「やさしさに包まれたなら」と素朴な神様
気持ちよく目が覚める
元来寝覚めの悪い僕が、最近、気持ちよく朝を迎えられる。相変わらず早起きはできないし、「寒いなあ…」と、寝袋から出られずにいる(しばらくベッドを使っていない)。そうなのだけど、気持ちよく朝を迎えられている。
原因なのか結果なのかは判らないが、目覚めた時に「今日も朝を迎えられた。ありがとうございます。」と心に浮かぶようになったことと関係しているように思う。そして、それを思うことができると、身を包んでいた寝袋や着ていたパジャマにも「ありがとう」と言えるようにもなった。
以前、「朝にストレスを感じるとその日中の生産性に影響を与える」という学術論文の話を聞いたことがある。その研究に鑑みれば、今の朝の迎え方はどう取れるのだろう。
「やさしさに包まれたなら」にいる「神様」
ジブリファンでなくとも、松任谷由実さん(当時:荒井由美)の「やさしさに包まれたなら」を知る人は多い。映画「魔女の宅急便」のエンディングテーマ曲としても有名な一曲だ。爽やかな演奏にユーミンのゆったりとした歌声が心地よい。その歌い出しはこうである。
主語には「誰しも」がふさわしいように思う。誰しも小さい頃は神様がいて、不思議に夢をかなえてくれた。でもそれは過去の話であり、多くの大人たちにはその「神様」はもういない。
二度現れた「神様」
これは論文ではないので横道に逸れると、主語は歌い手自身かもしれない。自分が小さい頃には神様がまだいた(そういう時代だった)。この曲が発表されたのは1974年、ユーミンが20才を迎えようとする頃のことだった。
その前年には第一次オイルショックが発生し、ベトナム戦争は終結した。社会が戦後からポスト戦後に移り変わろうとする年ではなかったのだろうか。(まだ僕は生まれていないので当時の雰囲気を知る方はコメントを寄せてもらえると嬉しい。)
そして、1974年はユリゲラーの超能力や『かもめのジョナサン』がブームとなる。現実離れしたものをどこか欲している世相であったことが伺える。その中で言及される「神様」なのだ。
1974年に発表された同曲が再び脚光を浴びたのは、前出の「魔女の宅急便」で使用されたことによる。それが1989年のこと。
この年も時代が移り変わる一年だった。昭和天皇の崩御、昭和の歌姫・美空ひばりさんの死去、冷戦の終結と激動の年であったと言えよう。そのような時代背景において、人々は心のどこかで幻想的な体験の再来を求めていたのかも知れない。さて、本筋に戻ろう。
大人が「神様」を取り戻すために
大人になり、夢をかなえてくれた「神様」はもういない。もう不思議な幸運は訪れないのか。歌詞を紐解くと「神様」を取り戻すことはそう難しくないことが解る。
なんてことはない。優しい気持ちで目覚めることが奇跡を引き起こす秘訣だと言うのである。奇跡という言葉こそ用いていないが、前述の論文や最近の僕の目覚めにも通ずる。
優しい気持ちで目が覚めたなら
優しい気持ちでカーテンを開き、世界とふれあう。
そうすると、いつもより誰かに親切にできる。
親切は他者を優しい眼差しに変える。その「やさしさに包まれたなら」自分の視界も違ったものに変わっていく。
すべてのものが「メッセージ」を含んだものに変わっていく。
一つ一つの出来事に意味が吹き込まれていく(あるいは、意味を覆っていたベールが取り去られていく)。
私たちは意味あるものは丁寧に扱える。
日々が丁寧になる。
それがまわりまわって、「奇跡」として立ち現れるのではないだろうか。
素朴な「神様」
最近読んだ本で、ある宗教学者は「宗教は2つに分けることができる」と言っていた。それは信じる宗教と感じる宗教なのだという。そして、日本は後者の側面が大きいだろうとも言っていた。
朝、目が覚めて自然に「ありがたい」と思っている。これは信仰というより、湧き上がってくる感覚だと思う。やさしさに包まれた感覚。その意味では体系立てられた教義も必要ない。とっても素朴な「神様」に手を合わせればいいのだから。
そして、借りを返すわけではないけれど「少しは世が明るくなるお手伝いをさせていただこう」と、やさしさで他者を包んでいく。これが次のステップなのだろう。
信仰とか宗教とか言うと、ややこしい先入観やイメージが膨らんできて「神様」のジャマをする。「神様」という名前すらジャマなら別の名前だっていい。大切なのは自然に湧きあがってきた優しい感情をうまく掬い上げること。もう一つは、すべてのものに付されたメッセージに目を向けることではないだろうか。
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