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音速の5倍で飛ぶミサイルのニュースを聞きながら、それって、戦術? 計画? 戦略? それとも逃走? っていう話です。

人生を勝ち抜くために、計画を立てる。

国家が存続するために、戦略を立てる。

でも、とん挫してしまう計画。。。敗北してしまう戦略。。。

人類の歴史って、その繰り返しなのかもしれない。。。

今日の聖書の言葉。

人の心には多くの計らいがある。
主の御旨のみが実現する。
箴言 19:21 新共同訳

「戦略」という概念を最初に提唱したのは、プロイセンの軍人、クラウゼヴィッツ(1780-1831)だとされている。

来る日も来る日も諸国が戦争に明け暮れていた 19世紀のヨーロッパ。

クラウゼヴィッツはフランス軍との会戦に惜敗したことから、その体験をバネに、戦争に勝つための方法を徹底的に考え抜いた。

どういうふうに考えたか、と言うと。。。

戦争に勝つには、単体の計画じゃあダメだ。多数の計画を複合的で重層的で全体的で長期的に組み合わせた実行、つまり「戦略」が必要だ、と考えるに至ったんだ。

戦略の実行はスゴイ大規模な取り組みになる。どれぐらいのスケールかと言うと、国家の在り方を改造しなきゃいけないレベルになるんだ。

ここから、戦争に勝つための国家改造がヨーロッパでトレンドになる。

日本が明治維新をやったのも、戦争に勝つための国家改造という思想に影響された結果だよね。そういう意味で、ほんとに欧化であり洋化だったんだ。

ところがねー。。。

皮肉なことに、クラウゼヴィッツの軍事教学というリゾースを持つドイツは、第一次世界大戦で敗北してしまう。戦略の大失敗。。。

失敗後、ドイツはさらなる国家改造を断行して第二次世界大戦に挑むんだけど、もっとこっぴどく敗北して、国家消滅の寸前まで行った。

さらに皮肉なのは。。。第一次世界大戦を経験したロシアは、このままじゃあ生き残れないと感じて、最高レベルの国家改造を断行し、自由経済から計画経済に移行するんだけど。。。

戦争に勝つための国家改造が目指すのは、必要なヒトやモノが、必要な時に、必要なクオリティーで、必要な数だけ確保できるシステムを構築することだ、と見るのであれば、そりゃ、自由経済より計画経済の方がよさげに見えるよね。

だって、自由ってことは、予見不能な要素を認めて、コントロールできない状態を許容しながら生きる、ってことだから。いや、こうすれば正確に予見して全部コントロールできますよ、って言うヤツが出てきたら、ふつう、そっちに魅かれちゃうもん。。。

第二次世界大戦でも悲惨な経験をしたロシアは、いよいよ計画経済の必要性を確信して突き進んだ。ほかの社会主義国・共産主義国もそれに追随した。

結果は、大失敗に終わってしまった。

計画経済が、どうして失敗してしまったのか、については、いろんな見方があるけれど。。。

自分的にはこう考えている。

計画を立てるにはコストを計算しなきゃいけない。コストを計算するには、ヒトやモノを調達するための価格が決まってないといけない。じゃあ、価格はどうやって決まるのか、というと、自分の言い値でもなく、相手の言い値でもなく、中立の場が決めた価格が存在することが必要なんだ。

で、その価格を決める中立の場というのが、マーケット(市場)であるわけなんだけど。。。

しかし、計画経済はマーケットを廃止してしまったので、価格がわからなくなってしまい、価格がわからないからコストを計算できなくなり、計算できないから計画が実態のないものになり、実態のない計画を複合させた戦略だから、最終的に国家そのものが失敗してしまった。。。

興味深いことに、いくつかの社会主義国・共産主義国は、計画経済を保留して、廃止したはずのマーケットをもっかい復活させ、きちんとコスト計算できる環境を担保することにより、生き残りをかけている。

人の心には多くの計らいがある
主の御旨のみが実現する

人間が立てた戦略の規模が大きければ大きいほど、失敗した時の被害は悲惨なものになるわけだけど。。。

それでもメゲズに人間は戦略を立て続けて行くんだろうね。いったい、なぜだろう。。。

ドイツの哲学者のマックス・ピカートは『神よりの逃走』(1963) という著書のなかで、人間が神から逃げ続けるための方法が、それしかないからだ、と言っている。

ピカートによれば。。。神からの逃走は、逃げれば逃げるほど大掛かりで大規模になっていき、かつ、人間はどこかで失敗を待望しているんだって。しかも、より大きな失敗を待望するようになっていくんだって。。。

いま、世界の軍事大国が、敵による迎撃が不可能な極超音速ミサイルの開発を競争している、というニュースを聞くにつけ、それは戦術? 計画? 戦略? それとも逃走? と思ってしまう。。。

いかに勝って生き残るか、より、いかに協力して共存できるか、という思考に人類が移行するには、地球規模のパンデミックはチャンスだったはずなのになー、と感じるんだけど。。。

でもね。。。表現の自由、信仰の自由が保障された世界を防衛するためには、死力を尽くして戦うことも必要なんじゃないか、と思う自分もいる。

平和主義者の自分と、現実主義者の自分が、3秒ごとに入れ替わる感覚だ。来週の日曜日の朝の自分は、どっちの自分なんだろう。。。

互に重荷を負い合いなさい。そうすれば
あなたがたはキリストの律法を全うするであろう
 *

註)
*  Cf. ガラテヤ 6:2 口語訳

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