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宗教家としての対話

私が奉仕する金光教には「取次」というものがあります。今でこそ「オフィスにかかってきた電話を部長に取次ぐ」というような使い方でしか耳にしない気がしますが、ひと昔前はもう少し違った使われ方もしていたようです。

ある時代劇を見ていたとき、取次所と銘打たれた部屋が登場したことがあります。そこは民衆がやって来て、お殿様への願いごとを陳情するための場所でした。お殿様が直々に会うわけではありませんから、陳情の内容を聞き取ってお殿様に取次ぐ取次役のお役人さんがいるわけですね。

金光教の「取次」

金光教においては、お参りにいらした氏子(うじこ)のお礼やお詫び、お願いを神さまとの間に立って(座っていますが)伝達することを「取次」、取次ぐ人のことを「取次者」と呼んでいます。

また「取次」をする場所は「結界」と呼ばれていて、教会にあがって(基本的には)右側に位置しています。「結界」という言葉は「世界」を「結ぶ」と書きます。ここで神さまと私たちとのコミュニケーションを図ろうというわけです。

しかし、オカルト的なイメージとはかけ離れていますので、そういう期待を持って来られるとガッカリするかも知れません。おそらく、みなさんが金光教の教会にお参りすると、結界には気の良いおじさん・おばさんが座っていることでしょう。そこでのやりとりは神妙なものもあれば、快活なジョークが飛んでいることも珍しくありません。では、取次者は何をするのかということですが、3つの役割があると思っています。

(私が思う)取次者の3つの役割

共に祈る

まず参拝してきた方と共に祈ることです。お願いごと持ち込まれた方と一緒に祈ります。願いが強い方が通りやすい、ということがあります。取次者には願いが通るように祈りを添える役割があると思っています。

ちなみに拝んでください、という方がいらっしゃいますが、それじゃあ問題の根本解決にはなりません。このことは3つ目の役割でお話しします。

祈りを整える

次に祈りを整えるということがあります。持ち込まれた願いごとが神さまが聞き入れやすい内容・その人にとって良い内容に整えていく、という意味です。

例えば、病気をしたという方がいらっしゃったとします。病気の回復を願われるわけですが、自分本位の願いよりは他の人と助かっていく願いのほうが神さまは喜んで受けやすいわけです。ですから「同じ病気を持つ人と共に助かっていくように」「元気な体になって世の中のお役に立てますように」といった願いへと方向修正をはかるわけです。

また、「健康診断で悪い結果がありませんように」という願いであれば「本当の状態をわからせてもらえますように」と整えます。もちろん、健康体なのが一番ですが病気があるのに見つからないのでは困りますからね。

教えを伝える

ちょっと考えてみてほしいのですが、寺社に来て拝んでもらえば万事問題ナシ!なんて都合のよいことはあるでしょうか?無いですよ、そんなの無い。言ってしまえば、それは庭の伸び放題の草を刈っただけのようなもので、放っておけばまた草は伸びてきます。つまり、問題の根から解消する必要があるわけです。問題の根、それはあなたの性根・心根にあるわけです。これを変えてあげなければ問題は姿形を変えながら何度も表れてきます。

そこで神さまのアドバイスを直々に伝えてもらえたらよいのですが、残念ながら(少なくとも私は)クリアに啓示を受けることはできません。神さまの声は聞こえないのですが、先達の教えは習ってきているわけであります。その教えを神さまの言葉として伝え、実践を促すわけです。そして自分の知恵を絞って解らせてやろうとするというよりは神さまに委ねる、そうすることで自分でも思わないような言葉を発していることがあります。

「取次」の力

金光教の本部は岡山県にあるのですが、そこでは教主(開祖の跡を継ぎ、その宗教教派を代表する人)が毎日欠かさず「取次」にあたっておられます。金光教を信奉する方であっても、そうでなくても、予約もなくお供えもなしに(してくださるとよいですが笑)応対してくださるわけです。別に誰も「お前を信者にしてやろうかー」(蝋人形感w)という感じはありませんし、こういう経験は他ではなかなかできないので、一度体験されてみると良いのではないかと思います。

せっかく「取次」を受けるなら、色々お聞きしてみてはいかがでしょうか?
私は一度だけ質問したことがありますが、そのとき長い沈黙の後に返ってきた言葉は「実意ですな」の一言でした。文字に起こせばそれだけですが、非常に濃密な時間でした。

昔、「取次」する祖父や父の姿を見て「神さまの声が聞こえないんなら、それはカウンセリングと同じじゃないか。神さまの名を借りたカウンセリングだ。」というようなことを思ったような覚えがあります。しかし、先ほどの一言はカウンセリングやコーチングの手法にはない趣があるように思います。遅まきながら、「取次」の力を悟った瞬間だったと思います。

宗教家としての対話

宗教家として気をつけていることがあります。それは日常の会話がそのまま「取次」になることを目指す、ということです。「結界」という場所は大切なのですが、どこにいても何気ない会話から人が助かっていけばこれ以上のことはありません。自分の言葉だけど神さまからのメッセージになるようにと願います。

また、わかりやすく1から10まで論理的に説明することや無条件に肯定してあげることが良しとされる考え方が普及していたりします(私も基本的にはそれを心がけます)。しかし、ときに語りすぎないことや沈黙、簡単に同調しないなど、その価値観に反するようなことがかえって相手に深い理解を促すこともあります。長い目で見た時に助かっていくように、望まれる対話のあり方を考えていく必要があります。

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