権藤頼子はやさしい手をしている 第一話 猫を愛し、別れに苦しむすべての人への物語
あらすじ
権藤頼子は佐倉市の古民家でひとりぐらし。満月の晩が近づくと、死んだ猫が人の姿でやってくる。彼らの目的は、「毛皮を着替え、人間に恩返しをすること」。猫は九世を生きる獣。死してなお、情念に似た強い愛に突き動かされ、新たな生を得たいという。頼子は彼らのためにパンを焼き、蘇りに力を貸す。飼い主側の調査も行うが、状況は人それぞれである。愛猫の死を哀しみながらも前を向く者。忘れられず苦しむ者。忘れられないが、蘇りを望まない者。猫の想い、人間の想い、どちらも尊い。頼子は自分もかつての飼い猫との再会を待ち望みながら、今日もまた、新たなパンを焼くのだった。
第一話 深夜の訪問者
―――人生に喜びをくれるものは、同じくらい大きな喪失をもたらす―――
満ちゆく月が、夜半過ぎ、西の空に傾き始める時刻。裏庭の草を踏みしめる、湿った足音が近づいてくる。
足音には個体差があって、今夜の音は大きく、それなりの重量を感じるものだ。
頼子はオーブンを確認する。残り五分で焼き上がる。ちょうどいい頃合いである。背筋を伸ばし、裏庭に面した弁柄塗りの千本格子の引き戸を、じっと見つめていると。
「ごめんください」
ひそやかな声が、戸の向こう側からした。
「どちら様ですか」
本当は、相手が誰であるのか、もう分かっている。でも万が一にも間違いがあってはならない。
「田中小次郎と申します」
頼子は手元の黒いファイルに視線を落とし、その名前が確かにあることを確認した。
「田中さんですね。どうぞ」
ほどなくして、戸がからりと音を立てて開いた。そこには誰の姿もない。ただ、明らかに人ではない形の大きな黒い影が、淡い月光を受け、所在なさそうに揺らめいている。
「どうぞ、中にお入りください」
再度許可を与えると、影はゆらりと中に入ってきた。夜の湿った空気の匂いがして、影は、目の前で人間の姿になった。
頼子はいつも、この瞬間、妙に感心してしまう。
人間に化けることができるのは、たぬきや狐だけではないのだ。
今夜、やってきたのは、肥った中年男性である。主張の激しい金魚柄のシャツに、縞模様のズボンを、水玉模様のサスペンダーで吊っている。
彼らはたいてい、独特なファッションセンスをしている。
「どうも、初めまして」
彼は丁寧にお辞儀をした。すぐに顔をあげると、はらりと落ちた前髪を邪魔くさそうに手で払う。ずり落ちたメガネを直し、その奥の目をきろきろと光らせた。中年と思ったが、よく見ると、肌艶がやたらと良い。皺ひとつない。
頼子も軽くお辞儀をする。
「初めまして。権藤です」
「ゴクドウさん?」
「……ごんどう、です。権藤頼子」
小次郎はひとつ、頷いた。
「ゴンちゃんって呼ばれるのと、ヨリちゃんって呼ばれるの、どっちがいい?」「どっちも嫌ですね」
「顔が怖いって言われない?」
「言われます」
「でも、気は優しくて力持ち。そうなんでしょ」
「特別優しくはないです。力は、まあ……そこそこ」
「わあ、いっしょだ」
「なにがです?」
「僕もなんです。顔は怖く、気は優しく、力持ち」
「はあ」
会話がちぐはぐだが、よくあることだ。小次郎は好奇心旺盛に質問を重ねる。「歳は、何歳なの?」
「二十七歳です」
「ずいぶんと長生きだねえ」
「そうですか?」
「あ、間違えた。ええと……」
小次郎は太い指を折っては戻し、また折る。
「ああ。僕と同じくらいってことですね」
頼子は曖昧に頷き、彼を、ダイニングテーブルに着くように促した。小次郎はよいしょ、と木製の椅子に腰掛け、きょろきょろと家の中の観察を始める。
