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悪役俺様嫌われ上司(バツイチ)は恋愛小説のヒーローになれるか!?(完結)

1~5話 6〜10話 11~15話 16~20話 21話 22話 23話 24話 25話
26話  27話 28話 29話 30話 31話 エピローグ(完)

プロローグ

 玉響 糸たまゆら いと、二十六歳。
 最近、人生悟ったこと。

 その一、食わず嫌いはよくない。
 食べ物の好き嫌いだけに限らず、世の中には知らないだけで実はすごくおいしかったという例がたくさんある。
 だから、何事においてもとりあえず挑戦してみること。

 その二、人を見かけで判断してはいけない。
 中身を知ってみれば「意外に◯◯」という場合はけっこうある。

 と、そこで糸は考える。
 いや、中身を知って、むしろ「ない」場合も大いにあることを忘れていた。
 訂正。
 集中的かつ好意的な観点から、その人をよくよく知ろうと心がけてこそ、ようやくその人の本質にたどり着けること。

 だから、全世界のみなさん、ぜひ勇気を出して欲しい。
 恐れず、諦めず、偏見や常識にとらわれず、どんな相手であってもまず許し、愛そうとする心の余裕があれば、一歩踏み出したそこには新しい世界が広がっているかもしれない。
 ……って、かなりマザーテレサだけど。むちゃくちゃこっちが歩み寄っている感がしなくもないけど。

 とにかく! 人生は神様のいたずら、昨日の敵は今日の友、一寸先は闇、フューチャーイズブラインド!

 人生は何が起こるかわからない。そう三つの坂!

 大嫌いだったヤツが世界で一番大好きな人になる『まさか』だってあるんだから!

Kazunano様にファン動画を頂きました!ありがとうございます。

1 堂道課長は嫌われている


「何考えてんだよ! ばっかじゃねーの!」
 
 怒声というのは、その矛先が自分ではなかったとしても非常に不愉快だ。
 なにより辟易するし、消耗する。

 だいたい「ばっかじゃねーの」という言葉。
 四十男のセリフだとは思えないほど幼稚で、おかげで 玉響 糸たまゆら いとのうんざり感は二倍になった。

「ちょっと頭使えばわかることだろ!? 適当に仕事してっからそうなるんだよ!」

 糸は、デスクのパソコンに向かいながら、まるでヨガの最中のように正しい姿勢で、意識は呼吸に集中させた。
 息を吐く時は、細く、長く。

 実際の心境としては、だらけた姿勢の頬杖でもついて、思いきり大きなため息をつきたいところなのだが、それを見咎められた日には、それが他の課の人間であれ誰であれ、とばっちりを喰らうことは間違いない。
 考えただけでも恐ろしい。

 それは、今ここにいる全員の共通の認識であるらしく、怒気に髪一本触れないようにフロアの空気は張りつめていた。
 皆、息を殺し、心を無にしているらしい。さながら座禅の修行中か。

 怒鳴り声の主は、営業部第二課長、堂道夏至どうどうげし

 それがたとえ堂道であっても、お母上がお腹を痛めて産んだお子。
 親が子につけた名前について揶揄することは避けたいけれども、夏至とはなんと珍しいご尊名であられるか。

 一体名づけにどんな意味が込められているのかは、多少なりとも興味はあるが、糸がそれをたずねる機会は一生ないだろう。

 堂道は うるさい、こわい、人相悪い、理不尽、横暴、社内イチの嫌われ者、すぐキレる、怒る、怒鳴る。
 声はでかいし、物にも当たる。無茶も言う。無茶苦茶言う。イライラするとすぐに喫煙所に行き、何度も行き、帰ってくればきたで煙草臭い。間接煙害。プレ老害。劣悪な職場環境の原因、あと、整髪料つけすぎ。

「頭おかしい」「頼むから消えてくれ」と、降格もしくは左遷か異動か転勤を営業部の総意で願われているバツイチ男、堂道夏至。
 御年四十歳くらい。
 離婚歴があることは、一同が大いに納得するところだが、逆に、もはや堂道などと結婚しようと思った元嫁の人格がむしろ疑われている有様だ。

 現在の堂道の怒りの矛先m二課の榮倉が青く小さくなっている。
 どうか榮倉君が心を病みませんようにと人知れず祈っていると、「どうどうー」とシャレにもならない仲裁に入った人間がいた。
 糸の直属の上司である一課の課長羽切だ。

「もー、みんなびびちゃってるからその辺にしとけ。榮倉も次からは気をつけろよ」
 
 羽切はこの場で唯一、堂道に物申すことができる人物だ。
 みんなが心の中で救世主の登場に歓喜しているのは間違いない。

 羽切はけして声を荒げたりはしない。
 堂道とは真逆の課長で、それは社員を育てるためのアメと鞭戦略かと思いきや、単に上司の性格の違いでしかなく、一課は仏で天国、二課は鬼で地獄というだけのことだった。

「ったくよォ!」

 がこんと耳障りな音が響き渡る。
 おそらく堂道が自分の足元にあるゴミ箱を蹴ったのだろう。

「もー、堂道。やめろって」

「クソが!」

 幸い、糸のデスクは、堂道に背中を見せる向きなので、ご乱心ぶりも怒りの形相も見ずに済んでいるが、背後の通路は堂道課長の通り道なので気が抜けない。
 このタイミングで堂道は必ず喫煙所に行く。

