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一生ボロアパートでよかった⑪

あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。

 一度学校を休むと、さらに学校に行きたくなくなるんですよね。だって、もうすでに敗走しているのに、また戦場に赴いたところで、どうせ勝鬨を上げた連中に笑われるに決まっているじゃないですか。私がせっかく勇気を振り絞って学校に行ったとしても、きっとまた惨めな気持ちにさせられるんだろうなって思っちゃうんですよ。

 私もそんな感じで、不登校初日、2日目、3日目と、ズルズルと休み続けました。
 2日目も両親に黙って学校を休みました。ただ初日と違い、慌てて帰宅した父が私の部屋のドアをけたたましい音をたてて開け、怒鳴りこんできました。
 怒鳴っていたので、所々父が何を言っているのか聞き取れませんでした。まぁ要するに「学校を休むなら電話してやるから、朝のうちに休むと言え」とのことでした。私の安否を確認するために仕事を抜け出すことを、酷く嫌がっているようでした。

 父はまた私の無事を学校に電話で報告して、すぐに職場に戻りました。私は大きい音を立てられる事がすっかり苦手になっていたのですが、父は私の部屋のドアも玄関のドアも大きな音を立てて閉め、家を出て行きました。私は自分の部屋の布団にくるまって、2日目を過ごしました。父がドアを閉めた時の大きな音が、その日一日体の中を反響していて、お腹は全然空きませんでした。

 3日目は、さすがにもう怒られたくなかったので、朝出勤する前の父に「今日も休む」と言いました。反抗期に自分から親に声をかける事は、都合のいい時にだけおもねるみたいで、すごく悔しい気持ちになりました。それでも怒鳴られたり、大きな音を立てられることの方が嫌でした。
 父は前日と打って変わって「たまには休む事も必要だな、無理するなよ」と言ってくれました。父の気分のムラが激しいので、少し反応に困りました。ただ、根本的に優しい性格なのは、ずっと変わらないんだと思います。

 3日目、少しだけ学校を休む事に慣れてくると、腹の虫が鳴くようになりました。それに伴って、お昼ご飯に困るようになりました。ずっと朝は食パン、昼は給食、夜は炊飯器のお米でお茶漬けと、メニューが決まった生活をしていましたから。お昼に給食が食べられないという事は、貧困世帯の子供にとって致命傷そのものです。昼にお米を食べてしまうと、夜ご飯に食べる物がなくなってしまいます。いつも決まって食べる物は、母が金曜日の仕事終わりに1週間分まとめて買ってきていました。そのため、1週間の間に食べられるものに制限がありました。私は家にある物で食事を済ませなくてはいけなかったのです。結局、3日目の昼は何も食べないで、水でお腹を膨らませました。

 4日目の朝は、父から「今日も休むのか?」と聞かれて「休む」と答えました。学校に行けとは言われませんでした。「そうか」と言って父は仕事に行きました。無関心なのかわかりませんでしたが、でもその時はそれで救われました。あれこれ詮索されても答える気はないし、答える心構えもできていませんでした。家族にさえ、恥をこれ以上晒したくはありませんでした。

 母は完全に私を無視していました。もちろん学校に行けなんて言わないし、心配する声掛けもありませんでした。母は夜11時頃に家に帰って来て、シャワーを浴びて寝るだけ。相変わらず、金曜日だけは買い物をして少し早めに帰って来ました。

 母に昼ごはんの相談はできませんでした。母の侮蔑の表情をまた見たくなかったからです。私から何も言わないで、母が機嫌を直してくれるなんて事はありえないのに、それでも声をかけることを憚りました。優しかった母に、侮蔑の表情を向けられることも、言葉で傷つけられることも、どうしても避けたかったのです。

 反抗期の私は、ただ自分を生きづらくすることしかできませんでした。自分の都合のいい時だけわがままを言って、周囲におもねることを良しとしない。誰かに傷つけられるくらいなら逃げるし、現状を改善するための努力もしない。そんな自分自身を認知できるだけの頭は持っていたから、自分の事をどんどん嫌いになりました。それに自分の行動が自分の首を絞めていることもわかってしまって、本当に死にたくなりました。

つづく

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