27.堂道課長は出世できない
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週明け、身体は重く、気分はだるい。
頭がぼうっとしているのは間違いなく寝不足が原因だ。
二課の課長席をさりげなく振り返って見てみると、堂道が電話をしている。
髪形はいつもの形状を保っていて、難しい顔で熱心に話をしている。
朝からも離席続きで何本ミーティングをこなしたのか。席に戻れば戻ったで、休む暇もなく部下へ指示と叱咤で忙しそうだ。
「絶対これ明日死ぬ」と昨日枕を抱えていた堂道こそが、バリバリ仕事をこなしているのを、糸は目を細めて仰ぐ。
そんなオンとオフの単なる切り替えさえ、今の糸には加点にしかならない。
結局、週末はずっと堂道の家で過ごした。
家でというより、ベッドの上でと言った方がより正確だ。
寝室が薄暗かったり薄明るかったりするだけの時間感覚の中で、ひたすら微睡とふれあいの繰り返しだった。
テレビもネットのニュースも全く見ず、たまに起き出して、洗濯をしたり、かんたんな食事を作ったり、二人で缶ビールを開けたりするのが自由で奔放で楽しかった。
箸が転んでも幸せな、恋愛初期の疑似結婚生活ほど楽しい時間は他にない。
土曜日は無理だったにしても、日曜日も時間はたっぷりあったというのに、初デート案であるドライブには出かけられなかった。
ただ、近所への食糧の買い物時と、糸のマンションまで車で送ってもらったので、それが事実上のドライブとなった。
四十八時間も一緒にいたのに、糸は独り暮らしの部屋に帰ったとたん、もう堂道に会いたくなっていたから、恋の病は十分に重症化しているといったところだろう。
堂道にそう言ってラインをしたら「アホか」と返ってきた。
さすがに「俺も」とか「会いたい」と返ってくるはずないと思っていたが、心の中ではきっと同じ想いだと信じれるほどには堂道は糸に愛情表現を惜しまない。
糸はちゃんと、愛されている。
糸がコピーを取りに席を立つと、堂道と目が合った。
当然、目が合ったところで無視だ。もっとも、微笑まれたりしても怖いし、対応にも困る。
ただ無視は無視なのだが、すぐには逸らさない。
一秒くらいは糸に視線を留めてから、視線の動きを再開させる。その一秒たらずの停止こそアイコンタクトなのだと勝手に理解することにした。
「小夜ちゃん、糸ちゃん、飲みに行かねー?」
斜め前の席から、当馬が声をかけてきた。
終業時間を過ぎて、ちらほら退社する人がいる。
「もうそんな時間かぁ」と辺りを見渡すふりをしながら、少し離れた堂道を見たが、パソコンの画面から視線を外さない。
「いいね、どこ行く?」小夜が乗るのに、糸は肩をすくめた。
「ごめん。今日、用事あって」
堂道の仕事が早く終われば、今夜は糸のマンションに来てもらう約束をしているのだ。
昨日も一昨日も、その前の晩から一緒にいて、なんなら今日も一日視界に入っていたというのに、堂道も相当どうかしている。片時も離れたくない高校生のカップルでもあるまいに。
糸のデスクでスマホが震え、ウインドウに浮かんだポップには堂道の名前があった。
『行ってこい。仕事終わりそうにない』
『遅くなってもいいですよ? 家で待ってますから』
『今日は行ってこい。待たれてると落ち着かねーから』
『せっかく今夜も会えると思ったのに』
糸はスマホを手にしながら、どっちにしても家に帰って休息を取った方がいいかもしれないと思う。
まだ月曜日だというのに、気力体力共に回復に至っていない。
またその時、二課の尾藤が「俺も行くー」と手を挙げる声が聞こえて、糸は振り返った。
