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【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#2-8

翌木曜日、やはり香弥子さんの姿はなかった。

遅れてくるかもしれないと思ったけれど、姿を現さなかった。僕は兄に一緒に来てもらえば良かった、と思った。

しかし。
僕はいつまで頼っていくつもりなんだろうか。

兄がいれば、何かしら助言をもらえ確かに前進することがあるかもしれない。

でも僕はもう、自分の症状に対して客観視出来るようになってきている。
上京したての頃の僕とは違う。

僕は自分の力でこの状況を乗り越えなければ、と思った。
だから香弥子さんに電話を掛けて出てくれなくても、諦めて家に帰ってはいけないと思った。
とはいえ、どこへ向かえば良いかもわからない。僕は香弥子さんの家を知らないのだから。

僕は代々木上原の、あの場所へ向かった。

* * *

ライトアップされたジャーミイは異様な空間をそこに作り出し、美しく浮き立っていた。僕は通りの向かい側からしばらく眺めていた。
冬の風が首元を冷たく吹き抜け、軽装で来たことを少し後悔した。

この時間はもうアザーンを流して礼拝は行われないのだろうか。しばらく佇んでいたがジャーミイもひっそりとしていた。道を渡って近づいてみても、やはり人の気配はなかった。

目の前の通りを車が幾台も通り過ぎる。

僕は子供の頃、兄に連れられていった大雪の日のうどん屋を思い出していた。
兄はいつもと違う様子で、頬杖をついて窓の外を眺めていた。時折通る車の赤いテールランプが兄の目に映るのが、妙に印象に残っている。

ここは雪もない、車の量も全然違う。
どうしてあの光景が今、思い出されたのだろうと考えた。
あの時兄は、あの環境から抜け出そうとしていた。故郷を捨てて、東京へ出た。
今の僕…何かを捨てて抜け出そうとしているのか。

そこへ携帯が鳴った。見ると香弥子さんからだった。

『隆次さん、さっきは出られなくてすみませんでした。最近残業が多くて今日も会合に行けなくてごめんなさい』

香弥子さんは申し訳無さそうな声を出した。

「残業なら仕方ありません」

僕は本当はそんなことが言いたいのではない、でも裏腹なことを言っている、と思った。

『今日もお一人で参加されたんですか?』
「そうです。僕はもうなるべく兄に頼らないようにしたいと思って」
『…何かあったんですか?』
「何か…何があったんだろう…」

僕が少し考えていると、香弥子さんは『外にいるのですか?』と訊いてきた。風と車の通る音が聞こえたらしい。

「僕いま、ジャーミイの前にいます」
『えっ、こんな時間にですか?』
「案の定、中は入れないし、お祈りももうやってないみたいで』
『この時期は大体Ishaイシャー*の祈りも18時前後ですから』

そうして香弥子さんは祈りの時間は変動する事を教えてくれた。

*Isha イシャー。イスラムの1日5回の祈りのうち、夜のお祈りをこう呼ぶ
日の出・日の入が関係するため、5回のお祈りの時間は変動する
https://joycare.co.id/business-interest/blog/Sholat%20Muslim

僕はひとつ新しい事を知ったなと思い、豚肉に続いて僕も日の出や日の入を意識して何かをやってみようかな、と思った。

『でもどうしてそちらにいらしたんですか? お兄さんと何かあったのでは…』
「僕はただ、香弥子さんに会いたいなと思って。会って話をしなくては、と思って。でも僕は香弥子さんの家を知らない。だからここに来ました」
『えっ…』

そして彼女は黙り込んだ。

「でも今こうしてお話出来て、残業されていたと知って、それで会合も来られなかったのだと知ったので、とりあえずは大丈夫です。帰ります」
『ま、待って!』

僕は待ってみたが、香弥子さんは次の言葉を継がない。

「何ですか?」
『あの…今からお会いできませんか? 私、そちらに行きます。あ、もしくは隆次さんの家の近所でもいいです。都合の良いところで…どうですか?』

僕は腕時計を見た。20時42分。
僕の仕事は午前2時から6時までと、2時間休んで8時から12時までだ。本当なら21時には寝ていたかった。
でも僕も予定外の行動に出てしまったのだから、もう腹をくくるか、と思った。

香弥子さんの住む街の名前を聞いて、そことジャーミイと僕の家の中間辺りで会おうかと提案したが、具体的にどこがいいのかわからず、僕の家の最寄り駅まで香弥子さんが出てくることになった。彼女はそもそもまだ家にたどり着いておらず、会社帰りだったから何の問題もない、と言った。

* * *

「初めて降りました。都心に近いのに、静かでいいところですね」

駅前で遅くまでやっている喫茶店に入ると、席に着くなり香弥子さんはそう言った。

「確かに。そう言われてみるとそうかもしれないです。兄の家が近所で、呼ばれて引っ越したので自分ではあまり意識したことなかったです」
「お兄さんが近くに住んでいらっしゃるって、本当に安心ですね」
「兄も子供2人できましたし、そう僕にばかり構うわけにもいきませんが」

そう言うと香弥子さんはハッとした表情をし「そういえばさっき、お兄さんをもう頼らないっておっしゃってましたよね」と言った。

「言葉の通りです。僕は子供じゃないし、兄の優先順位は自分の子供たちであるべきなので。それに僕は昔と違ってだいぶ善くなりました。客観視する事も、気づきも出来てきているので」
「素晴らしいことです。でも無理しすぎないでくださいね」
「ありがとうございます」

僕は香弥子さんに合わせる形でレモンティーを注文した。

「それでその…わざわざジャーミイまで行かれて、私に話そうと思ったことがあるって…」
「あぁ…それは本当に、特に何かがというわけではなく、香弥子さんとは会話を重ねていかないと、と思っているのです。これは…兄にも言われたことで…兄は指示したつもりはないって言ってたんですけど…でも僕もそうだな、と思ったので」
「ありがとうございます…」

香弥子さんは消え入りそうな声になり、俯いた。

「どうしたんですか?」

そこへガラスのティーポットに入ったお茶と、レモンの載ったお皿が運ばれ、それぞれの前に置かれた。僕は茶葉のダンスをしばらく眺めていた。
香弥子さんは俯いたままだった。

「仕事で疲れているのに、ここまで来てもらって申し訳なかったです」
「あ、いえ…仕事の疲れだけじゃないんです」
「他にも何かあるんですか?」

それでも彼女はうつむきがちで、何も言わなかった。
結局僕たちは他愛もない話をいくつかし、紅茶を飲み終えると店を出た。

店を出るなり香弥子さんは背後から「あの!」と大きめの声を出した。
振り返った僕に香弥子さんは言った。

「私…隆次さんのことが…好きです」




#2-9へつづく

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