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保健室からの手紙

これからを生きる子どもたちの幸せを願うすべての方へ、このエッセイを贈らせてください。

揺るぎない思い

2023年3月、私は辞職しました。

子どもたち、保護者さん、同僚、養護教諭仲間に見送られ、達成感に包まれた最後でした。

いただいた花に囲まれて1ヶ月が過ぎ、思い出を片付けて2ヶ月が過ぎた頃、私は辿り着いたのです。

34年間、自分の中にあった「揺るぎない思い」。

それは私が保健室の先生をしている間、一貫して大事にしてきたことであると同時に、私自身を支えるものでもありました。

辞職したからといって消えるようなものではなかったことに気づいたのです。

私は保健室という場で、困ったり悩んだり立ちすくんだりしている子どもたちと共にありたいと、いつも願っていました。体の痛みだけでなく、心の痛みにも寄り添いたいと。

  • 学校に行けない

  • 教室に入れない

  • 人間関係の歪み

  • 家庭のしんどさ

  • 勉強のくるしさ

他にも、原因は分からないけれど抱えきれないほどの苦悩につぶれてしまいそうな子どもたちとたくさん出会ってきました。

私には、心理や福祉の専門知識があるわけでも、問題解決能力があるわけでもない。

でも、誰1人、放っておけなかった

誰1人も、取り残したくはなかった

保健室は、朝から晩まで子どもたちや保護者さん、先生方でいっぱいでした。

私が何かをしてあげるということではなく、ご一緒する営みの中で光が見えてくるのです。

問題が解決するケースばかりではありません。
でも私は、こういう役割が大事だ! 必要だ! と思っていて、そして大好きなんだ! とはっきり思い出したのです。

もう私は保健室の先生ではありません。

でも、だからといって何もできないわけじゃない。

今を生きる子どもたちの中に、今がしんどい子はたくさんいて、どこかで助けや支えを待っているとしたら……。

私は動くんだ。

いつまでも。

何ができるかは模索中ですが、まずは一歩。

今、手元に残された分厚い保健日誌は、子どもたちの成長の記録であるとともに、私にとっては貴重なバイブル。

これを丁寧に紐解いてみたいと思います。34年間の出会いに感謝を込めて……。

そしてこの保健室からの発信が、これからを生きる子どもたちへ思いを馳せる多くの皆様に届き、愛溢れる世界に少しでもつなげることができたらと願いを込めて……。

私を先生にしてくれた子どもたち

長い養護教諭人生、振り返ってみれば失敗・後悔・反省だらけ。

多くのことを許されて今に至ります。

それでも、こんな私を「保健室の先生」にしてくれたのは間違いなく「子どもたち」でした。 

事実をそのままお届けすることはできませんが、せめて子どもたちの姿から彼らの心の声をお伝えできればと思います。

①名札が変わった日

最初に思い出すのは月ちゃん。

転校生でした。

急な家庭の都合で、友達に挨拶もできないまま慣れ親しんだ学校をあとにしたのです。

転校生が来ると、初日に学級朝礼で紹介があります。

「○○小学校からきた○○さんです。みんな、新しい友達と仲良くしましょう。自己紹介をどうぞ。」

ところが。

転校してきた初日の朝から、月ちゃんは保健室に飛び込んできたのです。

「どうしたの? 一緒に行こうか? 」

寄り添ったり励ましたり、安心できそうな方法を提案したり……。

思いつく限りのことを試みました。

でも月ちゃんは、保健室の丸テーブルに伏したまま何も喋らず動きません。

そりゃあ転校初日なんだから、恥ずかしいし緊張するし不安でしょう。

分かる分かる。明日から頑張ろう。

そんな話でまとめて、保護者に迎えに来てもらいました。

ところが、次の日もその次の日も、月ちゃんは朝から保健室に来て1日を過ごすのでした。

話しかけても無言

担任が来ても無視

給食にも手をつけず

教室に向かう気配はありません。

我慢の日が続きましたが、2ヶ月経った頃から

おはよー

と小声で言いながら保健室に来るようになりました。

給食を、半分くらい食べるようになりました。

私が面白いことを言ったり、慌てて水をこぼしたりした時に、笑うようになりました。

半年経った頃にはおしゃべりが成立し、手伝いもできるようになりました。

そんなある日、私は見つけたのです。

月ちゃんの制服の胸につけられた名札が、本校のものに変わっているではありませんか!