尾藤は先週から堂道と組んで、親密に仕事をしている。一緒に外出していたこともある。
尾藤から、何か堂道の情報が聞けるかもしれない。
昼食は何を食べたのかやどこでコーヒーを飲んだのか、堂道の仕事ぶりや部下からの評価など、間接的に語られる好きな人のことほどわくわくするものはない。
糸は『今日は家でゆっくりします』と入力していたのを消して、『少しだけ行ってきます』と打ち直した。
『飲みすぎんなよ』
堂道の方を向くと、目が合った。
*
「堂道課長、マジ、うざくねー?」
飲み会は相変わらずだった。
堂道は酒の席で人気者だということを知っていたはずなのに、最近は糸自身がポジティブなアプローチに視点が偏り過ぎてすっかり世の中の評価を忘れていた。
かつては糸も同じ穴の狢ではあった。
しかし、今は誤解を解きたくなるし、正当化したくもなる。かばいたくもなる。
堂道の話題と言っても、こんなことが聞きたいのではない。
尾藤に「堂道課長と最近、仕事してるんでしょう」と尋ねると、イイ話を聞きたいのに、結局愚痴しか聞かせてもらえなかった。
誰か、何か、糸の知らない堂道の話を聞かせてくれるような人はいないのか。
そんなことを期待していたら、
「そういえばさー、今週、海外支社の人が出張で来るって聞いたわ。それが、もともと堂道課長のチームにいた人だって羽切課長が言ってさー」
「NYの次長だろ? 社内報で見たことある。まだ三十代とかって」
「ヤベ―。堂道、追い抜かれてんじゃん。下克上、ざまあ」
新たに不愉快な情報を仕入れてしまったので、糸は耐えられず先に店を出た。
帰りの電車で『今から帰ります』とメッセージを入れる。
堂道はまだ残業中らしい。
『遅くても来てくれていいですから』と送ったが、『今日は帰る』と返事が来た。
結局、堂道の『ただいま』の時間には、糸はすっかり夢で『おかえりなさい』さえ言えなかった。
*
営業部のフロアがざわついている。
というのも、ニューヨーク支社の星野が古巣の営業部に挨拶に来ているからだ。
みんな仕事をしているよう装いながら、そこここでひそひそちらちら、星野を窺っている。
「イケメンエリートって実際に存在する生き物だったんだ」
御多分に漏れず、コピーのために席を立った体で、夏実が元エースの凱旋を遠巻きに眺めながら感心したように言った。
出世街道まっしぐらの星野は、実物も下馬評を裏切らない『イケメン』だった。
よほどの不細工でないかぎり、人はやたらと『エリート』と『イケメン』をセットにして伝説化しがちだが、星野は噂に違わず正真正銘のイケメンでエリートだ。
笑う顔は、まぶしい笑顔という形容がぴったりで、そこそこ背も高い。
おまけに独身だというので、女子社員は興味深々で仕事そっちのけだ。
「それにしても、なんで部長がドヤ顔なわけ?」
営業部長の馴れ馴れしさが目に余る。
星野がまだ営業部にいた頃、今の部長は他部署にいて、当時から直接の面識はないらしいのに。
そんな部長に嫌な顔一つせず、腰も低い。
「おーい、仕事中なんですけどー。アイドル様の来社かよってんだ」
堂道が自分のデスクのパソコンから視線を動かさないまま、誰に宛てるでもなく呟いた。
「やばっ」と夏実が慌てて自席に戻る。
周りの野次馬も、蜘蛛の子を散らすように席に着いた。
羽切は星野と親し気に談笑しているが、堂道は星野に目もくれない。
「やっぱり、堂道課長、星野さんのこと嫌いっぽいねー」
小夜が身を小さくして、こそこそと糸に尋ねてくる。
星野がかつて堂道の部下だったことと、現在の肩書を見比べて、外野は好きに噂している。
人気者の星野と嫌われ者の堂道、その対比は格好の餌食だ。
