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26.堂道課長は覚悟している

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「……布団、オッサン臭いか」

 堂道の寝室にはやたらと大きなベッドがあった。 
 クロゼットの扉が開きっぱなしのままになっていて、糸がシャワーを浴びている間に、それを取り繕おうとも片づけようとも思わなかったらしい。
 
 ベッドサイドライトの調光だけがぼんやりと部屋を照らす。
 互いに一度果て、糸は後ろから抱きしめられたまま質問に答える・

「えー……? そんなこと……ないと、思いますけど」

「思いますってさー、臭いか臭くねえかくらいはわかんだろ」

 糸の口調にはまだ冷めない熱が残っていたが、堂道の方はすっきりした声で、そしてその話題はムードも余韻もあったものではない。

「堂道課長の匂いはします。この匂いが一般的に言う加齢臭なのかもしれないですけど、私はそれをいい匂いって思うから……あんまり、私の意見はあてにならないと思います」

「加齢臭って残酷な響きだな……」

 そう言えば、シーツからはいつもスーツの時に香る何かの匂いはしなかった。
 グレーのベッドリネンは寝室に招かれたときから堂道が起きた朝のまま、整ってはいなかったが、事後の今、それらは乱れきっている。

「男の一人暮らしの割にはマメに洗濯してる方だとは思うけど、シーツとかカバーとか買い置きしとかねえとダメだな。こういう場合に困るな」

「こんな場合がそうそうあったら困るので買い置きいりません。……課長って、何気に家事能力高いですよね」

「ま、自分のための家事なわけだし。休みの日、やる事ねえしな」

「課長……」

「同情すんな」

 糸は腕の中でくるり回転し、堂道と向き合った。

「あの、今さらですが、私、課長のおうちに来てよかったんでしょうか。特にここへは入られなくなかったんじゃないですか」

「寝室? 片付いてないからか? それとも気になるもんでも見つけたか? エロ本とか? そんなんねえぞ」

「そうじゃなくて……。私は、堂道課長のプライベートな部分が知れて嬉しいですけど、堂道課長には、私なんかに生活を侵されてしまって嫌なんじゃないかなって、少し反省しています」

「家ん中、生活感つーか所帯じみてたってこと?」

 違います、と糸は首を振って、「今まで、会社での堂道課長しか私は知らなかったから……、ここへお邪魔して、なんだか課長の生活の大事な部分に土足で踏み込んでしまった感があって……」

 堂道は一瞬考えてから、観念したように呟いた。

「そうだな。……正直言えば、糸がうちへ来て、良くもあり、悪くもあるかもな」

 その言葉に糸の身体が強張ったのを肌で感じた堂道は、糸のこめかみに優しいキスをしてから、絡み合っていた身体を適度に離した。

「ま、ちょうどいい機会だ。話しとくことがある」

 わざと、つないだ手を二人の視線の先に見えるように置く。指と指をくぐらせたしっかりと絡んだ手。

「今するような話じゃねえし、むしろ先に言っとかなきゃいけなかったのに、名古屋の帰りに突っ走って手ェ出しちまった。ごめん」

「よくわからないけど、謝るのはやめてください。悲しくなります。勢いでやっちゃって後悔してるってことですか?」

 身体を離した甲斐もなく、あっさり手もほどいて、首元に縋りついてきた糸の頭を、堂道は「ちげーよ」と何度も撫でた。

「いや、まあ正直、やっちまった感はあるかー。後悔といいうより自己嫌悪だな」

 堂道の手つきは優しさにあふれていて、糸への愛情がないわけではないとわかる。しかし、いまいち理解できないでいると、堂道がはっきり言った。

「俺との付き合いは、期限決めとけ」

「……期限って、別れる日ってことですか」

「そりゃ、それまでに別れるのはその決まりのうちじゃねえよ? ただ、そうだな、糸の三十がリミットだな。もしその日まで俺と続いてたら、そん時は強制的に別れよう」

 糸は勢いよく起き上がった。

「なに、それ……そんな……横暴です。どうしてですか? 結婚のことですか? 堂道課長が再婚しないからですか? 私と再婚するかは、この先考えてももらえないんですか」

「こらこら、そんなの胸見せながら言うことじゃないからねー」

 堂道は糸の上半身をシーツで包んでから、自分の胸に抱いた。

「再婚するとしてだよ? やっぱこんな一回り以上も上のオッサンで、しかもバツイチじゃ、糸のカッコがつかねぇじゃん? 糸チャンのダンナさんすごい年上のバツイチなんだってー、とか糸が不憫がられるのが忍びねえんだよ。兄ちゃんだって、俺より十以上も下だぜ?」

「私は……そんなの、兄なんかどうでも……」

「それに、実際な、そういう結婚のいろいろがもう正直めんどいの。だから、相手が糸だからどうこうってのを抜いても再婚は考えてない。前にも言ったけどそれは今も変わってない。考えてないのに、お前を拒み切れずに中途半端に手を出してしまった俺が悪い。絶賛猛省中だ」

