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挨拶をする意味

「笑顔でいよう、挨拶をしよう」

小学校5、6年生の時の担任のM先生が遺した言葉だ。先生はわたしが中2の時に若くして癌で亡くなった。中学受験やその他学校の活動で他のクラスメイトより接することが多かったと思うので、訃報を聞いた時はショックだった。

気がついたらM先生を亡くしてからの人生の方が長くなってしまった。先生の言葉一つ一つを覚えているわけではない。だけどこの言葉だけは覚えている。

新潟の田んぼのど真ん中の家から田んぼのど真ん中の小中学校に通っていたわたしが、ハワイの大学に行き、福岡で日本社会に揉まれた末、マレーシアで働いている。M先生はわたしの内申書を書く時に、教え子のこんな人生を想像しただろうか。

「笑顔」も「挨拶」も、どこに行っても存在する。そして余程治安が悪かったりしない限りは、行動に移すべき行為として推奨されている。

ただ最近、わたしの職場だけなのか、クアラルンプールの特徴なのか、ロックダウン下で神経質になっているだけなのか、わたしの身の回りではそれが希薄な感じがしてならない。

人がたくさん居るのに「笑顔」も無ければ「挨拶」も無いのが、こんなにも居心地の悪いものだとは思わなかった。


挨拶をする意味

「挨拶する意味」で検索をかけたら、一番上に新潟市の鏡淵小学校の校長先生のおたよりが出てきた。

あいさつの言葉自体には深い意味はあまりありません。例えば、「おはようございます」 はお早いですねという意味です。「こんにちは」は、今日はいい天気ですねくらいの意味 です。では、なぜあいさつが大事だと言われるのでしょうか。
あいさつの「挨」には、相手の心を開くという意味があるそうです。あいさつの「拶」 には、相手の心に近づくという意味があるそうです。挨拶(あいさつ)とは、自分の心を開くことで相手の心を開かせ、相手の心に近づいていく積極的な行為と言えます。分かりやすく言うと、あいさつには、「あなたのことを認めています。これから仲良くしていきましょう。」という意味が込められているのです。
もし、人に会ったときあいさつしなかったらどうでしょう。「私はあなたのことを認め ていません。仲よくしたいとも思っていません」という意味になってしまいます。これを 相手の人が見たらどう思いますか。「何という失礼な人だ。そんな人とは仲よくなりたくない。」と思うに違いありません。きっとあいさつをしない人は、自分が相手からどのように思われているかを意識していない人なのではないでしょうか。

挨拶とは、相手の心を開き、相手の心に近づくこと。

英語の挨拶にあたる “greeting”も、古期英語では「近寄る」という意味だったそう。

この校長先生は、この段落をこう締めている。

「きっとあいさつをしない人は、自分が相手からどのように思われているかを意識していない人なのではないでしょうか。」

21世紀も20年が経過した今、「他人の目なんか気にせずに、自分の生きたいように生きよう!」という風潮がある。そのせいなのか?

それが言葉通りの意味だとしたら、いいねの数もフォロワー数も気にしないじゃないか。仲間内だけで済ませたいからと言って、アカウントに鍵をかけることだってないじゃないか。

現代人として生きるうえで、相手からどのように思われるかを一切気にせず生きることは不可能だと思う。もちろん本気で人の目を避けて生きたい人も居るらしいが、そのような人たちはSNSなんかしないし、究極の形態として山奥でひっそりと暮らしていたりする。


相手を気にかける行為

鏡淵小学校の校長先生も言っている通り、挨拶そのものに大した意味はない。「こんにちは」は、「今日は、ご機嫌いかがですか」等の語りかける言葉を省略したものらしい。さらに英語の「Hello(ハロー)」は猟犬に向かって掛けていた声が派生したものらしい。おそらくドイツ語の「Hallo(ハロー)」やスペイン語の「¡Hola!(オラ)」、ポルトガル語の「Olá(オラ)」も同じだろう。

隣国の挨拶は少し違う。中国語の「你好」も直訳すれば「あなたは良い、健康である」という意味。意味があると言えばあるようで、ある意味無いようにも感じる。しかし韓国語の「안녕하세요(アンニョンハセヨ)」は「安寧・穏やかでいらっしゃいますか?」という意味があり、ロシア語の「Здравствуйте(ズドラーストヴィチェ)」は「健康でありなさい」という命令形らしい。

世界的に話者が多い他の言語も調べてみる。アラビア語の「اَلسَّلَامُ عَلَيْكُمْ.(アッサラーム・アライクム)」やベンガル語の「আস্সালামু আলাইকুম(アッサラーム・アライクム)」には「平安があなたの上にありますように」という意味があるそう。ヒンディー語の「नमस्ते(ナマステ)」は、「あなた(の内なる世界・神)に敬意や畏怖をもって認識しています」という意味があるらしい。宗教と文化が直結している言語は、挨拶すら神々しい。

このように各言語の挨拶言葉を並べてみると、犬への掛け声よりずっと意味の深いアラビア語、ベンガル語、ヒンディー語で挨拶をされたら、ああ自分は相手に気に掛けられてるんだな、と思うかもしれない。

しかし「Hello」が深い意味を持たないとしても、英語話者は「How are you?」などの調子を伺う言葉を挨拶の一部として高確率で使う。

日本語でも毎日のように顔を合わせる人に「こんにちは」はなかなか使わないが、「お疲れ様です」を疲れていなかったとしても使う。韓国語、中国語、マレー語等では「ご飯食べた?」が親しい間柄での挨拶に相当するらしい。文化を汲み取れるほどに学んだ言語はそんなに無いので、他にも学んだらいろいろ「こんにちは」に代わる挨拶文句はたくさん出てくるのだと思う。