転校の際には、新しい学校名が記されたピカピカの名札を事前に準備して渡してあります。

でも昨日まで、月ちゃんの胸には以前いた学校の名札がついていたのです。

おそらく、強い意思をもって

子ども心に、不本意な転校に対する精一杯の抵抗だったのでしょう。

この発見をした瞬間、私は涙がこぼれそうになり、月ちゃんに見られないよう口を押さえて廊下に出ました。

前の学校をずっと引きずりながら月ちゃんは半年を過ごし、今やっと色んなことを胸におさめて前を向くことができたのかな。

私はこのことについて、あえて月ちゃんに何も言いませんでした。

でもこの後、確実に月ちゃんと私の心は通い合うようになったと記憶しています。

子どもは、溢れるほどの感情を上手く表現できません

大人は、そのことをよく知っておく必要があります。

「困った子」は「困っている子」

なのだと誰かが言っていたのを思い出します。

核心に触れることのないまま1年が過ぎました。

月ちゃんは私を多分信用してくれるようになり、私も月ちゃんを信じて、やがて卒業を迎えました。

最後に月ちゃんが私の手に握らせてくれた手紙には、こう書いてありました。

先生をたくさん傷つけてごめんなさい。たくさん許してくれてありがとう。給食が食べられない時、一緒にいてくれてありがとうございました。

月ちゃんからの手紙

卒業後、月ちゃんから連絡はなく、時々思い出すのみでしたが、数年後、進学先の中学校の先生から聞いた話に胸が熱くなりました。

「月ちゃんには中学校も随分振り回されたんですが、彼女、生徒指導主任に言ってました。“悪いことをしそうになる時、どうしても浮かぶ顔があって踏み止まる。小学校の保健室の先生が、きっとまたすぐ泣くだろうから。”って。」