「そんなの……じゃあ、私たちが付き合ってることなんか、時間の無駄じゃないですか」

 堂道の顔を見て言う。
 堂道は糸を見ていなかった。その目は天井のあたりを見ていた。

「俺も、そう思う。だから」

 堂道が言いたいことは必ず悲しい言葉に違いなかった。
 糸は、堂道が続きを言う前に、間に合うよう叫ぶ。

「好きなのに!? 私は好きです。堂道課長は、どうか知りませんが、私はもう引き返せないくらい、好きです」

「俺も好きだ」

「三年後もまだ好きだったら? 悲しくないですか? そんなのおかしくないですか? そんなの、嫌」

 泣きそうになって必死で抵抗する糸を、堂道は優しい目で見つめてくる。

「きっと、寂しいだろうなとは思う。でも、ボロ雑巾になる覚悟はできてるよ。もっといい女になった糸が巣立っていくのを俺は笑って送り出したい」

「……やだ」

「俺の存在は糸の人生の止まり木みたいなもんだと思ってから」

「……いやです! かっこいいこと言ったとか思ってるかもしれませんけど、全然ですから! そんなの男らしくないです。全然、堂道課長らしくないもん」

「別にかっこいいとか男らしいとか思ってねえよ。単に、臆病なだけだ。オッサンだから」

 広い板のような胸に突っ伏し、糸はしばらく黙った。
 堂道の心臓の動きが聞こえてくる。

「……糸? 泣いてんの?」

「……なんで、こんな一番幸せなときにそんなこと言うんですか。でも言っておいてくださってよかったです。課長の、そういうかけひきのないところ、好きなんです……」

 泣いてません、と糸は勢いよく起き上がった。

「堂道課長と結婚とか、私だってまだ考えてませんよ!」

「……あ? あ、そう。じゃ、お前のつなぎの間ってことで」

「ちがいます! 今はまだ、つきあってることだって信じられないって言うか、つきあえただけでもすごいって思ってるところなのに、結婚だなんてそんな欲張り言えません。……でも、課長がそんな気持ちなら受けて立ちます。もう、私なしではいられなくしてやる」

「ちょ、え……」

 糸は、堂道の身体の上に跨って、いきなり口に吸いついた。
 熱烈な愛情表現とばかりに、髪をぐしゃぐしゃにかきまわしてやる。
 いつか、あのセットしたままの髪に手を入れてやる、と糸は誓う。

 ようやく口と口が離れた時、堂道から、まるで水中から水面に浮き上がったときのような酸素を求める呼吸が聞こえる。
 糸の息も上がっていた。

「いいです、わかりました。三年ですね。三年後見ててください。私と結婚したいって言わせてみせます」

「おい、結婚考えてないんじゃなかったのか」

「鬼の堂道に膝をつかせてみせます」

「……おい、なんか勝負かわってねぇ?」

 堂道が笑って二人の身体が上下が逆になると、今度は堂道主導でキスがはじまる。
 キスをされたからにはと、糸が足を絡ませ、手に色気をつけて這わせていくと、

「だぁー! ムリムリムリ! ちょっとはオッサンをいたわれ!」

 堂道は糸の手を強制的に自分の身体から離した。
 糸をぎゅっと抱きすくめることで、その手の自由を封じた。 

「お前、やっぱ肉食系!」

「いえ、別に三回戦しようってわけじゃなくて……。ただ課長と触れ合っていたいだけです」

「ドーモアリガトウゴザイマス! 気ぃ遣ってくれて!」

「堂道課長、好きです……」

「……ほんと、マジで、無理。ごめんなさい、勘弁してください」

 堂道の泣き言など誰が想像するだろうか。 
 糸は胸が痛くなって、ぐりぐりと頭を擦り付けた。
 こんな一面を知ってるのは、社内で糸だけだ。

「……もう、好きすぎて、どうしたらいいですか」

 きつく抱き着いてくる糸にため息で応えた堂道は、撫でるように頭に手を置く。

「かわいいこと言ってくれちゃって……あー、情けねー……」

 糸は薄目を開けて、すぐそばにある顔を見上げた。堂道の筋の通った鼻をまじまじと見る。
 それというのも手で目元を隠しているからいくらでも盗み見ることができる。堂道は自分のふがいなさを責めているらしい。

「こんなオッサン、何を好き好んで……」

「大穴当てたと思ってますよ、私」

「はー? お前は大したばくち打ちだな。ありがたいような眩しいような。つーか、おいおい、また夜が明けてきちゃったんじゃねえのー?」

 言われて窓を見てみれば、寝室のレースカーテンから青白い夜明けが透けていた。
 うっすらを見える室内は、やはりクロゼットの扉が開いたままで、夜には見ていなかった周囲にドレッサーがあることに気づく。 シンプルなつくりだが、結構な幅のある豪華なそれは、おそらく婚礼家具だろう。
 香水のようなガラスの瓶がいくつか置かれてはいるものの、他はネクタイや衣類が積み重なっていて、鏡台本来の使い方はされていないようだった。

 胸が少し傷んだが、それよりも今、隣にある温もりを大事にしたかった。 気になるけれど、それはまたいつかの話でいい。

「おい、今日、ドライブなんじゃなかったか?」

「その予定でしたけど」

「仕事ならなんとか平気だけど、こんな激しい運動付きの徹夜なんて、俺、やったことねーから、居眠り運転するかも」

「それって、釣った魚にエサはやらない感じですか」

「ちげーよ! 行きたいけれども大丈夫かな、僕、って話だよ! 居眠ってたら起こしてネって話だ! 行きますよ? ドライブ行かせて頂きますよ! 行きますけど!」

「うそです、冗談です。今日はゆっくりしましょう? 私は、堂道課長と一緒いられれば、別に。ドライブに行きたいわけじゃないので」

 堂道は糸の顔をじっと見てから、その額に唇を押し当てた。

「……いつまでそんな理解あること言ってくれるのかねぇ。んじゃ、今日のドライブはドタキャンですみませんがよろしくお願いします。糸、好きだよ」

「うわー、なんですか、その取ってつけた感」

「えー? なにもとってつけてねーし……おやすみ……」

 そう言ったのを最後に、びっくりする速さで堂道の呼吸は寝息になった。 今日はずっと一緒にいられるのに、それでもやはり、寝るのがもったいないと思ってしまう。

 せめて、堂道の寝顔をじっくりと堪能する時間に充てようと思ったが、それもわずかな間で、糸も襲ってくる睡魔にあっという間に瞼が落ちた。

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