 背中に全意識が集中する。
 案の定、堂道は重力にさえ腹が立つ様子で、フロアを出て行った。
 堂道の残して行った風の通過を息を止めて待つ。

「榮倉、もういいから仕事に戻って。さ、みんなも仕事再開、手動かしてー」

 羽切が周囲に向かってそう言うと、にわかにざわつきが戻る。
 キーボードをタッチする音すらどこからも聞こえてこなかったことに今さら気づくが、それもいつものことだ。

 糸はようやく、小さなため息をつくことができた。

 同僚との世間話が上司に対する不平不満になりがちなのは社会人の常だが、糸たちの場合は、話題の九九パーセントが堂道の悪口といえる。

「堂道キモい。本気で死んでほしい」

 昼休みの女子トイレ。
 化粧直しの途中で吐き捨てるように言った夏原 夏実なつはら なつみの隣で、鏡に映った糸はしかめた顔で頷いた。
 夏実は二課の営業事務で、つまり渦中の堂道の直属の部下である。

「今日も朝からキレてたねー。気分悪くさせられてるのはこっちだって感じ」

「あいつ、なんで毎日イライラしてんの!? 男の更年期!?」
 
 口紅を塗りながらのいびつな口の形でそう言った夏実は、表情に抑えきれない怒りが滲んで、さながらお化けのようだ。

「おほこのほうねんきって無気力になるんじゃなはったっへー?」

 歯磨きをしながら言うのは佐世田 小夜さよだ さよで、糸と同じ一課の営業事務を担当している。
 夏実と糸は同期、小夜は途中入社だが、三人とも同い年ということもあって、自然とつるむようになった。

 糸と小夜は直接の被害はないものの、二課の隣の島の住民ではあるので、堂道の雷が落ちるたびに多大な迷惑を被っている。いや、近隣だけでなくフロア全体が迷惑してるのだが。

「すぐキレる人ってほんとやだ。嫌い。無理」

 糸はそういう人種が心底苦手だった。
 好みのタイプと聞かれたら、温厚で平和主義の人と答える。
 今の恋人もそうだ。付き合って半年になるが、怒って逆上したことは一度もない。

「だから離婚されんじゃん。過去に結婚してたってだけでも信じられない」

 小夜はぺっと泡を吐き出して、
「ざまあみろじゃんー。あんな性格だから独りで、再婚なんて絶対無理だしー。寂しい老後しか待ってないってー。あわれよねー」

「怒鳴りすぎて血圧心配した方がいいんじゃない? 血管切れそう。やばい。こわい」

「あたしなんか、この前傘で刺し殺す夢見たし。うちにお茶くみ制度があったら間違いなく毒盛ってた自信あるわ」

「今どき営業に根性論とかマジ昭和だよねー。辞めたの三人目だっけー? やばいよねー」

「労務に目つけられてて、すでにイエローカードらしいよ」

「これで榮倉君が病んだら一発レッドなのに」

 堂道の嫌なところを挙げたらきりがないし、腹立たしい話は尽きることがない。
 今日までのありえない堂道伝説を並べあげれば、立派な本になる。

 仕事帰りに恋人のヨースケが予約を入れてくれたのは、糸の会社から電車で一駅のところにあるSNSで評判の店らしかった。

「ほんと、あいつの本性はヤのつく職業だよ」

 その日のデートでも、糸はヨースケにめいっぱい愚痴をこぼした。
 ヨースケは、業種は違えど同じ会社員なので、糸の環境も気持ちもわかってくれる。
 せっかくの時間なのだから楽しい話がしたいとは思っているが、ついつい話してしまうし、ヨースケもヨースケで、ネタとしてはおもしろいと率先して「今日のドードー課長は?」と聞いてくる始末だ。
 
「うちにもムカつく上司はいるけど、ドードー課長はヤバさで言うとアタマ三つ分は抜けてるよな。向かうところ敵なしって感じ。逆にもうそこまでいくと清々しいわぁ」

「意味不明に持ち上げるのやめてよー! ホントに最低最悪なヤツなんだから」

 店を出て、会社から歩いて来れなくもない距離だったなと辺りの風景を見て思っていると、ヨースケが同じような提案をする。

「糸が帰るのに、M駅から乗る方が楽だろ? 一駅分歩こうぜ」

 糸は何のためらいもなく頷いて、近くに流れる川沿いを、酔い覚ましを兼ねて散歩することにした。

 川べりの遊歩道は、仰々しくはないがオシャレに設計されたライティングが都会っぽくて雰囲気がよかった。
 カップルだけでなく、ランニングやウォーキングをしている人でにぎわっている。
 対岸に乱立するビルの窓明かりが宝石のようにちりばめられていて、またそれが水面に移ってゆらゆらと輝いて幻想的だ。

