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言葉って本当に意志疎通に向いてるの? -1- 動物と人間

人間には言葉がある。

言葉は人間によって生み出され、人間を飛躍的に進歩させた、と考えられている。

しかし、言葉とは、簡単なようで実は扱いが難しいものだ。

そして、扱いを間違えると、意思疎通を逆に難しくさせてしまうものだな…と、最近つくづく身に染みて感じている。

そんな言葉の力について、言葉の扱い方について、書いていきたいと思う。

たぶんまた、分割投稿になるかな。

動物とのコミュニケーション

ペットを飼ったことがある方なら分かるかもしれないが、人間と同一言語ではない動物間でも、ある程度コミュニケーションが取れる、と感じたことはないだろうか。

鳴き声・鳴き方の種類はあるにしろ、明確な言語というものを持たない分、動物は、お互いのしぐさや行動、気配、表情を読み取ることに、本能的に長けていると思う。

さらに、人間と過ごしている動物は、こちら人間側から発される「言葉」、彼らはそれを聞き覚え、経験を元に、それに合った対応をするようになる。
こちらの意思や気持ちを、ある程度読み取ってくれる。

愛情を感じ合い、スキンシップを取り、家族として大切な関係になれる。

しかし、具体的に、双方的に、100%意思疎通できているか、といえば「No」である。

彼らがぐったりして苦しそうであっても、
「お腹が痛いんだよ…」「頭が痛いんだよ…」
そういう具体的な訴えは、たとえ病院へ連れていき、先生から症状を説明してもらったとしても、ある程度の予測はつくにしろ、想像の域を出ることはないだろう。
「苦しいんだね…」「つらいね…」と心配することしか出来ない。

逆に、人間側のトラブルで、急に家に帰れなくなり、彼らを不安な思いや空腹状態にさせたりしてしまうような場合があったとして、
電話して「ごめん、事故に遭ってしまって、病院にいるんだ」とも「大丈夫だよ、ご飯はいつもの棚のところにあるからね」とも伝えることは出来ない。
助けてくれる別の人間を頼み、その人が来てくれたとしても、飼い主の状況をはっきり知ることはないだろう。

彼らは、飼い主が戻るまで、ひたすら待つしかない身だ。
理由がわかっても、わからなくても、飼い主に会えない不安の中、ただ待つしかない身だ。忠犬ハチ公の世界だ。

言葉を得た人間は意思疎通を100%取れているのか

その点、人間はコミュニケーションのために、言語を生み出した。
言葉で分かりやすく伝えられることで、今までの状況判断や察知能力だけでなく、具体的な判断材料が各段に増え、スムーズになっていっただろう。
より分かりやすくするため、言葉の種類も、時代とともに細分化し、母数も増えただろう。

しかし。
人間は、言葉を得ることにより、言葉に多くを頼ることにより、代わりに、テレパシー的な能力、察知能力といったものを、失っていったのではないだろうか。

それならば、脳の本能をつかさどる大脳辺縁系よりも、理性をつかさどる大脳新皮質や前頭葉が大きく発達していく上で、言葉を駆使して、お互いに意思疎通を100%完璧に取れるようになる進化を遂げればいいだろうに。

今の時代、「言葉で言わないと伝わらない」「自分の意見はしっかり伝えよう」という言葉がある反面、「空気を読んで行動する」「社会の暗黙の了解」「察する力」とか、そういうものも存在する社会だ。

言葉が溢れるほど行き交っている環境であるにも関わらず、私たちは、言葉以外のものを判断材料に使うことを止めていない。

相手の顔を読み、しぐさを見て、口から発された言葉の意味を、単純な言葉としてだけの意味だと捉えるだけでなく、その奥に何を含んでいるのかまでも捉えたりする。

もちろん、人が気持ちを言葉を使って外に出すとき、本心と違うことを言うことがある(本心を隠すことがある)、言葉本来の意味以上の意味を含ませることが出来る、ということを知っているからこそ、の行動なのだろうが。

しかし、個人個人、言葉の伝え方も、受け取り方も、双方ともに千差万別過ぎる。

発 : まっすぐ言葉通りの意味だけで発言する人。

受 : まっすぐそのままを受け止める人

発 : わざと他の意味を含ませて意味ありげに放つ人。

発 : わざとではなく言葉選びを間違えたり、言葉足らずで、意図を上手く伝えられない人

受 : 放った人の意図の通りの含みを受け取れる人

受 : 発信者の含みとはまた別の意味として受け取ってしまう人。

態度や表情、しぐさ、瞳の光や動きだけで判断していた頃なら、こんなに複雑ではなかったのではないだろうか。

人間は、言葉を生み出したことによって、もしかしたらある意味、よけいに自らを、意思疎通が取りづらいものにしてしまったのだろうか。

本心を偽るのは言葉?

私たちは、人間のコミュニケーションが動物の鳴き声ぐらいのものしかなかった時代の人間から話を聞くことは出来ないし、確認しようもないが、その当時も、今みたいに、伝達の意味とニュアンスを取り違え、勘違いや誤解が生じることはあったのだろうか。

ジェスチャーゲームを想像すると、なかなか意図が伝わらなくてイライラしたり、伝わったと思っていたら、勘違いしていたと分かり、なんだか面白おかしくなっていく。

そんな感じだったのだろうか。

しかし。

言葉に頼る比率が少ない分、相手の状況を察知する能力が、今よりかなり高かったのではないか、と考えてしまう。

そんな条件の中、言葉が出来る前の人間は、本心を偽って伝える、ということが出来たのだろうか。

* * *
動物も、本心を隠す態度というか、都合の悪いときの態度や、機嫌の悪い態度、というのはある。
(私からすると、飼っていた犬のそれなんて、分かりやすくて笑えてしまうものだったが。)

悪さをして、飼い主に見つかり「あ!これやったの誰?」と問い詰められると、必ず「私、知らないけど…」みたいなとぼけた表情で、顔をそむけて知らんぷり、または怒られることを察知して、すごすごと別の部屋に逃げていったり。

また、飼い主に不満があるときに、直接ガガルと足下に向かってくる訳ではなく、「当て付け」として、そ知らぬ顔をしながら、実は布団の上にウンチをしてあって、私たちをして困らせて「してやったり」なこともある。

そうやって本心を隠すことはあっても。

言葉を持たない動物が、本心を偽って表現することは、あるのだろうか。

行動で本心は隠せても、本心を偽ることが出来るようになったのは、言葉が出来たからではないだろうか。

* * *

言葉で本心を偽る行為は、発信側の本能と理性のせめぎ合いの結果だとして。

発信側の言葉の意図を、捉え違えてしまう行為は、受信側の経験と教訓、そこに鍵がある気がしている。

ここからは、受信側の話を膨らませたいところだが、長くなったので、続きはまた明日にしよう。

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