【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#2-7
家に帰り、兄に電話。
「今日、香弥子さんから、バザールで兄ちゃんと話したことについて聞いた」
兄は「お!」と嬉しそうな声を挙げた。
『どんなこと話した?』
「なんか俺のこと心が美しくて真っ直ぐで純粋で、とか言うから。俺はそんなんじゃないのに。だからよくわからなくなって、また来週、と言って別れた」
兄は「そうか」と言い「それで?」と促した。
「兄ちゃんも俺のこと色々言っただろ。"俺とは正反対なんだ" とか」
『彼女が素直な気持ちを話してきたから、俺も素直に話したまでだよ』
「素直な気持ち?」
『彼女、他に何か言ってなかったか?』
「うーん…、困ったことが出来て…って言ってた」
兄はまた「そうか」と言い、今度は黙り込んだ。
「なに…どうして黙るの」
『いや…彼女は自分がムスリムだから、という話はしなかったか?』
「香弥子さんがムスリムなのはとっくに知ってることだよ?」
『そうじゃなくて…いや、わかった』
「そうじゃないなら俺はわからないよ…なんか何もはっきりしなくて混乱することばかりだ」
『ごめん隆次…落ち着かなくさせちゃったな』
「うん…、でも前みたいにリスカしたくなるわけじゃないから」
もう寝る、と告げると最後に、と兄は続けた。
『これからもたまに彼女と2人で飯食いに行けよ』
「…改まってなんだよ…」
『家族以外でお前がリラックスして話せる相手だろ』
それは…確かにそうだけど。
『じゃ、おやすみ』
電話を切った後すぐシャワーを浴びて、いつものスタンドだけ灯して部屋の真ん中で胡座をかいた。
香弥子さんと初めて会って言葉を交わした時、彼女はとても柔らかな笑顔で「隆次さん」と下の名前で呼んだ。
僕は特に馴れ馴れしいな、とも思わなかった。感情の波とか刺々しさとかザラザラした、初対面の時に感じがちなものをほとんど何も感じなかった。
すんなり、すとん。
そういう感じだった。その感じはずっと続いている。
思えばそういう人に出会ったことはない気がする。
僕も変わったのだろうか。
香弥子さんが兄と話していたあのバザールの時。
"どうして兄ちゃんとそんなに楽しそうに話しているんだ"
今までは兄がどこかへ行ってしまうのではないかという不安に襲われることは度々あったが、あの時は…。
逆だった。
僕のあの気持ちは、香弥子さんに対する兄への妬きもちなのではないか。
おみくじを引くような気持ちでミュージックアプリからランダムで1曲だけ再生させると、The Beatlesの『In My Life』が流れ出した。
心地良く聴ける曲だ。
僕にとっての “them” とは。
気がつくと僕は目を閉じて、ふわふわと宇宙をたゆたった。
* * *
それでも僕はしばらく大人しく過ごした。
香弥子さんのことは仕事の合間などに考えたりした。でもそれは高揚感を伴うようなものではなかった。
が、嫌な感じでも冷めた感じでもない。
僕はわずかに木曜日を楽しみにしていた。
で、次の木曜日。
香弥子さんの姿が見えなかった。
そこで僕は初めて少し動揺する。
「香弥子さん…どうして来てないんですか?」
僕は隣にいた参加者に聞いたが「知らない」と言う。
開催者の一人に同じことを聞いたが、そもそもここは毎回参加することが必須なわけではないし彼女は当事者だはないので、何か用事があったのかもしれない、特に連絡はもらっていない、と言われた。
確かにそうだ。僕だって毎週来ることもあれば、ぱったりと行かなくなるともある。
でもこの前「また来週」って言ったんだ。
僕は大人しく会合には参加し、終了後に香弥子さんに電話をかけた。
ジャーミイのバザールに行く事になった時に連絡先を交換したが、自分からかけるのは初めてだった。
コール音は5回鳴って、出た。
「あ、香弥子さんですか…。野島隆次です」
『隆次さん…? どうされましたか?』
聞こえてきた声は少しくぐもっているように感じた。
「今日、どうしていらっしゃらなかったのかと…」
『あ…ごめんなさい。ちょっと風邪気味っぽかったので…仕事もお休みしていたんです』
「そうでしたか」
『ごめんなさい。また来週、ってお話していたのに』
「いえ、体調不良なら仕方ありませんから」
『約束が違う、と隆次さん嫌な気持ちになったのかなと思って…』
「そんなことありませんよ」
『だってお電話してくるなんて…珍しいなと思って』
確かに。どうして僕はわざわざ電話まで掛けたのだろう?
「あぁ…僕、兄に言われたことがあります。なるべく香弥子さんと飯でも食いに行けと、言われたのです」
『えっ…?』
「わからないことがたくさんあるから…僕もあなたと話をしないといけないなと思っています」
『…私も先週、話し方がまずかったなと思うことはあります。ただ…私もうまく言えなくて…うまくと言うか、自分の中でもどう都合つけたら良いかわからずにいるんです』
「香弥子さんは今は体調が悪いのだから、余計なことを考えずに休んでください。それではお大事に。おやすみなさい」
僕は電話を切って家に帰った。
* * *
それからまた代わり映えのない規則的な1週間を過ごす。強いて言えば豚肉を食べない生活をしてみていること。
これまでも別に好き好んで食べていたわけではないので、困ったことも大きな変化もあるわけではないが。
そして寝る前にスタンドの灯りを一段暗くし、おみくじ的に曲を1曲ランダム再生する。
そして部屋の真ん中であぐらを書いて目を閉じる。
これらが日課に追加された。
僕はそれでも穏やかな日々を過ごした。
水曜の夜に兄から連絡が来て、 "明日は一緒について行った方がいいか" と訊いてきた。
「先週、香弥子さんと会ってない。だから飯を一緒に行けてないんだ」
『そうか…。明日会ったら2人で話をするか?』
「そうした方がいいって言ったの、兄ちゃんだろ」
『無理強いや指示したつもりじゃない』
「いや、俺も話した方がいいと思ってることあるから」
『そうか。じゃあ明日は俺はやめておく』
「うん」
何だろう。兄を頼らなくても気持ちが騒つかないこの感じ。
ただ明日も香弥子さんと会えなかったら…それは困るな、と思った。
#2-8へつづく