かつての部下は今や海外支社の次長で、堂道は自分より出世している星野に対し、恨み辛みに始まり、妬み、僻み、あらゆる感情に悩まされているとか、堂道のパワハラに耐えて頑張り続けた星野を、当時の部長だか課長だかが認めた結果が海外行きだったとか、今も独り身なのは星野の彼女を堂道が寝取ったからだとか。
今だって、いつものように怒鳴り散らして注意しないことにつけても、余計に好奇心をあおるらしい。
「最近、特に機嫌悪いもんなー」
糸と小夜の話に、当馬が入ってきた。
みんな曰く、堂道は元部下の出世に凹んで、落ち込んでいるらしい。
「別に機嫌悪いのはいつものことだと思うけど……」
糸は、さり気なく堂道を見た。
相変わらず、パソコンの画面を睨むように見ている。
堂道からは、特に星野についての話を聞いていない。糸からも聞けずにいた。けして噂を信じているわけではないけれど。
『今日飲んで帰る』
『私は少し残業になりそうです』
糸は小さくため息をついて返信する。
堂道と、平日の夜に会うことはなかなか叶わず、もちろん、糸の家にもまだ招待できていない。
今日は残業することになったのだから、時間があえば一緒に帰れるかもしれないと思った日に限って堂道の方が早く帰るとは。
すれ違いを嘆くほど何週間も会えていないわけでもないし、飲みの席を咎めるほど子供でもない。
堂道が帰った後の空の席を見て、少し残念に思うだけだ。
「玉響さん、もう終わりそう?」
そろそろ上がろうかと思ったところで、羽切に声をかけられる。
「飲みに行かない? 堂道と星野が近くで飲んでるから」
「え? あ、そうなんですか。堂道課長と星野さんが……っていうか、私が行っていいんですか?」
「もちろんだよー」
一応、堂道にメッセージを入れておく。
今から羽切と一緒にそちらに合流すると伝えてると『わかった』と返事が来た。社外秘ならぬ社内秘交際中の身ではあるも、『来るな』ではないようだ。
「堂道課長と星野さんって二人で飲みに行くような仲なんですか……?」
おずおず羽切にたずねると、「ああ、仲悪いって噂かー」と苦笑した。
もし二人に因縁のようなものがあるのだとすれば、あらかじめ情報は入れておきたい。もとより敵の多い堂道だ。人間関係の摩擦が他の人の比ではないのは納得できる。
「堂道は噂もデマも否定しないし、野放しだからな」
「昔、なんかあったんですか」
「ないない。心配してたんだ?」
糸は頷いた。羽切の言葉にホッとしていた。
「むしろ、星野が海外行けたのは堂道のおかげだよ」
*
「女の子連れてきたよー」
糸を連れて登場した羽切に、「アウトー、それセクハラ発言ですから」と赤い顔をした星野が派手に非難した。かなりご機嫌な様子だ。
「お邪魔します。営業一課の玉響です」
堂道は「お疲れぇ」とぶっきらぼうに言ったきり、糸にも素知らぬ顔だ。
堂道と星野がすでに四人掛けのテーブルに向かい合っていて、それぞれの隣の空席が一つずつある。
羽切が星野の隣に席を取ったので、糸は必然的に堂道の隣に座ることになった。
今をときめく星野と同席するのは少し緊張した。
昼間、遠目に見ただけでも、人から好かれる明るさを持っているのがうかがえたが、酒が入ってより朗らかになっているようだ。
「泥臭い仕事が懐かしいっすよー」
「泥臭い仕事……ですか?」
三人の話題がだんだん勢いを失ってきて、昔の思い出話が繰り返されるようになってきたので、糸はようやく首を傾げる。
近況の仕事の話には出しゃばってはいけないと思い、それまでは相槌を打つだけにとどめていた。
