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ハンバーガーは聖餐になり得るか、っていう話です。

実家から餅が届いた。この餅を食べて正月を過ごすことになる。まずはお雑煮。それから安倍川餅。きな粉とかお汁粉にもする。

稲作文化の原初的な食物形態である餅。たぶん正月というのは原初の記憶に結びついた特別な時かもしれない。餅を食べることで原初に一回戻って全部リセットして新しい年を始めるみたいな感じ。

これが麦作文化だと原初的な食物形態は非発酵のクッキーだから、いろんな種類のクッキーを大量に焼いてクリスマスに家族が集まり日がな一日ひたすらクッキーを食べる所もあるらしい。やっぱりそうやって原初回帰するのだろう。

今日の聖書の言葉。

だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
コリントの信徒への手紙一 10:31 新共同訳

食物を家族や友人や知人と一緒に食べることで共同体としての記憶がそこに紐づけられて行って、そういう積み重ねをするなかで思い出の食事とか思い出の一品みたいなものが生まれて来て、やがて食事が共同体のストーリーのアイコンになって行くのだろうなあ、と思う。

ストーリーのアイコンとしての食事。別にそれは黒豆とか伊達巻とか昆布巻きとか田づくりとか栗きんとんでなくてもよいわけで、たとえば「〇〇ちゃんと一緒に泣きながら食べたビッグマック」ということもあるかもしれない。すると次に△△ちゃんとビッグマックを食べたとき「これを食べると思い出すんだよねー」ってストーリーテリングが始まって、そうやって食事を媒介にミームが他者に伝わって行く。

イエス・キリストの教会の場合にはストーリーの核心にある「イエスの出来事」を食事に紐づけている。永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」は、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に赤ん坊となって降り立ってくれた。それがイエスだ。

イエスは全人類の身代わりに十字架にかかり、三日目に復活することで、われわれに罪の赦しと永遠の命を与えてくれた。その出来事を端的に言い表す標語が「イエスは命のパン」だ *。

「イエスは命のパン」とは、つまり、イエスが新しい命をくれたのだから、自分は今日も生きていていいんだ、生きることができるんだ、生きろ!と言われているんだ、だから生きよう、ということになる。

だからかもしれないけれど、イエスが生まれた町であるベツレヘムの意味は「パンの家」だ。まるで永遠の命のパンを全人類に提供する神直営のパン屋みたい。

教会は、みんなで集まるたびごとに一緒にパンを食べる。食べるという行為を通して「イエスは命のパン」ということを想起するのだ。そういう意味ではすべての教会がベツレヘムのブランチ店だね。

自分が属している教会は、ちょっと変わっていて、教会ではパンを食べるという儀式はしないけれど、教会でみんなが集まってする食事会や、それぞれの家庭での日々の食事のたびに、次のコーラスを歌うことによって「イエスは命のパン」であることを想起している。

恵みのみ神よ この食物を
主イエスの名により 謝したてまつる

自分はマクドナルドが好きでよく行く。そこでハンバーガーをオーダーして席に着いたらココロのなかで静かにこのコーラスを唱える。メグミノミカミヨ コノショクモツヲ シュイエスノナニヨリ シャシタテマツル。そうすることで「イエスは命のパン」であることを想起するんだ。

イエスが新しい命をくれたから、自分は今日も生きていていいんだ、生きることができるんだ、生きろ!と言われているんだ、だから生きよう。そして食べて身体が温まって、それから、寒風が吹く世界に再び飛び出して行くんだ。

あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ
何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい

註)
*  Cf. ヨハネ 6:35

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