月ちゃんは私に色んなことを教えてくれました。

  • 子どもを理解する難しさ

  • 子ども心の繊細さと誠実さ

  • 子どもを信じて待つ覚悟

  • 子どもと通じ合う感覚

月ちゃん

私もあなたを忘れないよ。

②まさかの再会

少し荒れた中学校に勤めていた時の大切な思い出です。

保健室では、ヤンチャなお兄さんやトガったお姉さんが毎日ワイワイガヤガヤ過ごしていました。

そんな彼らとは一線を引くように、いつも1人で来室し1人で過ごしていたのが花さんでした。

花さんは常に不機嫌で、苛立っていました。

ドアの開け方も独特で、バンッ! ドンッ! バタバタッ! と音が響き渡るので、保健室にいた下級生はその度にビクッ! とするのでした。

「どうした? 」

などと優しく声をかけようものなら、

「うるさい! 」

と一喝されます。

険しい表情で無言のまま1〜2時間過ごした後、日替わりで次のようになるのです。

  1. 落ち着いたのか、プイッと出ていく

  2. 「ムカつく!」と言って話し始める

  3. 「ねぇ先生〜」と甘えて寄ってくる

ただ、どのパターンに進むかは想像もつかないし、想像したところで外れます。

「こんなタイプは静かに見守ればいいのでは? 」

と思われるかもしれませんが、そういうわけにもいきません。

このような場合、相反する気持ちが「混在」しているからです。

  • 1人にしておいて

  • でも放っておかないで

  • だけど下手に介入しないで

  • ほら! 今度は無視した

花さんはまさに混在型の混乱期でした。

ちなみに今はこうして冷静に分析している私ですが、当時は完全に彼女に振り回されっぱなしでした。

落ち込んでいるようなら声をかけたくなるし、悲しそうなら「ワケ」を聞いてしまいます。

「ほっといて! 」

と言われたら

「ごめんごめん。」

と引き下がり、他の子の対応にまわってしまいます。

そもそも保健室は、多くの子どもたちがそれぞれ違うことを求めて来ています。

そのため、養護教諭は総合的に判断しながら対応しなければならないのですが、これがなかなか難しい……。

中学生でも、心は繊細に揺れているのです。

頭で分かっていても心で納得できなかったり、昨日は理解できたけど今日は腑に落ちなかったり。

思春期は、素敵で貴重で、そして困難です。

また、思春期……の一言で片付けていいことと、それでは済まないこともあります。

思春期講座などの研修を何度受けても、対応に正解などありません。

目の前の子と、現在の状況において誠実に精一杯対応する以外ないのです。

「どうして分かってくれないの? 」

「先生なんか大っ嫌い! 顔も見たくない。どっか行って! 」

子どもの言葉にこちらもまともに凹みながら、これがきっと痛み分けだ……

と自分に言い聞かせ己のハートを立て直したものです。

花さんとの日々をやっとの思いで重ねるうちに、1年間はあっという間に過ぎました。

何かをしたというより、ただただ「共に生きた」という感じです。

今振り返ると、ああすれば良かった、こう言えば良かったなど色々思うトコロはあります。

でも、全力を尽くしたから結局あれ以上でもあれ以下でもなかったというのが自分の中の結論。

まさに、やり切った感です。

こうして私は、生徒によって「子どもというもの」を教えこまれ、「思春期対応」を学び、やっと「先生」にしてもらったかもしれません。

後日談ですが花さんはその後、私の勤務先を探し当て、養護教諭の教育実習にやってきました。

青春の第二幕。

生徒と先生でなく、教育実習生と指導教官として再び出会うことになったのです。

「私、先生みたいな養護教諭になる! 」

なんて言ってくれて、もう感無量。

花さんは、やがて本当に保健室の先生になりました。

研究会などで会うと飛んで来て

「先生、無理しないで。もう歳なんだから。」

とか言って……。

子どもって、これでいいんですよね。

そして大人も、これでいいんですよね。

③1番後ろの席

小学校勤務の長かった私が、初めて中学校へ赴任した時の話です。

着任式の日、ワクワクしながら自分の城となる保健室のドアを開けると、先客がいました。

ベッドに男子が3人寝そべって、処置台の横で男女2人がポテチを食べていたのです。

動揺を笑顔で隠し、私は取ってつけたような挨拶をしました。

「今日から私が保健室の先生です。よろしく。」

彼らはこちらをチラ見して、おしゃべりを再開しました。

「なーんだ、またオバサンか。」

がーん! これが空君との最初の出会いでした。

中学校勤務初心者の私と、イタズラを数々重ねたベテラン中学生。

軍配は……当然彼らに上がります。

私は毎日容赦なく押し寄せる彼らを教室に戻すこともできず、保健室は連日大騒ぎでした。

「保健室で手に負えなければ職員室に内線してください。強面の生徒指導主任が怒鳴りに行きますよ。」

職員室の先生方は、良かれと思ってアドバイスをくださいました。

でも。

私は1度も「助け」を呼んだことはありません。

保健室に何らかの理由(意味)をもって来ている子どもたちを前に養護教諭がサジを投げたら、彼らはどう感じるでしょう。

どこへ向かえばいいのでしょう。

能力もHOWTOも自信もないまま、私は彼らと向き合いました。

  • 気に入らないことがある

