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『唄う猫が通勤路におりまして』


唄う猫が通勤路におりまして


最初の出会いは

わたしが残業で遅くなった金曜の晩


くたくたに疲れて

駅から自宅に歩いているところを

ブロック塀のうえで丸まった

白い猫がハミングをしていて


ただうっすらと聴こえるその歌詞は

あきらかに人間のことば


他に人の気配はないから

間違いなくあの白猫が唄っていたの


あくる週

またわたしが疲れてしまって

とぼとぼ歩いていると

聞き覚えのあるハミングが

今度は公園のベンチに丸くなって


不思議なこともあるのだなって

そのくらいに思っていたの


バタバタと忙しく仕事をこなしていたら

めずらしくわたしに来客があって


白髪の老紳士が

わたしに用事があるっていう


その方が抱いているのは

ハミングの白猫


猫の顔の区別なんてつかないだろって

そう思われるかもしれないけど

間違いなくこの子はそう


それで白髪の老紳士が

わたしにどんな用事かといえば

どうやらその方

もう老い先が長くないから

わたしに引き取ってほしいんだって


この子は血統がいいわけじゃないけど

それでもなかなか珍しくて

ご存じのとおり人間の言葉で

唄うことができるんだって


そしてその歌声は

ひとにぎりの人にしか

聴こえないんだって


だからぜひともわたしに

この子の将来を委ねたいって

白髪の老紳士はそう言って


わたしはしばらく考えて


ペットを飼ったことがないけど

猫ってだいじょうぶかな

そもそもマンションは

ペットOKだったかな


そんなことを思って


まぁだいじょぶかって

引き受けようとした矢先に

大切なことに気づいたの


どうしてこの白髪の老紳士は

わたしの勤め先がわかったの


それからこの忙しいのに

わざわざ押しかけて

仕事をなんだと思ってるの


訊けばこの白髪の老紳士は

古くからわたしの住まいの地域の

大地主のボンボンで

まともに働いたことがないっていう


そんなことを聞いていたら

なんだか怒りが込み上げてきて


猫ちゃんは引き受けませんって

断ってしまったの


けっきょくその後は

老紳士はもちろんのこと

唄う白猫も

わたしの前に現れることはなくて


すっかりそのことも忘れていたら

ネットでバズってる猫がいるって

タイムラインに流れてきたの


あの白髪の老紳士と

唄う白猫


老紳士は大事そうに

猫を抱きかかえて

それからその猫は

ハミングを奏でて


すごい偶然だなって

わたしは感心していたんだけど


リプ欄を読んでみると

ジジイの腹話術じゃねーかって

そんなことが書いてあり


まったくわたしの一連の体験は

どういうことだったんだって

妙に情けない気分になったの


ただそれだけ

ただそれだけよ











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