 近場で見つけた新しい発見に、気分が上向く。

「都会の川ってなんか素敵……げっ!」

 しかし、楽しい気分になってヨースケに感動を語りかけたようとしたところで、糸はありえない姿に目を見張った。

 条件反射で繋いでいた手を咄嗟に離し、不自然に一人だけ後ろを向いた。

「なに? どうしたの?」

「引き返そう!」

「なんで」

「堂道課長がいる!」

 糸はすべて小声で、しかし叫ぶように説明する。
 ヨースケはもとの進行方向を、つまり堂道がいる方を向いたまま、
「ドードー課長!? どれ!?」

「騒がないで! あそこ、一人でベンチに座ってる男!」

 なぜこんな、どちらかと言うとロマンチックな美しい夜景が望める場所に堂道がいるのか。

「あの、ビール片手にタバコ吸ってる人?」

「そう! ちょっと、あんまりじろじろ見ないで! 目が合ったら蹴られるよ!?」

 ヨースケは話には聞けども、当然のことながらその男がどんな輩なのか見るのは初めてだ。

「ヤンキーかよ」

「元ヤンは間違いないよ!」

「つかさ、ドードー課長、あそこで何してんの?」

「知らない!」

 見たままを言えば『川を見ている』か『ビル夜景を見ている』のどちらかだが、どちらにしても、なぜ一人で、酒まで飲んでいるのか。

「へー、意外。なんか俺、勝手にハゲでデブなオッサンかと思ってた。糸ちゃん、よくハゲ、ハゲ言ってんじゃん」

 確かに、堂道は禿げてはいなし、デブでもない。
 嫌いな対象を罵る呼称の一つに「ハゲ」があるのは、一体どんな文化ゆえなのだろう。

「まあ、あのかき上げ気味の七三分け、確かにヤのつく人みたいだけど。こんなとこで何してんの? 一人で酒? ドードー、バツイチだっけ? さびしーな、おい」

 糸は堂道に見つからないように背を向けたままだ。怖くて振り返ることなどできない。
 堂道の方が、出くわした糸を見て、それが同僚とわかるかは疑問だが、今この瞬間、見知らぬ不審な男女としては認識されているかもしれない。

「……ともかく引き返そう」

「なんだよ、ここ、いい感じのスポットってインスタで……」

「今度来よう! ねっ!?」

 糸はヨースケを引きずるように元来た道へ戻る。

 本当に、なぜこんな時間にこんなところにいるのだ。
 なぜ、社外、しかもプライベートな時間に、よりによって堂道などに出くわさなければいけないのだ。

 一人でベンチに座って、ビールだかチューハイだか知らないけれど飲んだくれみたいな、嫌われ四十男が、寂しい、哀れな感じで、こんな素敵な場所で。

2 堂道課長はカッコ良くない


 経理部に行こうと糸が廊下を歩いていると、外から帰ってきたらしい堂道と出くわした。
 最悪のタイミングだ。
 避けられるような場所もなく、このまま堂道に向かって進むしかない。

 猫背でガニ股、片手をポケットに突っ込んで、スマホを見ているかと思えば、舌打ちがずいぶん手前にいる糸まで聞こえてきた。
 うんざりする。本当にガラが悪い。

 昨夜見かけた時にしても、最初はチンピラが油を売っていると思ったのだ、冗談ではなく。
 ネクタイを外して、首元もずいぶん楽にしていたように記憶している。一瞬しかも遠目でしかなかったが。

 これ以上なく横幅をきかせた足の組み方をして、ベンチの背もたれに腕を乗せて、女の肩でも抱くみたいに。
 夜闇に煙草の火がぽつんと赤く点っていた。

 ちょっと待て。
 あの辺りは路上喫煙禁止区域ではなかったか。もっとも堂道の前に、公共のマナーなどないに等しいか。

 本当に何をしていたのだろう。
 お一人様で路上飲みとは笑えない。寂しすぎるお一人様かアル中かのどちらかだ。
 たとえば、店のオネーチャンであれせめて女性といてくれたなら、出会したこともネタくらいにはなったのに、と糸は唇を噛んだ。

「……お疲れ様です」

「んあぁ?」

 ケンカを売られたといわんばかりの凄みをもって顔をあげた堂道だったが、糸を見て、またすっと視線をスマホに下げる。

「あー、お疲れっす」

 社会人の最低限のマナーとして、挨拶してあげているのだから感謝してほしい。

 すれ違う時の『お疲れ様です』は、魔よけの呪文と思って唱え、頭を下げていると思いきや実は息を止め、目も合わさないというのがこれまでの常識だったが、今日はなぜか糸は堂道にちらりと視線をやってみた。

 ネクタイがあるだけで、ぎりぎり堅気に見える。日本のサラリーマンの武装は伊達じゃない。

 しかし、校則違反をしていた高校時代に生徒指導の教師と廊下ですれ違うときより、今の瞬間の方がよっぽど緊張するとはどういうことだ。
 悪いことは何もしていないのに。

 堂道は糸を見ても何か言うことはなく、何かを思う様子もないところを見ると、やはり昨夜の遭遇には気づいていないらしい。
 それこそ、気づかれたところで何も悪いことはしていないのだが。
 
 通り過ぎてしばらく待ってから、糸は大きく息を吐いた。
 気を楽に、下に降りるエレベーターを待っていたが、ふと昨日の帰り道で、ヨースケが言ったことを思い出した。

『え、なんかかっこいい人じゃん』

「どこがよ!」

 つい怒りに似た独り言がこぼれてしまった。
 あろうことか、そんな考えを主張したヨースケに腹立たしさを覚える。
 ヨースケは暗くてよく見えていなかったのだ。

 堂道がかっこいいなんてことがあるわけがない。



 羽切の言葉に、糸はめまいがした。

 先日から、妙に堂道運の巡りが良くなっている気がするが、まったく嬉しくない運気だ。

「N社って、昔まだ合併する前だけど確か堂道が仕事したことあるはずなんだよなー。まあ、それが残ってたとしても紙の資料だと思うんだけど。あるかどうか、堂道に確認しといてくれる?」

「あー……、堂道課長に」

「うん。ごめん、頼んだ」 

「はい……、わかりました」

 最悪だ。なんと憂鬱な仕事に当たってしまったのだ。
 しかし、こればかりは嘆いたところで仕方がないし、正当でれっきとした仕事なので、まさかキレられることはないだろう。

 機嫌が悪いときの堂道は怒鳴り散らしているのですぐわかる。
 いい時は被害もなければ興味もないので、平時の動向を気に留めたこともなかった。

 糸は仕事で関わることがないため、どのタイミングで尋ねに行けばいいかわからない。二課の夏実に聞くことにする。
 もちろん、課長の仕事を邪魔したくないという殊勝な心配りではなく、保身のためのリサーチだ。