「そうそう、根性見せてみぃ! って言われてまさに根性見せる感じの。東京から九州までトラックぶっ飛ばしたり。雪ん中、仕事もらえるまで外で待ったり」
星野が得意気に武勇伝を語って聞かせる。
「それ、ネタじゃなくてホントにですか?」
「マジマジ。四課にこいつらがいた当時はアウトローで有名だったんだよ。そんなんばっかやって仕事取って来て。もはや交渉じゃなくて懇願みたいなやつなー」
羽切が星野の肩を何度もたたいた。
「さすがに俺も最近はそんなんやってねえよ?」
「堂道さんと漁船乗ったこともありましたよねー」
「漁船!?」
糸は思わずビールをむせた。
「堂道さんってば、本物の漁師かと思うくらいめちゃ働きよくって。漁師にスカウトされて」
「逆にコイツ、ずっとゲロってて。マジ役立たず」
「だって、俺、昔から乗り物酔いするタイプでー」
「夏至さん、超器用で何でもできちゃうんですよね」
「堂道の場合は、器用貧乏とも言うけどなー」
「あれって、水族館でしたっけ?」
「ああ、アシカの飼育員なー。あれはマジで転職考えたわー」
堂道の口調はいつもと変わらない。
それでもいつもより笑っている。
「むちゃくちゃだったけど、すっげー楽しかったなぁ。羽切さん、何とか言って下さいよ。この人、なんでまだ課長なんすか」
「それは俺もだけどねー」
「まあ、確かに本社は椅子の数も少ないし、昇進難しいっすよねー」
「特に堂道は、パワハラで時代に超逆行してるから難しいだろうなぁ。言っても聞かないのよ、こいつ」
「夏至さんのは愛情の裏返しなんだけどなぁ……。今の奴ってハッパかけないと仕事の効率上がらんし」
「まぁ、堂道の場合は言い方ね」
「うるせーよ」
「夏至さん、愛情不足だからなぁ。満たされれば丸くなるんじゃないすかね?」
「ほっといてくれ」
「まだ再婚してないんすかぁ?」
「してねーな」
羽切と目が合ったが、糸が笑顔のまま目を逸らしたので、やんわりと話題を変えてくれた。
「星野こそ。独身だっていうんで女性陣がザワザワしてたよ。行く前、結婚前提で付き合ってた子いたよね? 別れたの?」
「あー。しばらくは遠恋してたんですけど、やっぱりダメになりましたね」
さも寂しげに手酌で日本酒の徳利を傾けながら、
「でもまぁ、あと二、三年で日本帰れそうなんで、そしたら本腰入れて婚活しますよ」
苦笑する星野を前にして、
「だそうだぞ?」
と、堂道が流し目で糸を見た。
羽切が無言で目を丸くしている。
「あ、玉響さん、彼氏募集中なんですか?」
社交辞令であっても、咄嗟にそう切り返せる星野はさすがエースの営業マンだ。
四人中二人が当事者で、もう一人は交際を知っているが、ここまでその体では話をしていなかった。
堂道も糸も何も言わないし、それらしい雰囲気も出さないので、羽切は言い出せずにいたのだろう。
糸は突き放すように堂道を一瞥してから、「いえ、付き合ってる人はいます」とはにかんでみせた。
態度こそかわいげのないものだったかもしれないが、実際には怒りよりもやはり悲しさの方が先立っていた。
妙な空気はほんの一瞬で、星野はそれを察知したのかは定かではなかったけれども、「そうですよね。綺麗な人だもん、男が放っておかないですよね」アメリカナイズな口上で残念がってみせた。
堂道は人ごとのようにしょっぱい顔をして日本酒をなめている。
が、突然、天井を仰ぐように勢いよくそれを飲み干したかと思うと、乾いた猪口をテーブルに叩き置き、
「あー、うん。……俺と付き合ってる」
「え? え……、えぇーーー!」
驚きの声を出したのは星野以外に糸もだった。
星野は立ち上がる代わりに背筋がおもいきり伸びて、座高が高くなっている。