  • イライラして人に当たる

  • 些細なことでトラブルになる

  • 人とうまくいかなくなる

  • 勉強に集中できなくなる

  • 教室の居心地が悪くなる

  • 授業を抜けて出てくる

  • 先生や親から叱られる

  • 反抗・反発・自己嫌悪

  • 孤立・諦め・自暴自棄

負のループに陥った彼らの心はすっかり固くなっていました。

解決の糸口を探ろうにも、こんがらがっていて、どこから紐解けばいいのか分からず途方に暮れる日々。

付き合うしかない。

自分より大きな彼らを見上げながら話を聞き続け、5回に1回程度の割合で

「でもね、私はこう思うよ。どう? 」

と軌道修正を試みました。

やがて少しずつ、彼らとの距離は近づいていくのでした。

授業を抜けて保健室で過ごすのは1日1時間までよ。

保健室は、本当にどうしようもなくなった時においで。

保健室で過ごすなら、その時間は自学をしよう。

当たり前のことを当たり前にする

ということを、時間をかけて一緒に取り組みました。

半年過ぎた頃にはエスケープする生徒はいなくなり、そのかわり何故か保健室にテストの結果を持ってくるようになりました。

「俺だって、やれば出来るわけよ。」

「担任がビックリしちゃってさ〜。」

「行けそうな高校が何校かあるってよ。」

彼らの顔に自信や意欲が見られるようになりました。

そんな中、最後の気がかりが空君でした。

一緒に騒いでいた仲間から離れ、1人で自転車を走らせて帰るのです。

久しぶりに保健室で眠った空君を起こそうと布団をめくった時のことです。

「ん!? 何これ……」

空君の足に、いくつもの黒く丸い痕……。

「何でもねーよ! 」

「何でもないわけないじゃん! 私にだって分かるよ! 」

「関係ねーし! 」

「関係あるわ! 私の大事な生徒だし! 」

隠そうとする空君。

ボロボロ泣いて腕を離さない私。

悪い噂は聞いていました。

年の離れた人たちから都合のいいように使われていると……。

タバコを足に押し付けられて残った痕……。

「私が一緒に行って話すから、そんなグループからは抜けなさい! 」

次の日から空君は学校に来なくなりました。

何も分からず何もできないまま時間が過ぎていきました。

何日経ったでしょうか。

その日は私が企画する薬物乱用防止教室の講演会でした。

毎年中学3年生を対象に、卒業前の贈り物として「これからの広い世界を、強い心でまっとうに生きる」をテーマに開催していたものです。

当日は2月のとても寒い日でした。

広い体育館、私は最初の挨拶のためマイクを握って前に立ち、全体を見渡しました。

あ!

一瞬、台詞がトビました。

空君!

1番後ろの席に、テカテカの黒いダウンのフードを被ったままうつむいて座っているのは、間違いなく空君です。

来てくれた!

もうそれだけで私はじゅうぶんでした。

追いかけることもせず、結局そのまま卒業式を迎えました。

後日、担任が教えてくれました。

保健室で私が大騒ぎしたあと、彼は何日もかけて自力でグループから離れ、家にこもって黙々と父親の小さな工場の手伝いをしていたそうです。

そして急に

「今日だけ大事な用事があるから」

と言ってあの日、学校へ向かったのだと。

ありがとうと伝えたいのは私のほうです。

空君、今どうしているのかな……。

④症状が消えたワケ

咲さんは、保健室登校をしていた中学2年生の女の子です。

不定愁訴による遅刻、早退、欠席が続き、かかりつけ医に相談したり、大学病院で検査してみたり。

薬を飲んでも漢方に変えても、一向に良くなる気配はありません。

病気の可能性はない。

となると結局、

「多分、精神的なものでしょう。」

となり、今度は違う視点から原因探しをするのですが、思い当たるものがありません。

担任、友達、家族、誰との関係も良い。

勉強や部活にも問題はない。

悩みや心配ごともない。

カウンセリングを受けたり相談室に通ったりもしましたが、症状は軽減せず。

「もう、家でゆっくり休もう。」

と誰もが思うのですが、本人的に「よし」と思えず。

では保健室登校で様子を見よう、というところに落ち着きました。

毎日一緒に過ごしてみると、あらためて咲さんがどんなにいい子か実感するばかり。

何でも真面目に考え真面目に取り組む。

空気を読んでまわりに合わせ、誰にも気を配る。

否定的、攻撃的なことは口にしない。

ん?

中2で、こんなに出来過ぎな子、いる?

最初は褒めまくっていた私でしたが、次第に痛々しく思えてきました。

それは全部あなたの本心?

だとしたら疲れない?

疲れはどう処理するの?

素朴な疑問が湧いてきました。

私は言葉を選びながら慎重に尋ねてみました。すると

「これが私だから。」

演じているわけでも無理をしているわけでもない。

まして嘘などあるはずもない。

私は問題解決に向かいたい気持ちを一旦置いて、咲さんにとって居心地のよい環境であるよう、それだけを考えることにしました。

とはいえ保健室は全校生徒のための場所なので、咲さんを優先できるわけではありません。

むしろ健診時や緊急時は咲さんへの配慮など不可能です。

仕方ない。

自然に過ごそう。

その中で何かに気づいたり感じたり、どこかに辿り着けたりすることも、あるんじゃない?