『今の機嫌、悪くはない』

『オケ』

 良くはないが、そもそも、良い時がないに等しいのだから、行くなら今が最良とのことだった。

「ふう、よし!」

 糸は立ち上がり、静かに気合を入れた。
 上司のデスクに向かう心境として、今より辞表を出す時の方が気楽な気さえする。
 服装、姿勢、言葉遣いにしても、入社試験の役員面接並みの注意を払っている。
 一課長のくせに、何様のつもりだ。

「ど、堂道課長、今お時間よろしいでしょうか……」

 挨拶以外に、まともに話をするのは初めてかもしれなかった。

「あの、課長が昔、N社と取引されたとのことでお伺いしたいことがあるのですが……」

「ああ?」

 悲鳴をあげなかったことを褒めてほしいが、心はすでに折れそうだ。
 一対一、間近で接するとその威圧感は普通ではない。
 
「あ、あの、あの、N社の昔の資料がまだあるか、おわかりになりますか……」

 語尾がどんどん小さく、か細くなっていく。

「N社? あー? あー。資料室に……ある、か? わからん。探してみる。いつまで?」

「い、いえ! いいんです! ありそうならこちらで探しますので!」

「時間の無駄。ありそうな場所はわかるから俺が見とくから。いつまで?」

 手にしていたペンでこめかみを叩きながら、ぎろりと睨まれる。

「急ぎ?」

「で、できれば早いと助かります」

「あー? んじゃ、今見てくるわ。あったら入口に出しとくし、あとで見ろ」

「えっ、だったら、私も行きます!」

 立ち上がった堂道は、二、三秒動きを止めて糸を見た。
 堂道は意外そうな顔をしている。
 糸だって不本意だ。
 しかし、普通の社員相手の交渉事なら、ここは普通に一緒に行くところだ。
『助かりますー』と笑顔で言って。
 堂道相手にはそんな軽々しい応対はできない。なんなら、気を付けおよび敬礼したってお釣りがきそうだ。

「に、二度手間になると申し訳ないので!」

「あ、そ。別にどっちでも」

 そう言いながらも、すでに堂道は席を離れて歩き始めている。

「ご足労お掛けしますっ」

 堂道の後を小走りでついて行く糸を、夏実がすごい形相で見ている。 
 驚きと恐怖と同情と愉快の混じった複雑な顔。
 本当に。
 まさかこんな事態に陥るなんて、ついてない。

『上司と資料室で二人きり』。
 それがときめきシチュエーションであるのは、いわゆる『ただしイケメンに限る』場合なので、今回は当てはまらない。
  
 資料室までの移動で、エレベーターの中の沈黙が一番気まずい。

 特に話すようなこともないし、頑張って下手な話題でも振ろうものなら、問答無用で叩き斬られそうだ。
 堂道と普通に会話できるのは一体どんな人間なのだろう。

 やってきたエレベーターは、期待したものの残念ながら先客はおらず、糸と堂道の二人だけを乗せて降下する。

 堂道の斜め後ろに位置をとるや、糸は目の前に立つ男を凝視した。
 後ろ姿だが、こんなに間近でしげしげと堂道を見る機会などない。

 威圧感がある理由の一つに、堂道の背が高いこともある。
 糸の目線の高さは堂道の肩より低いくらいで、今も頭のてっぺんを見るとき、少し見上げなければならなかった。
 何センチあるのかわからないが、ヨースケより高い。ヨースケは一七〇センチだったはずだ。

 そして細い。贅肉など一ミリもなさそうで、薄っぺらい。

 ダークグレーのパンツに白いシャツ。それを肘までまくり上げていて、両手はもちろんポケットに突っ込んでいる。
 足元は紺色のクロックスで、堂道がそんなサンダルを履いていることがなんだか笑える。

 意外と小ぎれいなの着てるんだな、と思った。
 パンツの形が、腰回りに正しくフィットしている。
 堂道なのだから、シャツももっとくたびれた感じで、スーツは格安量販店の吊るしのよれよれのペラペラだと勝手に想像していた。

 服とか、どこで買っているのだろう。
 買い物は一人で?
 装いに並々ならぬ興味やこだわりがあるふうでもないが、靴下とか、下着とかも自分で選ぶのだろうか。
 今日着ているものにしても、何を思って、ネクタイやシャツを選んだのだろう。

 嫌われ者の人生でも、毎日、着るものを選ぶ自由と必要があって、そこに何か堂道の主義主張みたいなものはあるのだろうか。

 四十の男の人って、どんなことを考えているのだろう。

 なんてことを考えていたら、エレベーターが目的のフロアに到着したと音を鳴らす。十秒にも満たない盗み見をやめて、糸は我にかえった。

「きったねーな。誰か片付けろよ」

 部屋に入るなり、堂道が足元の段ボール箱を蹴ったので、糸はその場で飛び上がった。

「すみません!」

「いや、別にアンタのせいじゃねーだろ。しかし、マジでこれ誰か整理しなけりゃだめだな。ろくに仕事もしてねえヤツがやりゃあいいのによ」

 閉ざされていた部屋は空気が停滞している匂いがする。
 狭い室内を照らす無機質なはだかの蛍光灯は、普段、見慣れない種類の照明で、青白く、直接的なのに、どこか暗い。

 部屋いっぱいに何列も並ぶグレーのスチールラックに、整理されているようないないようなファイルが乱雑に並んでいた。

「N、N……、あー? どこだー? あるとするなら、たぶんこの辺……」

「あの、手伝いましょうか……」

 どこに何が、どんな順でならんでいるのか、糸にはさっぱりわからない。
 結局、後をついてきただけで何をするでもなく、入口のところで突っ立っているだけだ。
 手伝えるようなことは何もないが、ぼけっとしていると怒られそうなので、一応やる気があるところは見せておく。