「もー。この期に及んで言わないとか、俺、玉響さんに考え直せっていうところだったよ」
「え、え、え、あ、だから羽切さん連れてきたんですか? 確かに堂道さんと同席してくれる女子なんて今の会社にいないはずなのにおかしいと思ったー」
堂道のヒールっぷりは海を越えて届いているらしい。
「再婚するんすか!?」
「さー、それは未定」
「ちょ、そんな若くてかわいい奥さんとか超うらやましすぎるんですけど!」
「ということで、俺ら帰るわ」
「えっ?」
堂道は席を立ち、糸の腕を引いた。
「えええ、ちょっと話聞かせてくださいよぉ! 今日じゃなくてもいいですから! まだ日本いてますから!」
突然の中座に、糸は二人にペコペコと頭を下げながらも、堂道に連れられるがまま店を後にした。
店を出たとき、糸は堂道に手を握られていた。
「ちょっと、堂道課長! 待って、くださいってば。歩くの、早い! ねえってば」
会社帰りにスーツ姿で、鬼課長と恐れられる四十男が、女性と手を繋ぐ姿など、堂道を知る誰の目にも新鮮に映るだろうし、何より本人の違和感も大きいに違いない。
糸を引っ張らんばかりの早歩きと苦々しい表情にそれが表れている。
「……悪い」
少しだけ、歩みは遅くなったが、引きずられているような構図は変わらない。
堂道なりに誠意を示したのだろうとわかってはいたが、糸はあえてふてぶてしく言った。
「私の事、売った」
「……売ってねえよ」
「星野さんとくっつけようとした」
「『だそうだぞ』しか、俺、言ってねえじゃん」
糸は思い切って足を止める。
気づかず先を進んだ堂道に、腕が一瞬引っ張られたが、断固その場から動かなかった。
「お前は散歩嫌がる犬か」
糸は鼻息荒く、仁王立ちになって、
「私、怒ってます」
「……わーってるよ」
バツの悪い顔を一旦逸らしてから、堂道は二、三歩戻ってきた。
今度は糸の手を握るのではなく、絡めあう形に手を繋ぎなおし、ゆっくり並んで歩き出す。
「お前の幸せを想えばこそだな、俺は……」
「勘違いな保護者ヅラ、ありがた迷惑なんですけど」
「しかし、お前、出世頭だぞ? 駐在妻だぞ?」
「別に夫の出世にも海外暮らしにも興味ありません。英語喋れないし」
「お前はどこまで規格外なんだよ」
「言っときますけど、たとえ堂道課長とお別れすることになっても、次の彼氏を課長に選んでもらうのなんて頼んでもいないし絶対お断りですから。親切心とか思ってるのかもしれませんけど残酷なだけですよ」
「残酷ねぇ……。こっちも断腸の思いなんすけどね」
「勝手にハラワタちぎれられても困ります」
糸は五本の指のすべてに力を込めた。
交互に重なる堂道の指もまた締め付けられる。
「……私に、バツの一つでもつけば、課長は少しは認めてくれるんですか。私もスタートラインに立てるんですか。だったら、どっかで誰かに籍入れてもらってきますよ。それですぐ離婚してきます」
「あのなー」
堂道が乱暴に頭を掻く。
「だってそういうことでしょ?」
「そうじゃねえ、ともいえねえけど……」
糸は堂道のジャケットの腕部分に顔を押し当てて、匂いを嗅ぐ。
こんなに近くにいるのに、ままならなくて苦しい。
できるのなら、この場で押し倒してやりたいくらいだ。
「あんまり変なことばっかり考えるんなら、既成事実作っちゃいますよ?」
「は?」
「うち、来ます?」
糸があざとい上目遣いで堂道を見つめるのに、ゴミを見るような目で見下ろしてくる。
「……何を企んでるかわかるから行かねえ」
「確かに、課長に責任を取らせる方法を考えてます」
「……俺は絶対に失敗しない」
