【同性愛】 映画ですら、自分には当てはまらない感覚
話題作!! 全米が泣いた!! 来場者○万人突破!! そんな謳い文句が掲げられた映画の作品。
男女の恋愛を描いたそんな映画を見ながら、私は密かにいつも思っていた。
将来、私はどっちになれるんだろう、と。
第三者の感覚にしかなれない私
男女の恋愛を描いた映画。小さいころに家族で話題作の映画を見に行ったとき、物語を観ながらずっと「私は、どっちになれるんだろう」と密かに思っていた。
多くの人が見たことがあるであろう洋画でも邦画でも、ディズニーでもジブリやその他の作品でも。
男性に恋する女性側の気持ちが分からない。かといって、女性に惹かれる男性側の気持ちに共感できるのかと言われれば、それも少し違う。
さらに二人が愛し合う描写が映し出されたときには、もっと分からなくなってしまう。
男女の横顔のクロースアップショットがスクリーンに大きく映し出される。私はどちらにも当てはまらない。どうしよう。何度観ても、どんな作品を観ても、いつもそうだ。どうしよう。いや、いまの私が幼いだけで、自分もいつか大人になったら、どちらかに当てはまる日が来るのだろうか。
そんなことを考えながら、幼いころから私はどちらに感情移入することも共感することもできず、ただ第三者的な感情でスクリーンを傍観するだけだった。
男女という二極があって、そのどちらにも自分は当てはまらない感じがする。男女の恋愛の描写があっても、自分が大人になっていって、いずれはそのどちらかになるのかも知れないだなんて、そんな想像すら出来なかった。
ひたすらに自分には当てはまらない感覚だけが残り続けて、映画を見終わってやっと外に出るとき、周りの反応と自分が抱いた感情に大きな落差があることに気がつく。
まるで、自分が抱いていた違和感をあらためて実感させられるかのように。
どこにいるんだい?
そのまま少し大人に近づいて、高校生になった。一緒に映画を見に行こうと友だちから誘われる。その時々の話題作を何度も一緒に見に行った。映画を見終わって帰る道すがら、友だちから「あそこの場面、すっごいキュンキュンした!」なんて肩を叩かれても、全く分からない。分かることができない、共感ができない。「主人公の◯◯くんが助けにくるところ、カッコ良すぎなかった?!」興奮した友人からの言葉で、その感情が自分には無いことに改めて気がつく。自分で気がついてしまう。
表面的にヘラヘラと笑いながら「うんうん! すごかったね!」なんて心にもない言葉を返す。分からないと変だと思われると考えていたから。友だちと5人で映画を見に行って、私以外の4人が「主人公の男の子にキュンキュンした」と、そう言っているのだから。私だけが違うということは、たぶん私だけが変なのだ。きっと、そうなのだ。
映画を観に行った翌週、教室に入ると映画のパンフレットを机に広げながらキャッキャッ言い合う友人たちの姿。どうしよう、と内心で密かに思いながらも自分の机に近づく。
「あっ、おはよ! ねぇ、どこのシーンが一番カッコ良かった!?」
私は、パンフレットに載っていたジャニーズの人を適当に指さして「ここの場面がさ〜!!」なんて、心にも無いことをまた口から溢し(こぼし)出す。感情が微塵もこもっていない偽りの言葉を積み重ねる度に、そんな言葉を自分自身で聞くたびに、私の心の涙も溢(こぼ)れてしまっていた。
もしかしたら、私には恋愛感情がないのかもしれない。もしかしたら、愛情の感覚がないのかもしれない。もしかしたら、それ以外のなにかの感情が欠落しているのかもしれない。いや、まだ幼いだけだ。これから大人に近づいて大学生になって、成人して、どんどんと大人になっていったら、大丈夫、大丈夫。
そう言い聞かせて、自分を落ち着かせる。
でも、ことあるごとに感じていた。フワフワとして掴みきれない、周りとはなにかが違うという違和感を。それは思春期にと突入するにつれて、疑惑は濃く、疑問は深くなっていった。
やっぱり、自分だけがどこか変だ、他の人となにかが違う。
私はずっと密かにそんなモヤモヤした感情を抱いていた。
ずっと、 そこにいたんだろう?