「別にいいって。お、あったあった!」

 堂道の声が聞こえた棚を覗くと、最上段から段ボール箱を引っ張り下ろそうとしていた。

「おわっ! いてててて」

「だ、大丈夫ですか!?」

 糸が駆け寄ると、堂道は年季の入った段ボール箱をどさりと下に置いた。
 腰をとんとんと叩いている。

「持って上がんの?」

 ネクタイの先を、胸ポケットに突っ込みながら、尋ねられる。
 紺地のレジメンタルストライプのネクタイ。オーソドックスな柄に正統派な色目。

「いえ! ここでざっと拝見して、いる物だけもって上がります」

「あ、そ。はい、ドーゾ」

 そう言って、埃っぽい箱を親切にも開けてくれた。

「ありがとうございました!」

 糸が頭を下げる。

 堂道は、床に置かれた邪魔な書類を足で脇に寄せつつ、出入り口に一番近いラックに赤いプラスチックタグのついた鍵を置いた。

「鍵、ここな」とだけ言って、部屋を出て行く。

「あっ、はい!」

 堂道を嫌だと思う暇もなかったことに気づいたのは、糸が一人になってしばらくしてからだった。


3 堂道課長はこだわらない

 エンジ、レジメンタル、エンジ、レジメンタル。

 堂道課長のネクタイがその二本の繰り返しだということ知っている人間は糸以外にいないだろう。
 服にあまりこだわりはないらしい。
 二人で資料室に行った日から、糸はなんとなく堂道を見かけるとネクタイを見てしまうようになった。

 実のところネクタイだけでなく、パンツの後ろポケットから覗くハンカチまでチェックしてしまっている。
 
 驚くことに、堂道はハンカチを持っていた。
 先日、トイレから出てきた堂道を見かけたとき、ハンカチで手を拭いていたのだ。
 それがとにもかくにも意外すぎて、ついつい見てしまうようになった。

 相変わらず聞こえてくる怒鳴り声にはうんざりするが、何をどんなことで怒っているのか、その内容に耳を傾けてみると、当たり前のことを言っている場合が多い。
 
 今もそうだ。
 堂道のやり玉に挙がっているのは二課の茂武田もぶた

 納品の際に納品書を相手先に渡し忘れたとクレームを受けたようで、しかもそれがどうやら一度や二度ではないらしい。

 茂武田はすでに三年目だし、新人でさえ二度は許されるものではない。
 糸もさすがにナイと思う。堂道が叱るのももっともだ。
 
「もういい。ついて来い」

 堂道は立ち上がり、サンダルから靴に履き替えた。
 カバンをひっつかみ、舌打ちをする。

「へっ、どこに、ですか?」

 涙目でそう訊き返した茂武田に、
「ばっかやろう! 決まってんだろ! 謝りに行くんだよ!」

「は、はいっ!」

「決められた提出物を出すなんざ小学生でもやってんだろ!」

 目の端に映る堂道は大股で、風を切って糸の後ろを通り過ぎた。
 そのあとを茂武田が追いかけていく。
 残ったそこに香った何かに、糸は確信する。

 廊下ですれ違ったときに気づいて、もしかしてと思っていたことがあった。
 今まで気にしたことなかったが、というより今まで息を止めてすれ違ってたので気がつけなかった。

 タバコ臭九割、残りの一割に、かすかに香った何か。
 堂道は香りモノをつけている。

 昨日の昼休みの終わり、糸が化粧室を出たとき、両手をポケットに突っ込んだ堂道がちょうど前から歩いてきた。
 腕にはコンビニの袋をひっかけていて、配慮のない持ち方のせいで中の弁当はひどく傾いていた。
 いつものことだがすごく不機嫌そうだった。

「お疲れ様です」

「おう、お疲れ」

 かすれた声には疲労が滲んでいた。
 機嫌が悪いのではなく、疲れているのかもしれないと思った。

 これも最近気づいたことなのだが、それはどんなときも挨拶を無視されたことはないこと。
 堂道がすごく怒ってるときに、同様に最低最悪の気分にされた糸の不愛想な「お疲れ様です」にも「おう」とか「ああ」とか、返事しないことはないような気がするのだ。



 終業後、夏実と小夜、そして一課の営業の飯田と二課の尾藤とで飲みに行く。
 営業部は課の垣根を越えて仲がいい。
 おそらく共通の敵がいるからだ。話題がもっぱら堂道であるのはいつものことだが、場所が会社近くの居酒屋なので周りに関係者がいないかはちゃんと気を遣っている。もっとも、堂道の悪口を聞かれたところで同調する人間ばかりに違いなかったが。
 
「えっ」

 ビールを飲んでいた糸は思わずむせた。

「辞めた? 茂武田君が!?」

「そ、今朝いきなり。しかもメールで」

「わー、今どきー」

 笑顔でそう言う小夜は実は一番腹黒い。当たりはソフトだが敵に回したくないタイプだ。
 二課の尾藤と夏実は当然事情に詳しかった。
 夏実にいたっては鬼の首を取ったように嬉々として詳細を語ってくれる。

