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1月29日 純粋な現前性。

海外の方のTWITTERで、愛用のシャンプーに「十分泡立ててご使用ください」と記載があったので、10分間泡立ててきたのだが、これが「十分に」の意味である、と知って愕然としている、というものがあった。

一つの言葉に2つ以上の意味がある場合、「10分間」と「十分に=充分に」の意味があり、こちらはどちらかな、と考えるのだが、数々の類似経験の結果「これは十分に、の意味であるな」とショートカットして「判断する」ことを脳内で繰り返している。

例が多いとその判断はほぼ瞬時となるが、海外の方で日本語例の蓄積がそこまでではない場合は、どちらの意味でも通じるこのような場合には混乱することもあるだろう。

こうした勘違いは、たぶん子供にもありうるだろう。

まあ、10分間の泡立ては、十分、あるいは十二分な泡立てでもあるので、結果オーライではあろうが。。


デリダの構想するエリクチェールの世界は、「現前」の不可能性を特徴とする。有形であれ無形であれ、いかなるものも現前する、ということはない。勿論、ここで「現前」とは、絶対に混り気のない、純粋な現前性のことだ。
意味の深みへ 井筒俊彦 P.156

固体、というものが、「固いと人間の触覚で感じる」流動体の状態のことである、と考えたとき、気体や真空や、宇宙の果て、というのは単なる区別、段階のことであり、

どこをどうかんがえても「宇宙の果て」というものは考えられない、宇宙の外があるいは「精神」と呼ばれるものである物質外のものだとしても、「精神」はあるではないか。境界、果て、というものが、考えられない。

そう思ったときには、「すべてはグラデーション」という感じとなり、


そうであれば、引用したように、「純粋な現前性は」どこにもない、というのはなんとなくだが

納得できる気がするが、

どうですか?

(別に無理に納得すべきものでもないんですが。。。(笑))












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