ゆく年くる年(駄文)

年の瀬である。
干支が一周するだけ東京に住んでもいまだに雪が降らないことが不思議に感じてしまう。

その年最初に雪が積もった朝は母に叩き起こされる。「雪だよ!」と。
産まれた時から毎年見てる景色なのに、その年の最初に雪が積もった日というのは何故だか特別なのだ。

それまでどんどん空気が冷たくなっていって火を焚いて、あぁ冬が来る、寒いのはやだなぁ、布団から出たくないなぁ。などと思いながら過ごし、日が暮れて太陽の暖かさがなくなるともの寂しさと無力感が押し寄せてきていたのに、夜中に降った雪が積もって窓の外が真っ白になってる朝の景色を見るとパァッと顔が明るくなるのだ。

そして北国の人には分かると思うが、雪の降ってる日は暖かい。
いや、もちろん全然寒いのだけど、それまでの雪の降ってない日に比べると降ってる日の方が暖かいのだ。

空に厚い雲ができて熱が大気に逃げないせいだと思う。
そして雪には消音(ないし吸音)効果がある。なので町がとても静かになる。
静かなのに外を見ると上から下へ次々と雪が積もっていくのだ。
この様に“しんしん”というオノマトペをあてた先人は偉大だ。(夏目漱石あたりがつけてそうだな)

雪が積もったその日からやっと冬がスタートする気がする。

私の生まれ育った道東は雪の量が少ないうえに積もる時期もその他の北側の地域に比べて遅い。
だいたいクリスマス頃にドカっと降って積もる。そこから師走が加速する。忙しなさのピークがくる。

今年も色々あったな。
あり過ぎて思い出せない。
歳を重ねると時間経過が早くなるというのは1年や1ヶ月、1週間などの人生における比率が小さくなっているのでそう感じるそうだ。

5歳児の1年は生きてきた時間の五分の一だけど、50歳の1年は生きてきた時間の五十分の一、なので必然的に比率が小さくなり時間でいうと短く感じる、と。


何年か前の春にふと自分はあと何回桜を見て綺麗だなぁと思えるんだろうかと考えたことがあって、すごく怖くなった。
あと数える程しかないじゃないか、忙しさにかまけて桜を綺麗だと思う時間を浪費するのか、そんなの、なんて馬鹿げた時間の使い方だ!となって発狂して竹藪に消え、のちに虎になって現れたのが今なわけ(山月記)

なのでそこからは全ての時間を季節の姿を眺めることには費やせないけれど、少しでもそういう時間の使い方をしようと心がけるようになった。

北の街での冬と、東の街での冬の景色は違う。これから先もっと遠くに行くかもしれない。その時に見る冬の景色はポカポカとしたものかもしれないし、殺伐としたものかもしれない。
でもそんなの見なきゃわからない。
現実は軽々と想像を超えてくる。
自分の稚拙さを恥ずかしく思うのと同時にワクワクする。

私が知らないもの、知らない人、知らない景色、知らない言葉、知らない世界。
そういうものを智覚するためには今見えてるもの、感じてるものをもっとよく知ることが必要なのではないか。

また今年も冬が来るなぁ、冬が来るなぁと感じながら春を先に迎えてしまうのかな。

コーヒーを飲みながらぼやぼやとそんなことを考える。

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