「でね、行き過ぎた指導があったとかで、堂道、人事に呼び出しくらってたわ」

「堂道課長、明日超機嫌悪いんじゃないー? マイナス四十度の世界だー」

「堂道、パワハラ認定されねーかな。んで左遷!? 異動!?」

 飯田も今後の展開にわくわくしているように見える。

「なんせイエロー出てるからね、いけるかも」

 堂道の今後の処遇について楽観的な盛り上がりを見せていたところで、
「でもさ、茂武田はさすがにナイと思うよ」

 さっきから糸がもやもやと思っていたことを、尾藤が言ってくれた。
 思わず糸は、尾藤を握手をしたい気持ちになる。

「そうだよ。茂武田君も茂武田君じゃない?」

 しかし、すぐに飯田が、
「まあ、でも短所をも活かしてやるのが上司じゃね?」
 と、堂道下げの方向へもっていく。

「わかってねえんだよ。褒めて褒めてしてもらわないと僕たちは育たないのよ、最近のワカモノだから。ん? 糸ちゃん、どうした?」

「え? ううん、別に?」

「玉響さん、体調悪い? なんか今日静かじゃん?」

「そんなことないよー」

 糸は妙に居心地の悪い思いをしていた。
 なぜか、早く帰りたいと思っている。
 会社帰りに、同僚と飲むのは嫌いじゃないのに。
 いつも騒いで盛り上がって発散できる楽しい時間なのに。

「らっしゃい!」

 すでに賑やかだった店内に、ひときわ大きな店員の声が響いたかと思えば、
「げっ!」と店の入口の方を向いて座っていた飯田が咄嗟に隠れる仕草をした。

「なに、どうし……わ、ヤバーイ」

 小夜も首をすくめる。

 一課の羽切、三課の課長、そして二課の堂道だった。
 課長そろい踏みだ。

 課長らも糸たちのグループに気づいたらしく、避けられないと悟った尾藤はいち早く「おつかれーっす」と頭を下げたのに続いて、全員ペコペコと会釈する。席を立って挨拶に行かねばならないほど体育会系の社風ではない。

「堂道課長、反省会かな」
「課長ズの慰め会だろ?」
「堂道、暗くね?」
「ざまあー」
「処分、沙汰が出たのか」
「減給とか生ぬるいのいらねーし、降格くらい頼むぜ、なー?」

 騒がしい店内に、聞き咎められるほどの静けさは全くないが、自然と声はひそめたものになった。

 糸は居心地の悪さが急に加速して、もうその場にいることが嫌になった。

「……ごめん、やっぱり体調悪いから帰る。ごめん」

 みんなの返事も待たずに紙幣を財布から抜く。
 課長たちの席を向いて一礼すると、速足で店を出た。

4 堂道課長は優しくない

「バカか、お前! できもしねえこと適当に返事してんじゃねえよ!」

 フロアに響き渡る罵声に、うんざりを通り越してもはや死人の目になっている夏実になぐさめの視線を送っておく。

 怒られているのは二課の椎野。
 茂武田の件で、その進退やいかにという話にまでなっていた堂道だったがまさかのお咎めなしとなり、営業部一同を落胆させた。
 糸はどこかほっとしていた。
 しかし、それは秘密だ。なにより、糸自身その心境を受け止めかねている。

「明日までだぞ!? できるわけねーだろーが! 報告してくんのも遅いんだよ! ったく!」

 堂道ついに部下に手を出すか!? という勢いで立ち上がったと思ったら、席を離れただけだった。
 立ち歩いていた社員が音もなく引いて道ができる(もともとある通路だが)。

 堂道はそこそこ身長があるし、般若度マックスの今、オフィス内が「若頭のお通りです!」の一場面みたいになっていた。
 触らぬ神に祟りなしと、みんな息を殺して見ぬふりを決め込んでいる。
 堂道はそんな周囲の空気など気にも留めず、胸ポケットを探りながら出て行った。
 煙草を吸いに行くのだろう。