だいたい子供ってのは授かるものであってだの、いいトシした男がだのと、くどくど説教じみた話をしているうちにいつもの駅に着く。
かくして、二人は向かったのは、堂道の利用する路線ではなく、糸が使っているM線のホームだった。
その日は、今までのようなお行儀のよい始まりではなかった。
部屋のドアが閉まるや、堂道は糸を壁に押し付けて、舌を絡めてくる。
「はっ……やっぱ、こうじゃねえとな」
「こう、って、どんな……」
「イキオイ的なもんがさ、いるんだよ」
言葉の合間にもキスは繰り返される。
靴は、『脱いだ』ではなく『脱げた』というのが正しい有様で、どうにかスイッチを入れた玄関の電気だけが唯一の灯りだった。とはいえ、ワンルームマンションなので、その漏れ灯りで十分だ。
狭い部屋だから、ベッドは探すまでもなくすぐそこにある。
糸が堂道の来訪に備えて調えた渾身のインテリアは注目されることもなく、ただ動物的な男女の絡み合う背景でしかない。
首根っこに噛みつくライオンのように、堂道が唇を糸のうなじにこすりつける。
「糸……」
「かちょう……やだ、まって、ください」
驚くほどの早さで服は脱がされ、鋭い目は見たこともない熱を帯びている。
これほどまでの衝動的な理由が何なのかはわからない。
かつての戦友との再会なのか、苦し紛れに煽った酒なのか、不本意な交際宣言か、はたまた上司と部下が会社帰りにするセックスなのか。
「星野は、男前だし、エリートだ。どんどん出世もする」
糸の頬を指で撫でながら、堂道は切なげに笑う。
「こんな時に他の男の人の話をするなん、て……それって……どうなんです、かっ」
「他の男の話を、男がするのはいいんだよ」
「なに、……その、理屈……あ、あ……」
息も絶え絶えに、今せずともいいような話を、いつになく濃厚な行為に反して、淡々としているのは、今のときが、なんのための、なにであるのか、それは不思議で愉快でもあった。
「出世、追い抜かされたのに……仲、いいんですね、星野さんと」
「あのなぁ……! 仕事人生、出世が全てじゃねえんだよ」
堂道の額に浮かぶ汗を、糸は愛おしく見上げてぬぐう。
「……っ、ちなみに、俺に出世期待してんなら……それは見当違いだぞ」
「そんなこと、はじめからわかって、ます」
本当は、転勤になるはずは堂道だった。
羽切から聞いた話だ。
海外転勤の打診が堂道にあったことは確からしいが、ふたを開けてみれば、辞令が出たのは星野だった。
自ら断ったのか。それとも、もともと外資系企業が第一志望だったという星野にチャンスを譲ったのか。
転勤命令を拒否したから、堂道は梯子を外されたのか。真相はわからないそうだ。
しかし、かつて同じ窯の飯を食った二人の肩書きには今や大きな差がついた。
「……俺って、案外部下を育てるのが上手いのか?」
「へ……? は、い?」
まるで重要なことに今、気づいたかのようにぴたりと動きを止める。
見ると、堂道の汗が滴り落ちてきそうだった。確かに、エアコンをつけるのを忘れている。
こんな時なのに、営業部の面々の苦々しい顔が思い出されて糸は苦笑した。
どれだけ楽観的に、どれだけ堂道びいきな目で見ても、それは素直に同意はできそうにない。
「うーん、育てるのと同じか、それ以上に、部下を潰してる気もします、けど」
おいおい、ずいぶん言うようになったじゃねえか、と、堂道は糸の鼻をからかうように摘んだ。
「確かに……バカらしいか。出世のあげく女まで、わざわざくれてやらんでもな」
「あっ」
挑戦的な顔で笑って、再び腰を激しく打ち付けた。
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