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言葉って本当に意思疎通に向いてるの? -2- 信用フィルター

昨日の続き。

受信側の経験と教訓

意思疎通を厄介にしているものについて、昨日から考えている。

言葉を発信する側が、本能を抑え、理性によって本心とは違う意図の言葉を選択し、本心を偽る。

理性は、自分を傷つけないため、守るために偽ることもあるし、相手を傷つけないため、守るために偽ることもあるだろう。
逆に、相手をわざと傷つけるため、攻撃するため、毒を盛るため、マイナスの言葉を選ぶこともあるだろう。

表情や声の調子などから、隠しきれない本心が見えて居たりすることもあり、受け取る側は、まっすぐ言葉通り受け取れるのか、受け取れないのか、人によって変わってことになる。

今度は、その受け取る側の話。

言葉を受信する側の、言葉通りの意味だけをまっすぐ受け取る以外の要素としては。
今までの経験や教訓、社会慣習などに鑑み、発信された言葉に含まれるであろう裏の意味を受け取ろうとする場合がある。

相手の本心はどういうものなのか。
相手は自分を守ろうとしているのか、それともこちらを守ろうとしているのか、傷つけようとしているのか。
意味を汲み取らないと、自分が何かに脅かされる。
そう思ってしまうのだろう。

人間というものは、この現代においても、一見、言葉を使ってコミュニケーションしているようで、結局、こんなにも言葉以外のものに頼って、重きを置いて、判断している生き物なのか。

結局、お互い「肉体的に食物連鎖の相手となる訳ではない人間同士」でも、サバイバル、自己防衛、それが、生きていくための本能として備わっているから、言葉がややこしくなっているのか。

毒にもなれば薬にもなる言葉

言葉に悩み、コミュニケーションに悩み、人間関係に悩む。
厄介だ。人生の毒だ。
そう思える夜もある。

自分ではわかっていても、人に言われると傷つく言葉がある。
落ち込んでいるときに、さらに突き落としてくる言葉がある。

その反面。
言葉によって救われ、助けられる、ということもある。
それは、自らの体験とともにある、揺るぎない事実だ。

自分ではわかっていても、人に言われると響く言葉がある。
落ち込んでいるときに、心を軽くしてくれる言葉がある。

そしてそれは、どの人にとっても同じ言葉とは限らない。
ある人にとって、救われると感じる言葉が、他のある人にとっては傷つく言葉であったりする。

同じ言葉が、毒になったり薬になったり。
あぁ、本当に厄介だ。

厄介なのは言葉ではなく心?

言葉自体は、いつも、何も変わらず、そこにあるはずだ。
国語辞典の中の言葉は、粛々と、そこに整列し、佇んでいる。

しかし、小説や論説に入った途端、登場人物や作者の思惑という色が加わって、違いが生まれる。

だとしたら、厄介なのは、人間の心、という訳か。

信用フィルター 不信フィルター

人間には、信頼、信用というものがある。
人は一人では生きられず、いろんな人の中で助け助け合い共存している。

そして、共存する中で、それぞれの人との関わりの中で経験や教訓を得た自己防衛本能が、この人は害が少ない人(信用できる・味方)、この人は危害を及ぼす人(信用できない・敵)、と分類をする。
そして、人によって、その人の言葉の受け取り方、その人に向ける言葉の選び方を変えていく。

日々、私たちの脳の中では、そんなことが行われている気がする。
私たちは、人によって、それぞれの信用・不信フィルターをかけかえて、人と接している。

信用を得た者は、多少不信な点があったとしても、信用フィルターによって緩和される。

逆に、不信枠に入った者は、ある程度の量の信用を積み重ねていかないと、または、よっぽどインパクトのある信用を得ないと、最初の不信フィルターによって、なかなか信用されない。

自分を守る 自分を知る

人間のコミュニケーションは、表情、しぐさ、態度、身なり、そして言葉。
話す内容で成り立つ。

すべての項目において、完璧に出来る人は、稀だろう。

表情も、しぐさも、態度も、身なりも、言葉も。
その人が今まで生きてきた蓄積が体を表したものだと思う。

それによって、自分を守る。
自分を守ることは悪くない。
自分を守れて初めて、人のことも守れる余裕が出来る。

しかし、自分を守るためには、守るべき自分の姿、本当の今の自分の姿を、知らなくてはいけないと、私は思っている。

客観的な視点だ。
自分を俯瞰で見る心だ。

人に対して、自己防衛のために、経験というフィルターと、態度や言葉という鎧や剣で身を固めるだけでなく。

まず自分のステータスをしっかり認めたい。
この項目については、申し分ないな、高いな、と。
こちらの項目は、相対的にみると、周りより低いな、と。
低くても今はいいんだ、と。

自分の強みと弱みを、まずは味方につける。

弱みにつけこんでくる敵。
味方でも、うっかり倒れこんできて、偶然弱みにぶつかるかもしれない。
でも、弱みを自分で知っていれば、怖くない。

それこそが、最大の防御になり、武器にもなる。

私はそう思っている。

言葉は心次第

結局、言葉というのは、心を伴っている限り、その心の持ち方という根底次第なのだ。

発信する側になるとき、受信する側になるとき。

なるべく「本当の意味で自分を守れるように」ということを基本にして、言葉を選んだり、受け取ったりしたい。

自分の言葉を相手に伝えるとき、信用を与えられる、薬となる言葉であるかどうか、よく考えてから、口にしたい。
慣れ親しんで甘えている身近な相手にこそ、そういったところで、気を抜かないようにしたい。

相手の主観から繰り出された言葉も、もし第一印象がきつく厳しく理不尽に感じるものであったとしても、自分の弱みを認めた状態で、どう受け取るのが自分を守ることになるのか、そこを考えて受け取りたい。

そして、自分にとって、なるべく健やかな意思疎通の世界を築いていきたい。


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