「毎度のことだけどさー、こっちも嫌になっちゃうね」

 救世主、羽切の登場だ。

「椎野、もう席に戻れ」

 ポンと肩を叩き、
「間に合わないようなら言って。俺、手伝うから」

 よその課のことだし他人事だし、最近は堂道に少しだけ広い心を持つことのできている糸でも、こうも怒鳴られるとさすがに滅入る。

 ちなみに羽切が一課メンバー全員に耳栓を支給してくれていることは課内だけの秘密だ。
 実際に装着しているつわものはいないけど。

────でも今だって、言ってること自体は。

 糸は引き出しの書類の下に隠してあるメモをこっそりと見た。

 最近、取り始めた堂道怒り語録。

 冷静に聞いてみて思う。
 今までは嫌すぎてむしろ耳に入れないようにしてきたので、理解が及ばなかった。堂道は悪くない。言い方が悪いだけだ。

 その日は一課にもトラブルがあって糸は残業になった。
 小夜は予定があると言ったので糸が残った。

「玉響さん、帰っていいよ」

 羽切は言ったが、事務がいないと営業職の誰かがやらないといけなくなる。業務自体は彼らでもできなくないが、余計な時間がかかって効率がいいとは言えない。

「平気です。予定もないし、今月の残業時間まだ十分残ってますし」

「そう? ありがとう。助かる」

 羽切は気遣いもあるし、言葉もある。そして常に冷静で穏やかだ。さすが仏の羽切。
 堂道にそれが一ミリでもあれば、状況はずいぶん変わると思う。

 ほぼ課内全員で残業する一課の隣で、二人きりの残業をしている二課の姿があった。
 堂道と椎野だ。

 といっても、堂道は誰かの椅子を持ってきて、そこに、サンダルを脱いで脚をあげて、ふんぞり返って寝ている。

 堂道は痩せ型のせいか、足を投げだしていると妙に長さが際立つ気がする。

 糸はそれを、堂道のくせに生意気とは思ったが、無遠慮な姿勢に対して腹を立てることはなかった。昔なら嫌悪感でいっぱいだったはずだ。

「終わったー!」
「終電ギリセーフ!」

 一課のトラブルは、なんとか目途がついた。

「堂道」

 羽切が声をかける。

「んがっ!?」

「お前ら、終電大丈夫か?」

「ん? あー。俺んちはもう行ってら」

 腕の時計で時間を見た羽切が「ほんとだ」と肩をすくめる。

 堂道は、大きなあくびをしながら、
「おーい椎野、できた?」

「す、すみません。まだ……」

「あー? なんだよ、どんだけできねーんだよ、お前。オイ、手伝うから貸せ」

 今?
 ならば、寝ていないで最初から手伝えばよかったのではと思うが。

 糸の帰り道の方面は、途中まで羽切と同じだ。

「堂道課長たち、大丈夫でしょうか」

 主に椎野が。
 病んだりしないだろうか。
 茂武田の時のように急に辞めてしまったりすることはないだろうかと不安に思っている自分に気づいて、糸は我に返った。

 なぜそんな心配をしているのか。
 訴えられればいいのにと夏実らといつも言ってきて、他の社員だってみんな同じことを思ってる。

「大丈夫大丈夫。あんなだからすこぶる評判悪いけど、あいつに育てられたやつはみんな堂道のこと好きだよ。まあ十人いたら育つやつ一人くらいだけど」

「え?」

「そいつらは全員使えるヤツになって出世してる。だからみんな堂道の下につきたがってるよー?」

「えー……?」

「マジマジ」

「はぁ……」

 少なくとも糸の周りにそんな営業はいない。
 みんな、鬼か悪魔かマフィアかやくざかと言うレベルで嫌っているし恐れている。

 次の停車駅がアナウンスされる。
 糸が乗り換える駅だ。最終の乗り継ぎを急がないといけない。
 帰ったら一時前。

「……堂道課長って、終電もうないんですか」

「ああ、うん。あいつん家、遠いんだよ」

 堂道の家が遠かろうとどこだろうと別にいいのに、糸はどうしてか切なくなった。

次の日、糸たちが帰った後どうしたのか椎野に尋ねと、
「なんとか仕事終えて、課長とラーメンを食べた」

「ラーメン! 堂道課長と!?」

 そんな状況、味など絶対分からないに違いない。最悪すぎるシチュエーションだ。
 食べた後、タクシーで送ってくれてたと椎野は話してくれた。
 予想外の、まんざら嫌でもなかったという顔で。

5 堂道課長は遠慮している

 春。
 それは出会いと別れの季節。

「糸ちゃん、俺、異動なかったわ」

 ヨースケは開口一番、ガッツポーズをしながら言った。
 ヨースケの会社は、全国に転勤の可能性がある。

 今日は仕事帰りにデートだ。
 よく利用する安くて旨いうるさい居酒屋でジョッキをぶつけて乾杯する。

「とりあえずこの先一年は安泰だ」

「そっか、よかったね」

 ヨースケとは半年くらい前に合コンで知り合い、なんとなく二人で会ったりしているうちに、なんとなくいい感じになった。

 性格も距離感も年齢的にもちょうどよく、このままいけば結婚するかもなぁと糸はぼんやり思っている。

 ヨースケは優しいし、ウマも合う。仕事帰りの約束にもドタキャンも遅刻もしたことはなく、会社人間でもなければ、残業で終電逃すなど今まで聞いたことはない。出世よりも家庭を大切にしてくれそうだ。怒鳴らないし、ごみ箱を蹴ったりもしないだろう。ギャンブルもしない。
 はたと、思考が堂道基準になっていたことに気づく。
 もっとも、堂道がギャンブルをするかなど知らないが、おおむねその辺りは網羅していそうだ。

「なあなあ、今日のドードー課長は? 今日もキレた?」

 これまで糸の愚痴で堂道の話を百以上は聞いていて、しかし、社会人の仮想敵くらいのイメージしか持ていなかったのだろう。
 本物の堂道を見たことでヨースケは一気に親近感を持ったようだった。百聞は一見に如かずと言ったところか。
 日常のメッセージのやりとりですら、今日のドードーネタは? と聞いてくる始末だ。
 
「うーん。今日は元気なかった、かな」

「マジか、ドードー。毒でも盛られて腹でもこわした?」

「あはは。コンペ通らなかったらしいよ」

「ざまあ! えー、それなのに糸ちゃん、静かじゃね? どしたの?」

「えー? そう? ああ、会社で散々万歳したからかな」

 堂道を前に、社の利益などあったものではない。みな、個人の幸福を優先している。

「しっかし、ドードー。あれホンモンだなー。堅気じゃない感。あんなに紙たばこが似合う輩は普通にはいないって。今どき紙ってな」

「それ、褒めてる?」

「褒めてる褒めてる。あーいうの、盗んだバイクで走りだしたり、隣の中学にケンカ売りに行ったりする人種だろ。よく改心してホワイトカラーになったな」

「確かにね」

「バツイチだったけ? DVとかじゃねーの?」

「ヨースケ」

 糸は笑顔で、見ていたメニューの食べたいものを指さした。

「これ、頼も?」

 春、出会いと別れの季節。
 営業部にも退職者と異動が数名。
 今夜はその送別会だ。


 営業部の大願は成就しなかった。

『堂道の異動は……!?』
『ナシ(泣)』

 辞令後のフロア(水面下)で幾度となく交わされたやりとりの一例。
 筆ペンで『敗訴』と書いたメモを回す者もいた。

 送別会は会社近くの焼肉屋が会場だった。
 送別の意味よりもタダ肉を食べれるとあって参加率は非常に高く、一課は課長の羽切含め全員出席。他の課もほぼ顔をそろえている。二課の見慣れた顔も全部いる。但し、堂道以外。
 堂道は来ていない。

