見出し画像

インタビューとムとタマシィ


インタビューはナマモノだ。
イメージ通りに行くものでもない。

だいたいイメージ通りのインタビューなんてロクなものではないし、つまらない。オチが見えてしまった漫才みたいなものだ。
こちとら意外な一面を切り取りにわざわざ足を運んでいるのだから、感動させてくれないと、もっと驚かせてくれないと困る。
さぁさぁ、今日もイメージ通りに行かせないよ! という意気込みが必要なのである。

ご存知のとおり、インタビューアーは事前に時間が許す限りインタビューイーについて勉強していく。
本も取り寄せるし、ネットで検索もかけまくる。映像があればかき集めて観るし、一番のファンになったつもりになる。相手が芸能人ではなくても、学者さんや経営者、スポーツマンや市井の人でも、テーマに合わせてできるだけ勉強をしていく。
好奇心いっぱいで準備をするのだ。
同じ土俵に上がらせてもらうのだから、それらは最低限のマナーなのである。こうして、できるだけ多くの質問を準備して当日を迎えるのだ。

ところが、どっこい。インタビュールームに入るその瞬間。
なんとそのインプットした情報や質問事項は、一旦すべて捨てる。自らを「無」にして、まっさらな状態でインタビュールームに入るのだ。

まず基本的に、インタビューイーには、ウォーミングアップとして身近な世間話や近況など、好きなことを自由に語ってもらってほぐれてもらう。その人の今を出してもらう。
こちらはその語る内容に寄り添って、自然と湧き出てくる質問を送り出すのだ。事前に頭に叩き込んでいた質問一覧から、うまく流れに沿ったクエスチョンが湧き上がってくればそれを尋ねてもいいし、用意していたものとまったく別の質問でもいい。とにかく流れを意識して、流れを途切れないように仕上げると、相手もどんどん乗ってくるし心をオープンにしてくれるのである。

それなのに、一覧表のクエスチョンを上から順に唐突に聞いていくのでは、流れもへったくれもあったものではない。そもそも無粋なのである。
だいたい頭の中を情報や質問でぱんぱんにしていると、スムーズなインタビューはできない。
そう。インタビューはセッションなのだ。即興なのだ。
ここがインタビューはナマモノだと言う所以である。

まあ、そうは言っても健康雑誌なのに、好きだからといってずーっと将棋やAKB総選挙のことを喋られても困るし、映画雑誌なのに、延々スムージーや上腕二頭筋のことばかり語られても困る。時間制限だってある。
最初はスムージーのことを話していても、時計と睨み合いながら、最終的にはテーマに沿うように舵取りしたりするのが、こちらの腕というものなのですが。


さて、さらにこれは、あくまでも私の場合なのだけれども。
前回の記事に、たとえばサッカーの本田選手にインタビューをする場合、私はケイスケ・ホンダと対話しているけれども、同時にリトル本田も捕まえに行くと書いた。
このリトル本田はインタビューイーの本質であり、つまり魂的な部分であると。そして、これはオカルトではない、と(笑)。

で、今回は、このリトルについてもう少しだけ突っ込んでいきたい。
私はいつもリトルを捕獲しようと虎視眈々、捕虫網を片手に待ち構えているわけではないのだ。

基本的にインタビューを普通にしていればいい。
そして、その人の何から何までよく観察する。
佇まい、目線の動かし方、相手の見据え方、笑い方、立ち去るときの礼儀。そいうものを肌で受け止める。
そして終わった後に、すべてのやり取りを俯瞰して、リトルを探してみるのだ。リトルは私の中にいる。

ここで気をつけなくてはいけないのは、無理やりリトルを言語化しないことだ。人間、つい「熱い人」だの「寂しがり屋」だのキーワードに当てはめたくなる。
が、自然とこういった単語が浮かんでくるのは構わないのだが、あまりレッテル付けをしないほうがいい。なぜならその言葉がかえって偏見になって、判断するときに単語に引っ張られるからだ。
ちなみに「リトル本田」と言っているが、三頭身アニメのような本田圭祐ではない。なんだか魂みたいな形をなさないもので、がっつりイメージ化も言語化もできない、ふよふよとした曖昧な存在なのだ。だからあえて「魂」と言ってみた。
リトルについて、ある単語が浮かんだのなら、浮かんだままにしておく。
とあるイメージが湧いたなら、湧いたままにしておく。

そして何か疑問が湧いたり、この記事は本人とずれていないか確かめたいときは、リトルを呼び出して質問してみるのだ。

でもねぇ。リトルだの魂だのと言っているれども、何も特別なことではないのだと思う。実のところみんな日常でやっている作業なのではないか。

たとえば、すごく「いい人」がいるとする。いつもニコニコしていてとっても感じがいい人。
でも、家に帰って無心で歯を磨いているときに、そのいい人との今日のやり取りを思い出して、歯ブラシの手が止まる。
ふと「あの人、私の話に興味なかったんじゃないかな」とか、湧き上がったりすることはないだろうか。あるいはもしかすると、絶対に見たこともない、その人の「底意地の悪い顔」がイメージとして浮かんでくるかもしれない。
そして自分の中にある、その「リトルいい人」に聞いてみるのだ。「あのときニコニコして頷いていたけれど、実は早く家に帰りたいと思っていた?」とか「実は同情しているふうで、こっちの不幸を楽しんでなかった?」とか。
そういうときにポンと答えを返してくるのが、リトルだ。

注意しなくてはならないのは、質問するとき、こちらも「無」でいること。
イメージとしては、私の魂と相手の魂が会話しているような感じだ。
つまり質問している私も無垢な魂なのだから、損得勘定で「Yes」や「No」のどちらかを期待しながら尋ねても意味がないのだ。あらかじめ、その答えと結果に執着してはならない。どちらが出てもいいクリーンな中立の立場で質問してみるのだ。

本来、人間にはそういう読み取る力が備わっているのである。
人間って私も含めて嘘つく生き物だから、口先では何とでも言うし、心にも無いことを言って褒めたり、逃げ道を作ったりもする。
でも嘘はやがてバレるし、隠し通している腹黒さもバレるのである。
なぜか。みんな無意識にリトルと会話しているからである。

無になって、流れに身を任せながら全身でその人を感じてみる。強引に自分のイメージや期待に引き寄せない。一度受けたいくつかの印象だけで、その人を決めつけない。
それが人を理解する鍵なのでは、と思っている。


こちらもどうぞ⇩


ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️