保健室の1日は、波瀾万丈。

病人、ケガ人、泣く人、怒る人、叫ぶ人。

咲さんは、そんな中で不思議と落ち着いて暮らしていました。

さらに不思議だったのは症状が「消えた」ことです。

咲さんは自学をしたり絵を描いたりしながら保健室の「世界」を楽しんでいるように見えました。

ある日、常連のヤンチャなお兄さんたちが窓に腰かけおしゃべりを始めました。

その時です。

咲さんが彼らに言いました。

危ないから降りてね。

私は他の生徒に対応中でしたが、びっくりしすぎて振り向きました。

驚いたのは彼らも同じです。

思わず3人そろって

「はい、スミマセン……。」

すぐに窓枠から飛び降りました。

私は二度見してしまいました。

細身で色白で、弱々しく儚い存在感の咲さんが!?

年上のヤンチャ男子3人に向かって、自然にサラッと。

しかも彼らを動かしちゃった……。

どういうこと?

この衝撃はかなり大きなものでした。

と同時に深く考えさせられました。

子どもは、どんな状況でも前向きに成長し続けているのだと。

大人は色んなことを決めつけず大きな心で少しだけ離れたところから見守ればいいのだと。

咲さんは、立ちすくんでいるように見えて、立ち止まっていたわけではありません。

自分なりの居場所で、自分らしくたくさんのことを見て聞いて感じていたのです。

そして確実に前に進んでいたのでしょう。

私たち大人は、目に見える変容でしか判断できなくなっているのかもしれません。

目に見えないものに気づける感性。

小さな変化に価値を見い出せる柔らかさが大事です。

そして保健室登校にとって1番大きな環境因子は養護教諭だということも痛感しました。

「子どもを守る立場」であると同時に「見られる立場」「影響を与える立場」であることを肝に銘じなければならないと、あらためて思いました。

愛と責任をもって、子どもとともに。

それいけ! 養護教諭! です。

⑤二人三脚・三人四脚

保健日誌に綴られているのは子どものことだけではありません。

子育てに悩む保護者との出会いも、かけがえのないものでした。

  • 我が子が学校に行けなくなった

  • 教室に入れないなんてどういうこと

  • うちの子がいじめられているらしい

  • 人間関係のトラブルで落ち込んでいる

  • 受験のストレス、挫折で立ち直れない

子どもの成長過程は素晴らしいものであると同時に、苦悩やつまずきを含んだものでもあります。

本人のしんどさはもちろんですが、1番近くにいる家族の心労も相当なものです。

子どもは家族に寄り添ってもらって苦しい時を乗り越えますが、

保護者は?

渦中にいるしんどさを、黙って抱えるしかないのでしょうか。

子どもはいつも親を見ています。

大好きな親が幸せそうであれば、安心。

大好きな親が苦しそうであれば、不安。

私は子どもを気にかけると同時に、保護者とも共にありたいと願ってきました。

そんな思いを保健便りで届けていたところ、お母さんたちが数多く保健室に寄られるようになりました。

時には親子そろって、時にはお母さんだけで。

どの家庭にも心配ごとは存在します。

重い荷物を背負いながら、お母さんたちは力を振り絞っておられます。

「子ども」という接点で繋がる養護教諭とお母さん。

保健室は、子育て相談室やがて人生相談室みたいになっていきました。

ただ、私はカウンセラーでもないし人を導く能力を持っているわけでもありません。

お母さんたちだって

「保健室に行けば問題が解決する。」

なんて思ってはおられないはず。

では、なぜ?

