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プールサイドの飛び込み台からジャンプする先で自分を待ち構えている父の大きな手。
自分のアイデンティティーっていうのは、過去の記憶の積み重ねで形作られているんだろうなあ、とは思うんだけど。。。
でも、最近、記憶が、だんだん、あいまいになってきてるんだよね。。。
トシのせい?
暑さで、疲れてるってこともあるかもしれないけど。。。
そういえば、子どもの頃、よくプールに行ったよなあ。。。
幼稚園に行くか行かないかぐらいのとき、父親がプールに連れてってくれたっけ。
父が、自分をプールサイドの飛び込み台に立たせ、水のなかに入って、こう言ったのをおぼえている。
だいじょうぶだから、飛んでごらん
お父さんがちゃんと下でキャッチしてあげるから
それに応えて、自分はジャンプしたのか、しなかったのか。。。
残念ながら、その先の記憶は、完全に欠落している。。。
今日の聖書の言葉。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。 大河の中を通っても、あなたは押し流されない。 火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。
イザヤ書 43:2 新共同訳
人生というのは、デフォルト状態ですでにそもそも、不安のなかにジャンプせざるをえない構造になっているわけだけど。。。
はじめてさわる猫。はじめて食べるピーマン。はじめての予防注射。はじめての粉薬。はじめてくぐる小学校の校門。はじめての跳び箱。はじめての虫歯治療。。。
それ以降ずーっと続く、数えきれないほどの不安にむかって、ジャンプして、ジャンプして、ジャンプして、ジャンプして、いまの自分になっている。
いまは、前代未聞のコロナ禍という「世界的な不安」のなかを、毎日ジャンプしているし。。。
ジャンプする、って言ったって、まあ、実際には、状況を受け止めて、たんたんと生き続ける、っていうダケではあるんだけれど。。。
しかし、不安を解消するために、子どもの頃は、ひとりでいろいろ思い悩んでいたのが、いまは、iPhoneであれこれネット検索する、ってことになっている。
で、それが、不安の解消には、なんと役に立たないことか。。。
玉石混交の情報の海のなかに、飛び込み台からジャンプしようとしている自分は、無意識に、あの父親の声を探してしまう。
だいじょうぶだから、飛んでごらん
お父さんがちゃんと下でキャッチしてあげるから
父はすでに鬼籍に入っちゃってるので、だから、あの父の声を通して、父なる神の声を聴こうとしてみる。
今日の聖書の言葉なんて、それにはドンピシャだよね。
人生で、絶対安全・絶対確実・絶対大丈夫なもの、って、考えてみたら、あんまり、というか、ほとんど、ない。
でも、水のなかに父が立っていて、ジャンプする子を受け止めようと待ち構えている、あの姿は、自分の人生を構成する記憶のひとつになっている。
いま、その記憶に背中を押されて、自分は、神からの呼びかけを受け取ろうとしてみる。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる
大河の中を通っても、あなたは押し流されない
火の中を歩いても、焼かれず
炎はあなたに燃えつかない
そうして、不安に向かって、ジャンプするんだ。
繰り返しになるけど、ジャンプする、って言ったって、実際には、状況を受け止めて、たんたんと生き続ける、っていうダケではあるんだけれど。。。
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