰にも話せなかった、決して口にしてはいけないことでした。


このことは母から真相を聞けたことで自分を責める気持ちは
今はほとんどありません。

むしろ、
私がこの世に産まれてきたのは母と父を繋ぎ止める役目があるから。
2人をもう一度会わせることができるのは私だけだ。
という使命感も湧いて、
それがここ数年の原動力となっていたように思います。

そして、2022年1月11日。
15年ぶりに家族3人揃って会うことが出来ました。


ここに辿り着くまでに、父の生存確認のために役所に連絡をしたり、
住所が分かった次の日に新幹線に飛び乗り会いに行った話、
パパとの再会の話など
まだまだあるのでこれはまたの機会に詳しくお話ししますね!


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2つ目は、いじめ。


いじめは、年月が経っても尚、人を傷付けます。
私はいじめのある世の中を
"しょうがない”と目をつぶる風習を絶対に許せません。

小学校1〜4年生まで、私は"いじめ"を受けました。
またそれは ”陰口”という形に変わり中学、高校の卒業まで続きました。

どれだけ私が気分を害さないように、
常に笑顔で優しく平等に接したところで、それは変わりませんでした。

小学生の頃は、

「アトピーがうつるから」
「肌が汚くてキモいから」
「週に何度も早退してズルい」
「なんかうざい」
「なんかキモい」
「なんか気に入らない」

そんなくだらない理由ばかり。

6歳〜12歳の集まり。
それまでの短い人生で出会い関わってきた人物はごくわずかで、
その期間での"普通"の枠にハマらない人と上手く付き合うことができないのは、もしかしたら ”しょうがないこと” なのかもしれない。

でもされた事実がある以上、それで嫌な思いをしてる以上、
”しょうがないこと” では済まされないのです。



文房具など物を盗まれるのは日常茶飯事、
靴に画鋲も入れられたこともあるし
傘で殴られたり、蹴られたことも。
(ドラマのような話だよね。笑)


幸い担任の先生には恵まれていたから、
きちんと私の言葉を聞いてくれて信じてくれて理解してくれた。
保険室でずっと過ごすことも、
何週間も学校に行けなくても、
焦らすこともせずゆっくり待っていてくれた。

私が最終的に不登校にならなかったのは
周りの大人が手を差し伸べ続けてくれたから。

恵まれていたと今考えても感謝しています。


ただ、
心にはずっと傷が残ってる。

潜在的な意識にもう埋め込まれてしまっているみたい。


それでも高校の頃になると、
一切気にしていない、むしろメンタル最強になった!

どんな言葉も私の心には届かないから好きなように言ってくれ。
私は大丈夫。

と思い込んでいたのだから恐ろしいったらない。


実際私が適応障害になり、自己肯定感の低さはどこからきているのだろうと考えたらこの記憶にたどり着いた。


いじめはその瞬間だけでなく、その後の未来まで奪う行為。

それを決して忘れないで欲しいことです。


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3つ目は、信頼していた人達からの裏切り


私が人に心を許さなくなったきっかけです。


ただ、この出来事は今後話していくであろうものとも深く関わりがあり、
そのイメージがついてしまうのは私にとっても本意では無いため
(素敵な出会いや経験も沢山させて頂いた場所なので)
詳細には話しません。ご了承ください。

※このことをどのように書いていくかずっと迷っていた結果、
1年以上下書きにあった③をずっと出せずにいました。すみません…。


その出来事は、私が中学3年生の頃に起きたことです。


心から信頼して安心できた人たち。
学校でのいじめなんて忘れるほど、仲間の大切さと思いやりと経験を与えてくれたはずの人たち。
そんな信頼し大好きだった大人達と仲間に裏切られました。


当時の私は本当に心から悲しく、深い傷ができました。
今思い出しても苦しくなる、割とトラウマのような記憶です。


その後の人間関係において、
そもそも人を信用しない。期待しない。頼らない。
壁を作りながらその時だけの人間関係として接することになる
"きっかけ"の出来事でした。

そしてその"きっかけ"
私だけでなく、今もなお親友として側にいてくれる高校の友人さえも
傷つけることになったのです。

その高校からの親友は高校時代から
私が壁を作り続けていることを知りながらも
ずっと側にいて、誘い続けてくれるような素晴らしい人です。
彼女が私を諦め関係を絶っていたなら
今でも私は誰も信用ができない、
本当に孤独な人間になっていたかもしれません。

人によって失った心を
人によって取り戻すことができた。

私にとって思い出すのも辛い出来事ですが、
とても重要なことを教えてくれた出来事でもあります。


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さて、私が振り返りをして
人生において大きな影響を受けた出来事をお話ししてきましたが、
もちろんここにあるのは私の人生の経験においてごく一部の出来事です。


2022年10月。

私が適応障害/うつ病になり、この振り返りをしてから早4年が経ちますが、
今でも出来事と感情を整理するために
振り返ること、文字にすることは欠かせない時間です。

一度この『私が経験した"適応障害"について。』
はここで終えますが、
また機会やタイミングを見てお話しできたらと思います。

長々拙い文章を読んでくださった皆様、
ありがとうございます!


これからは、今、の私について、
書いていければと思っていますので
引き続きよろしくお願い致します…。


marine


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