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『ムーミン谷の彗星』と『人新世の「資本論」』

三十路を過ぎムーミンを読むとは思わなかった。きっかけは予備校講師・小池陽慈先生のツイートだった。

ムーミンが哲学?ムーミンでイヤーな気分?哲学にも精通する国語予備校講師の先生が「世紀の傑作」と評するのだからこれは一読せねば、と手に取ったわけだから単細胞だ。

人間への深い洞察眼が現れた「ムーミン谷」

子ども向けに書かれた(訳された?)ものであろうから、ひらがなが多くて読みづらい。論理でつかめないレトリックを散りばめた会話。自分は大人になったのだな、と思わされる。

子ども向けだろうが、大人にとっても示唆に富む。彗星が間近にやってきていると言うのに、宝石に目が眩むスニフ、収集した切手のことしか頭にないヘムル、家財道具ほぼ一式持ち出そうとするムーミンママ、会議が目的化するスノーク、目の前の楽しいことに夢中なスノークのおじょうさん、ニヒリズムに陥るじゃこうねずみ。

これじゃあ、まともなのはスナフキンくらいじゃないか…と素直に笑い飛ばせない、人間社会へのシニカルな問題提起のようにも読める。

この『ムーミン谷の彗星』はムーミン谷の物語の第二作目だというが、著者ヤンソンの手により何度も加筆・修正が加えられたのだという。この物語の主題は著者にとって重要な問題でもあったのだろう。(本作で印象に残ったセリフは本noteの末尾に載せる…つもりだったのだが別noteに分けた。)

話題の新書 『人新世の「資本論」』

数年周期で経済学関連の本がブームになっている気がする。前回が「ピケティ」だとすると、今回は「人新世」がキーワードだろう(ジンシンセイではなくヒトシンセイと読む)。人類が生産したプラスチックなどが堆積して地層をなす、その時代のことを人新世と呼んでいる(と理解している)。

地球にとっての「ポイント・オブ・ノー・リターン(後戻りできない地点)」を迎えようとする環境問題について、若き経済学者がカール・マルクスの『資本論』をヒントとして取り組んだ意欲作だ。

マルクス経済学?あー、はいはい。共産主義でしょ?と思うなかれ。『資本論』にまとめきれなかったマルクスの経済学(とすると矮小化してしまっているかも知れない)が存在しているのだと言う。

資本論は全三巻に亘る大著なのだけど、カール・マルクスのオリジナルは一巻のみで残りの二冊はマルクス死後、遺稿をもとにエンゲルスがまとめたものであることは有名な話。しかし実は膨大なメモ(ちなみにマルクスは自分で書いたメモが読めないほど字が汚い)を残しており、その分析が進んでいる。著者はそれを元に「後期マルクス」とも呼べるマルクス像を結ぶ。

法整備など資本主義を修正することで環境問題にアプローチしようとしてきた主流派経済学に対して、著者(≒後期マルクス)はノーを突きつける。資本主義自体が周縁・時間・自然を搾取するシステムだからだ。そして、自然科学にも明るくなった後期マルクスは、その対案として(帝国主義的でない)共同体的世界を示すのである。

ムーミン、 人新世に転生する

ムーミン谷の彗星と人新世に共通するのは、「危機」と「欲望」の問題である。世界が消滅しかねない危機に直面してもなお、現実を逃避したり、自分の世界に籠り続ける住人の姿である。同時期に読んでいた異ジャンルの二冊が思いがけずクロスオーバーした。これが読書の醍醐味でもあるのだが。

自分は大好きな切手蒐集のことだけ考えていればよい。彗星の衝突のことは誰か関心がある人が考えればよい。これはミクロ的には正しい判断である。しかし、マクロの視点(=社会全体)で考えるとそれでは不味い。こういう、個々では合理的な選択があわさった途端に非合理的になってしまうことを合成の誤謬(ごうせいのごびゅう)と呼ぶのだが、環境問題はまさに現実の世界に大きく横たわる合成の誤謬の問題だと言えよう。

ムーミン谷ではムーミンママが新品の湯ぶねを諦め、それで洞窟の穴を塞ぐことによって事なきを得た。

地球にとって、あなたにとっての新品の湯ぶねは何であろう?

本論ばりに長い補論

本論では『人新世の「資本論」』を肯定的に扱った。現状への問題追及は正しい。しかしながら、対案についてはリアリティに欠ける点があるように感じる。何というか、非常に各人のモラルに委ねられている感じがするのだ。

こんなことを言うと「お前は権力に抑圧されずにはいられないマゾヒスティックな人間なのか」と言われそうだが(?)、そうではない。絵に描いた餅、理想論として終わるのではないかという懸念から言っているのである。

地域でコモンズ(共有財)の使用・管理して必要な財を得ていくということについては現実味を感じるが、これは資本主義の脱却ではない。資本主義世界に浮かぶユートピアのようなものである。資本主義と決別するには、それぞれミクロの視点でも決別することを選び取るだけのインセンティブ(=動機となるもの)が必要である。

そうでなければ、資本主義世界に対する周縁として(現在の発展途上国のように)環境問題のツケだけ回ってくるかも知れないし、世代が変わればそのユートピアも再・資本主義化するかも知れない。また、「理由がないなら強制だ」という発想は、それこそ帝国主義的共産主義の悪夢再び…というシナリオに陥るだろう。

やはり、個人的には法整備・教育等による修正資本主義の立場を採りたい。
資本主義が人の欲望のアクセルを踏んでいる面は否定できないが、その欲望は資本主義ではなく人自体にビルトインされている。したがって、人の欲望が資本主義を求めている側面もある。だから、一度踏み入れた資本主義からは抜け出せないというところをスタート地点とすべきと考える。

著者も実は同様の立場なのではとも思ったりする。財界人等との対談インタビュー記事を拝見すると、論調が軟化しているからだ。理想としては自著の理論を掲げつつも、現実路線としては著者が臨む体制への移行は厳しいことを悟っているように感じる。
なお、同書で指摘されていた資本主義批判は正鵠を射ている。例えば、マーケティング・ブランディングは欲望を掻き立てるような過剰なものとなっているし、「エコ」で「経済的」な商品ならその分消費しても良いという免罪符と化している。それらを制度的に教育的に一つ一つ克服していくべきではないだろうか。



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