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教育を考える―大人の引き出し

10/13(木):教育を考える②
先週に引き続き、中学校国語教師の「大村はま」先生の言葉たちから、教育、子育てを考えていきましょう。

前回「子どもの表現に自信を」と書きましたが、今日は「表現」のベース作りについて…

以前、知人から
「読書感想文、なんぼ怒っても子どもが作文用紙の半分も書かれへん。3枚書かなあかんのに…
あらすじも書いたらあかんらしいねんけど、そしたら書くことなんかないよね?」
と、グチ?相談?をされたことがあります。

大人が分からないことを、どうして叱れば子どもにできると思っているのだろう。
叱られた子どもの気持ちを思うと、いかに困って悲しかったことか…といたたまれない気持ちになりました。
少なくとも叱るなら、大人の中にいろいろな表現の引き出しを持つことが必要なのではないでしょうか?
分かってないのに叱られる…叱っている本人も分かってないから雰囲気で「それっぽいもの」をヨシとする…なんて都合の良い身勝手な対応なのでしょうか?

大村はま先生は感想の持ち方として、具体的に以下のように手引きを用意して教えています。


「何々のこと同感です。」
「何々のところそうかな、もう一度読んで考えてみますけど。」
(中略)
「まだこんなことも考えた、その本読んで。」

‹引用›教えながら教えられながら:大村はま

  大村先生は中学校の先生なので、感想文の指導について語られているけれど、これを幼児期に当てはめてみたらどうだろう?
「言葉」というものに出会って、まだ数年の子ども達。

毎日の中に新しい発見や「おもしろい!」がいっぱい溢れている子ども達。
語彙力や表現力が足りないこともいっぱいあるのではないでしょうか?

何かの経験をして
「たのしかった!」
「うれしかった!」
しか答えられない子どもの姿に、もっと違う反応が欲しくて辟易している親は少なくないもの。

でも、うんざりされるべきなのはきちんと言葉の世界を広げてあげられない親自身ではないでしょうか?
また「感想が言えない」=「感じていない、聞いていない」と感じるのは大きな誤解!
言葉にできないことの、その奥にある思いを掬い取れる大人でありたいですね。

嬉しいとき、悲しいとき、悔しいとき、美味しいとき…すべてを「ヤバーい」しか言えない、そんなヤバい大人では居たくない。
私は常日頃、そう考えています。

では、もうひとつ大村はま先生の言葉を…

本当に素朴なことばの力というものはどういうものなんだろう。(中略)自分の心の中を文字化することができたら、生きるための技術としての書く力は育ったといえるのではないでしょうか。

‹引用›「教えながら教えられながら」:大村はま  共文社

文章を紡ぐ年になってきたら
いろいろな文章表現を、
構想の着眼点を、
広い幅をもった大人モデルとして子どもの側に存在したいと思いませんか?

私も語彙力がなくて、自分にうんざりする毎日。
少しずつ素敵な日本語を使えるように精進したいものです。


最後まで読んで頂いてありがとうございます✨
スキ!など、めちゃくちゃ励みになります!
子どもを見守る大人達!皆、がんばろうね!

では、また明日😁

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