ついに大学生になり、20歳になった。ちょうど成人した年。生まれて初めて「これは映画館で一人きりでぜひ観たい」と思う映画に出会った。YouTubeかなにかで流れていた広告を見て、その一瞬一瞬のシーンを垣間見ただけだったのに、共感に近い私の感情が大きく動いたから。
大学の講義終わりの夕方に一人で映画館に行って、映画『キャロル』を観た。ワクワクに近いドキドキを抱きながら、それを観た。
物語が進むにつれ「これだ、これだぁ」と座席に沈み込んでいくような感覚があった。それは、言葉で表現するなら「腑に落ちる」とか「安堵する」とか「安心感に包まれる」ようなもの。
ずっとずーっと探し続けていたものに、やっと出会えた感覚。
やっと、抱いていたあのモヤモヤした感情がクッキリと形を成した。モヤモヤしていて掴めなくて、そのモヤに包まれていてずっと視界が霞んでいたけれど、それがいまちゃんと自分の両手で包めるような、ハッキリと輪郭を持ったものになった。
両手で包んで掴めるようになったら、じっくりと様々な方面から観察できるようになった。形が分かったから、調べやすくなった。私だけじゃなかった。ちゃんと形を持ったしっかりとした感情だったんだ。
見終わったあとは、生まれて初めてこんなにも映画に対して感動できることを知った。映画を見る前の自分と、映画を見終わって映画館を後にした私は、外側から見たら変化はないけれど、内側はたしかに興奮と希望で溢れていた。
それからは原作を何度も読み返し、この作品が当時は同性愛(特に、女性同士であることから)をカモフラージュするために異なるタイトルで発表されていたこと、匿名で発表されていて、それが現代になって映画化されたことなどを知った。
この物語を書いた作者パトリシア・ハイスミスは、どんな気持ちを込めてこの作品を書いたのだろう。関係のないタイトルと匿名で発表するしかなかった時代背景は、一体どんなだっただろう。
生涯を通して自分の本当の気持ちを隠し通さなければならなかった人たちは、一体どんな気持ちで生涯を終えたのだろう。
映画作品ひとつで、こんなにも心が動いて、考えが巡る。そんなことを初めて知ることができた20歳だった。
そこから私は映画に興味を持った。すると、1900年代のアメリカには、同性同士の恋愛を描いた映画作品の結末は必ず悲しい結末でなければならなかったというルールがあることなども知った。
今までにも、どれだけ悲しい歴史があったのだろう。そんなことに思いを馳せながら『キャロル』の終わり方が希望に溢れるものだったことに安堵し直した。
映画一つで気持ちが救われるだなんてそんな大袈裟なこと、なんて思っていたけれど、この作品は私にとってたしかな救いとなった。違う表現をするならば、当時の私にとってたしかな「心の避難所」になってくれたのだ。
↑ 以前の記事でも『キャロル』や他の作品に触れています
実は、見えていないだけだった
ここからは余談ですが、それから数日後の大学の講義では、タイムリーなことに「最近 観て良かった映画」を口頭で発表していく機会がありました。ほとんどの人がマーベルなどの話題作を口にしていくなかで、たった一人の子だけがサラッと「『キャロル』です。女性同士の愛を描いた映画なんですけど、とっても良かったです」と発表していたんです。
それもグッと手に力を込めて勇気を出して発言する感じではなく、実にサラッと。その清々しさと普通さに私はさらに救われて、今でもはっきりと覚えているぐらい個人的に嬉しい出来事でした。
その後、その子に声をかけて連絡先を交換しました。話してみると自然と相手のセクシャリティも分かって、実は見えてなかったり知らなかっただけで、すぐ近くに仲間が居たんだなと実感できた出来事でした。やっぱり、独りじゃなかった。
幼いころからどこかが人と違うと感じて、ずっと不安に思っていた私。心のなかでたくさん雨が降り続けていた時期が長かったと思うけれど、その分ちゃんとスッキリと晴れ渡って、綺麗な虹がかかる日がきっとあるからね、安心してね。独りじゃないよ。
これからも、もっともっと同性愛の素敵な作品が登場することを願って。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。「スキ」や「フォロー」、「コメント」などいつも感謝の気持ちです。
そんな貴方の空に、今日も綺麗な虹がかかっていますように。
急に暑くなってきたので、ご自愛してくださいね。
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