詰まるところ、「挨拶をする」という行為には、相手が今日も平安であるか、健やかであるか、いつもと変わらない生活ができているかを伺うことにより、「あなたのことを気にかけています」という気持ちを示す意味が世界的にあると考えられる。


挨拶をしない人の心理

挨拶があまり飛び交わないことを嘆きながら書いたこの記事だが、逆に挨拶しない人の心理はどうなんだろうか。わたしだって道行く全ての人に挨拶をするわけではないし、状況によっては同じ学校や職場の人に自ら挨拶をしないことだってあった。された挨拶はちゃんと返すが。

冒険心が強そうなわたしだが、実生活では人一倍警戒心が強い。トラブルに巻き込まれないように人と目を合わさないように歩くし、興味の無い異性からの好意を感じたら相手の真意を確かめる前からめちゃめちゃ距離を取るし(いわゆる自意識過剰)、同世代もしくは年下でいきなりタメ口を使ってくるような人も苦手。上記のような人には自ら挨拶をすることはないかもしれない。しかし挨拶をされたら無視するようなこともしない。

そのように考えると、周りのわたしに対する警戒心や、もしかしたら嫌悪感があるせいで、挨拶が返ってこないのかもしれない。警戒心なら解けるようにがんばりたい。ただ、嫌悪感を向けている人には触れないのが一番平和だと思う。おそらく居ないと思っている(思いたい)けど。

一番悲しいのは無関心。だけどこれは自分の関心の示し方が足りないとも取れる。

大学時代、”Say-Hi friends”という間柄があった。とりあえずの自己紹介は済ませたものの、その先の話題が特に無く、廊下ですれ違うたびに「Hi!」と挨拶だけする関係のことを指す。

しかし「話題が無い」なんてことはあり得ない。相手が20歳なら20年生きてきた分の人生経験があるわけだし、その先の夢だってあるはずだ。「共通の話題」があった方が盛り上がるのかもしれないけれど、共通項が少ない方が世界は広がる。

挨拶をする関係性を築くために相手の人生まで深掘りする必要は無いと思う。しかし、昨日や今日の出来事を共有し合える関係になった方が、「相手を気にかける」という挨拶の目的を果たしやすくなるのではないだろうか。


大人のあいさつ運動

小中学生の時、校門もしくは下駄箱の前に並んで登校してくる生徒に向かって「おはようございます」と声をかける活動があった。あれは今考えると大人になって社会に出た時に、マナーとして挨拶を自ら率先してできる人間になるためのいわゆる発声練習のようなものだったんだろうなと思う。

大人になると、発声練習のその先を求められるようになる。その人が信頼できるかどうかだ。今までアルバイトも含めいろんな組織で働いてきたが、信頼される人はたいてい挨拶をしっかりする人だ。

挨拶をすることが信頼に直結するとは言えないかもしれない。たとえば、元気だけど仕事が粗い人は少なからず居る。しかし挨拶もしないのに仕事が雑な人と比べたら、話しかけやすく、その先の解決策を導きやすいかもしれない。

逆に仕事ができたり上の立場にいるにも関わらず周りへの挨拶を怠っている人は、残念ながら信頼されにくい。少し業務知識が足りないとしても話しかけやすい人に頼りにいこうという気になる。

ここで先ほどの鏡淵小学校の校長先生の言葉を思い出したい。

「きっとあいさつをしない人は、自分が相手からどのように思われているかを意識していない人なのではないでしょうか。」

この対偶を言うなら、「自分が相手からどのように思われているか意識する人なら、あいさつをすべきである」ということにならないだろうか。


人として生きるための挨拶

先の段落で小声で話した通り、わたしは自意識過剰な部分がある。しかし過剰でなかったとしても、人には多少の自意識があるはずである。

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マズローの欲求5段階のピラミッド。生理的欲求は「ご飯食べた?」や「お疲れ様」にかすっているかもしれない。人は安全だと思える人に挨拶をするし、家族や職場など所属先にも挨拶をする。挨拶をして返すことで承認を確かめることもできる。承認と自己実現には挨拶の先にある”信頼“が関わってくる。

つまり”挨拶“とは、人の本能的欲求を満たすために必要な理性的行為であると考えられる。こうやって考えると、挨拶をすっ飛ばして上記欲求を満たそうとする人はなんだか野蛮な気がする。

先にも言った通り、人里を離れひっそりと暮らす人を除いて、人として生きるうえで他者との関わりは免れない。挨拶が無くても死ぬことは無いが、人らしく生きるためにした方が良い。挨拶をするか否かで、雨の日だけ水を待った植物と、適宜世話をされた植物くらいの差ができるのではないかと思う。その花は綺麗で、実も豊かなはずだ。

挨拶の希薄な環境に居心地の悪さを感じたとしても、他者に「『こんにちは』と言え」を強いることはナンセンスである。”挨拶“が欲しいのであれば、”挨拶“でしか相手の心を開くことはできないのだから。


海外に住むと、日本の教育に対しネガティブな考えを持つ邦人に会うこともある。だけどわたしは外国語やITに対する知識が多少劣っていたとしても、人として大切なことを教えてくれる日本の小中学校を卒業できてよかったなと心から思う。M先生が遺してくれた言葉は、M先生が出会うことのなかったスマートフォンを通して今日わたしが誰かに届けようと思う。




«マズローの欲求5段階の図は以下よりお借りしました»


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