「堂道課長が行かなければ行く」は飲み会前の女子トイレの合言葉で、しかし、過去の社内飲み会に結構な割合で糸が参加してることを考えれば、堂道の出席率こそ低いのかもしれない。

 堂道の出欠がわかるまでは全身全霊でピリピリと神経質になっていたが、いざいなければ、その後は全く意識されることもないので、今までの飲み会に堂道がいたかどうかはあまり記憶になかった。

「堂道課長は欠席なんですね」

 網の上が炭化した野菜だけになったころ、前の席にいた羽切に思い切って尋ねる。

「え、堂道?」と目を丸くしたが、ややあって、羽切は韓国焼酎を自分でグラスにつぎ足した。

「……えっと、玉響さん、最近堂道のことよく聞いてこない?」

「そ、そうですかね? 別に意味はないんですけど……」

「まさか人事か労務あたりからパワハラ調査入った?」

「えっ、違います、違います」

 よかった、と羽切は胸をなでおろす。

「堂道ねー、そうだな、今日は三次会くらいからの参加じゃないかな」

「残業ですか? 二課、全員参加していますけど」

「いやいや、堂道は基本こういうの欠席。でも、もうちょっと内輪だけの集まりなら普通に来るよ。あれでね、結構気ィ遣いなんだよね」

 堂道のどの辺が周りに配慮できる人間なのだろう。
 納得も同意もまるでできなくて、糸は渋い顔になる。

 堂道はデスクに向き合わず、くるりと椅子を反対に向けて窓の外を眺めていた。
 一介の事務椅子なのに、社長椅子風情の体勢だ。

 オフィスは足元までの全面ガラスで、そこからの夜景はかなり綺麗だ。
 誰もここからロマンチックにそれを眺めることなんてないだろうけれど。

 糸は、そっと近づいて後ろから窺った。

 営業部のエリアはがらんとして誰もいないが、フロアにはほかの部署もあってそこには残業している人もいる。

 完全無人ではないからか、ヒールの音を聞こえさせないフロアカーペットの仕様もあって、堂道は全く糸の存在に気づかない。

 薄暗い最低限に落とされた照明の下で、堂道は、口に咥えた火の点いてない煙草を顎の動きで器用にそれを上下させている。

「……お疲れ様です」

「うぉっ!」

 絵にかいたような驚き方をして、堂道は口から煙草をぽろりと落とした。
 それが本物だったら、ズボンに焦げ穴が開いていることだろう。

「あ、あー、えーっと。え? 送別会は? 参加してねえの?」

「忘れ物をして」

「あー、そ」

「課長は残業ですか?」

「まーな」

「……課長、ここ禁煙ですよ?」

「え、あっ! わーってるよ! ……あ、すまん」

 すまんって謝ったのはおそらく、キレ気味に糸に向かって言葉を発したことについてだ。

 夏実は堂道のことを毛嫌いしているし、怒鳴られたくないから入力や書類は何重にもチェックをするらしい。
 それでも間違うことはあって、その時、怒鳴られるのを覚悟をして堂道の前に立ったら、
「あー……。まぁ、次からは気ぃ付けてください」と、不自然な丁寧さでそう言われるだけで終わったそうだ。

 夏実曰く『女はすぐに泣くし訴えるし、辞められると査定はもちろん堂道の会社員生命自体が危ないからヒヨってる』からだそうだ。

 酒が入っているせいか、糸は、堂道が全く怖くなかった。

 もっとも業務時間外だし、そもそも怒られるようなこともしてない。
 それでも、普段から仕事で直接関わりがなくとも存在自体が怖かったし、通路ですれ違うのですら気を遣う。
 最低限の必要な会話や、事務的な挨拶をすることもできれは避けたい。
 そもそも汚い言葉遣いや荒々しくすぐ怒るような性格の人間が糸は嫌いだ。

 堂道課長のデスクに近寄るのは、資料の有無をたずねたとき以来、二回目だ。
 あの時はそんな余裕もなかったが、今は、糸が自身でも驚くほど落ち着いていたし、大胆だった。

 堂道は、「何だよ!?」と言わんばかりの、あからさまに怪訝な顔で固まっている。

「焼肉、超美味しかったです」

「……は? そ、そう。それはそれは。ドウモおつかれさん」

「これ、お土産です。どうぞ」

 さっき焼肉屋を出たときに配られたガムを差し出した。

「ハァ?」

 眉間に般若のような皺が寄る。
 チンピラ口調で、
「オイ、焼肉食ってないヤツに嫌味かよ。えーと、たま……たま……」

「玉響です」

「ああ、たまゆらサン」

「ガム、どうぞ!」

「……だから! って、くそ。なんだよ。……ドウモ」

 一歩も引かずに、ぐいぐいと前へ出て、最後はなかば無理やり受け取らせた。
 堂道の指は長い。爪もちゃんと短い。

「じゃ、お先に失礼します」

「え? あ、ハイ、お疲れ……」

 踵を返して、どうしてか糸はニヤニヤが止まらなかった。
 頬の緩みを隠せない。

 明日は土曜日だ。
 会社ではなくて残念だなど、いつから糸はそんなめでたい社会人になったのか。

「こんなの、高校生みたいじゃん……」

 学校が休みで退屈していた、同級生に恋していたあの頃と同じ。

部下に手を出す上司は信用できない6話〜10話に続く


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