きっとみなさん、孤独なのでしょう。

我が子が苦しんでいる時、助けたい・支えたいと願っても、すぐ解決するとは限りません。

問題が長期化すれば疲弊もします。

「こんなに頑張っているのに」

と思うほど、責任転嫁したくもなります。

考えごとは迷走し、結果、家族皆が混乱に陥ります。

「お母さんがキーマン! 」

なんて言われると、問題が解決しないのは母の責任みたいに感じて。

お母さんの心はどこに向かえばいいのでしょう……。

そんな時をご一緒できたらと思っていました。

保健室に来られた際には、たくさん話してたくさん泣いてたくさん安心して帰って行かれます。

そして頑張って、再びどうしようもなくなると

「また来ちゃいました……。」

と訪ねて来られます。

ひたすら話を聴いたり、適切なアドバイスができたりしていれば見事ですが、私はちょっと違いました笑。

一緒に泣いたり怒ったり

呆れたり笑ったり

「保健室って不思議なトコですよねー。」

お母さんたちはそんなふうに言っておられました。

せめて子育てが孤独なものになりませんように……

今も心から祈っています。

たくさんの出会いがありましたが、その中でも忘れられないのが雪ちゃん親子です。

雪ちゃんは小学3年生。

悲しい出来事をきっかけに家から出られなくなりました。

仕事を辞めたお母さんと狭いアパートに2人きり。

煮詰まって相談に来られました。

外の世界に出ないと、もう2人とも限界です……。

親子は同じ表情に見えました。

「じゃあ2人一緒においでよ。」

こうして母子登校がスタートしました。

最初は重い足を引きずって来て短時間で帰っていましたが、すぐに1日中過ごせるようになりました。

教室に行けなくても、心身の健康のために生活リズムは崩さない方がいいとお母さんが自分の中に「柱」をもっておられたからだと感心します。

雪ちゃん親子は、本を読んで過ごしていました。

2人で2000ピースのパズルを完成させたこともありました。

表情が良くなった頃、

「そろそろ教室に行ってみよう作戦」

を持ちかけました。

結果的には、失敗。

元気になったから教室に行けるだろう。

そんなイコール、ありません。

心が整ったら、自ずと子どもは動くのです。

わかり切ったことを私たち大人は何度間違え、子どもを傷つけ、反省すれば気が済むのでしょう。

ごめんね。

穏やかな時間が戻りました。

私たち大人チームも反省を胸に刻み、落ち着いて見守りました。

静かに見守るのは、積極的にアプローチするよりずっと大変です。

子どもをよく見て話をして、一緒に困り感を整理する。

今できることのわずか上程度のチャレンジを提案する。

できた・できないという事実より、やって心がどう動いたかを重視する。

地道なことを、心を合わせて積み重ねました。

チャレンジして失敗すれば凹みます。

でも

「大丈夫。まだ少し早かったねー。」

と声をかけるだけで救われるものなのでしょう。

雪ちゃんもお母さんも、少しのことでは動じない人に変わっていきました。

「ま、しょうがないねー。元気出そーっと。またいいことあるよ。」

窓際でケラケラっと笑いながら話す親子の会話を聞いた時、私は泣きそうになりました。

この2人は、もう大丈夫。

壁を越えたんだろうなぁ。

1年半が経ち、私は転勤が決まりました。

打ち明けると、案の定

「先生がいなくなったら、頑張れません! 私も娘も! 」

なんて泣いてくれるから、もらい泣き。

3人で抱き合い青春しました。

でも

ほら、ちゃんと大丈夫です。

4月になったら雪ちゃんは、ランドセルを背負って歩いて学校に行き始めました。

向かうのは、教室です。

子どもは、自らの中にある成長エネルギーでちゃんと生きていきます。

親は慌てず騒がず、でも責任をもって見守りましょう。

ただ、その重く尊い役割をそっと支える誰かが必要なのです。

そんな仕事ができたとしたら、もうそれだけでじゅうぶんでした。

お母さん。大変だったけど、でも楽しかったよね!

さいごに

私は年に1度、大学の看護学科で「学校保健」の講義をしています。

講義では学校における危機管理や保健教育、子どもとの関わりについて話をするのですが、学生さんが、驚くほど目をキラキラさせながら聞いてくれるのです。

中には俯いて泣いている姿も……。

講義後にはこんなコメントをいただきます。

  • 学校の中で専門性を発揮して働く養護教諭のやりがいを知った。

  • 学校で唯一医療と教育両方の視点をもって機能する保健室は魅力がある。

  • 看護師を目指していたが、進学して養護教諭の道も考えたい。

  • 子どものエピソードを聞くうちに自分の思春期を思い出し、あの頃の怒りや孤独を今やっとおさめることができた。

私の思い出話が、若い皆さんの夢の実現に向けた一助となることを祈っています。

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