築百五十年の、古い日本家屋である。玄関兼台所の広い土間は吹き抜けで、太い四本の柱と、漆喰で固められた葦で葺かれた天井が見えている。土間には、骨董的価値のありそうな大きな竈もあるが、機能的なステンレスの作業台とIHコンロ、オーブンレンジ、冷蔵庫が設えられている。大きなダイニングテーブルは昔の蔵の戸を再利用したもの。その土間から三和土を上がると囲炉裏を備えた居間があり、天井から下がる四本組の木枠には、魚を模した真鍮製の鈎がぶら下がっている。
奥には、続きの和室が三部屋ほど。どの部屋の畳も新しいし、障子や襖も張り替えてある。敷地は広く、前庭には池があり、立派なクヌギの木がある。通り土間と広縁で囲われた建物は大きく、焦げ茶色の梁は太く、すべての部屋の天井が高い。
時刻は深夜だが、雨戸の一部はまだ閉めていない。月明かりが広縁の障子戸から差し込み、奥の部屋に漂う闇はいっそう濃く、不思議な陰影と広がりをもたらしている。
程よく調湿された空気が循環し、古い木材が醸し出す独特な香りが漂っている。それからーーー。
田中小次郎はうっとりとした顔をして、鼻をひくひくとさせた。
「なんだかいい匂いがするみたいだけど」
「パンを焼いています」
「ぱん?」
彼はかっと金色の瞳を見開いた。
「きみ、僕が……いや、僕たちが、パンを食べると思っているのかい」
「なんでも食べるって聞いてます。少なくとも、その姿のときは」
「僕が聞いたのは、ここに来ると、漬物を出されるって」
「漬物は、今は出していません」
実は、漬物を出してもらえると思ってやってくる客は割といる。どこでどんなふうに情報が回っているのだろうか。
「いやしかし、ぱん……パンかあ。ふむ。食べたことないけど、美味しいのかな」「じゃあ漬物は食べたことあるんですか」
「いやないよ」
「お米とか」
「ううん。いつもは、カリカリとか、ぺちゃぺちゃとか、パタパタとか」
頼子と小次郎は、じっとお互いの顔を見つめる。どちらも真顔だ。
パタパタって、虫のことかな。いや、雀かもしれないな。
そんなことを考えていると、チン、と高い音がした。
「ああ、焼けました。しばらくお待ち下さい」
頼子はテーブルを離れ、オーブンがあるところまで行った。蓋をあけ、ミトンを両手にしっかりはめて、熱々のトレイをいったん、ステンレスの作業台に置く。
高い天井に向かって、パンの香りがさらに広がってゆく。
「……ほんとうにパンだ」
小次郎は用心深い目つきで、じっとこちらを見ている。
焼き上がったのは、普通のまるパンだ。手のひらにすっぽり収まるくらいのサイズで、表面は卵液を塗ったためにつやつやとしている。
材料は、北海道産強力粉「春よ来い」。沖縄産きび砂糖に赤穂の塩、バター。そしてこれが肝心、自家製天然酵母。
頼子は焼き立てのパンを網の上に出し、テーブルの真ん中に置いた。
小次郎は鼻をひくひくさせていたが、ペロリと舌なめずりをする。
「うん、思っていたよりも美味しそうだね」
「美味しいですよ。いい材料を使っています」
頼子はトングでパンをひとつ木製の皿に載せ、彼の前に置いた。
「これはまだ熱いんだよね」
「熱いの苦手ですよね」
「うん。だめだねえ、僕は、熱いのは」
「少しお待ちください。小さいから、割とすぐに冷めます。よかったら、その間、聞きますよ、あなたの話」
うん、と小次郎は頷いた。そしてぽつぽつと話しだしたのだ。
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