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権藤頼子はやさしい手をしている 第九話 転生を繰り返す猫の、情念の物語

第九話 佐倉のサバオ


 佐倉城址公園は、その名の通り、土井利勝どいとしかつが築いた佐倉城の跡地に整備された、広大な公園である。
 春は桜、秋は銀杏並木が見事で、市民の憩いの場所となっている。

 そこに、一匹の猫が棲み着いている。

 推定年齢は二十歳。でっぷりと肥ったサバトラのオスで、おそらく体重は十キロを余裕で超す。顔は大きくまん丸で、手足は短く、尻尾はくるんと曲がったかぎしっぽ。去勢済みの証である、さくら耳をしている。
 目つきは鋭く、はっきり言って美猫の類ではなく、そのふてぶてしい佇まいに、カラスさえ逃げてゆく。
 その名もサバオ。
 多くの地元住民に愛される地域猫である。

「え? サバオがいなくなったんですか?」
 十二月。冬の気配もすっかり定着した寒い朝、着替えどころに、人間の来客があった。
 ちょうど頼子の仕事は休みで、朝からフルーツライの生地を仕込み、十五分ほど前にオーブンに入れたばかりだった。
 フルーツライとは、ライ麦粉と全粒粉を三分の一混ぜ込んだ生地に、数種類のドライフフルーツとナッツ類を大量に混ぜ込んだパンである。

 この家で着替えを望む猫たちに出すパンは、基本的にどんなものでも構わない。そのために彼らは人間の姿に変じて現れる。出された食べ物を口にすると、発酵食品の力を吸収し、生まれ変わりのための下準備ができるのだ。
 それでも頼子は、本来猫にタブーとされる食材は、積極的には使わない。チョコレートにナッツ類、たまねぎ、ハーブ類にいちじくなど。

 今日は清掃も着替えどころの仕事もオフなので、ずっと作りたかったフルーツライを作ることにしたのだ。オレンジピール、クランベリーのほかに、トルコ産の白いちじくもたっぷりと混ぜ込んだ。
 酵母はライ麦粉から作ったサワー。これが風味を一段と増す。
 もちろんすべて自分用である。食べきれない分は薄く切ってラップで包み、冷凍しておけば、のちのちの楽しみになる。

 しかし、客はやってきた。

 濃紺のスーツに猫の柄のネクタイをしめた彼の名前は、鳴宮律なるみやりつ。三十歳。ひょろりと背が高く、色白で、眉目秀麗な青年……彼こそが、猫たちの着替えにおける、唯一の仕事仲間なのだ。

 彼は佐倉市役所に勤めている立派な公務員である。
 勤務している部署は、市民部市民課、猫班。
 市民課には通常、戸籍班や住民記録班があるらしいが、そこに、猫班があることは、ごく一部の人間しか知らない。というより、律は普段、住民記録班の仕事をこなしており、猫班の業務は、ひそかに行っているという。所属は彼ひとりきりであるらしい。

 猫班の業務とは。

 佐倉市内の猫のうち、死んだ後、着替え(つまり生まれ変わり)を希望する猫たちの名簿作り。飼い主の個人情報の調査と、頼子への連絡。着替えどころに必要な備品の補充。古民家の維持管理。そして、頼子への経費の支払い。

「あー、いい匂いですねえ。僕は今日も、いいタイミングで来たようです」
 律は嬉しそうな顔をして鼻をひくひくとさせた。
「……まだ焼けるまで時間かかりますよ」
「待ちますよ。ちょうどほら、サバオの話もしないと」
「庁舎に戻らなくていいんですか」
「今日は外回り中心の日なんです。お昼をここでいただいて、それから戻りますので」

 なんて勝手な。頼子は思わず文句を言いそうになったが、
「あ、これ、お土産です」
 と律がカバンから取り出したものを見て言葉をのんだ。
 ビニール袋の包みがふたつほど。ひとつは酒粕で、もうひとつは、米麹。どちらも頼子の発酵生活に欠かせないものである。
「……いつもありがとうございます」
「とんでもない。家にたくさん余っているものですから」
 にっこりと律は笑う。爽やかでどこか少年らしさを残す笑顔。きっと高校時代は、クラスで二番目くらいのモテ男子だったはず。この二番目というポジションが、かえってあざとい。一番目より親しみやすく、三番目より容姿が整い、男女問わず友達が多いタイプだったのではないだろうか。

 しかし頼子には関係ない。頼子にとっては、律はあくまでも仕事仲間。住居と、仕事と、それから、地元佐倉の最高の酒粕と米麹を提供してくれる男。

 鳴宮律は、銘酒「さくら臥竜がりょう」を生産する老舗酒蔵の次男坊なのだ。

 それに実は、頼子には、目論見がある。今使っているオーブンがどうにも調子が怪しいので、最新式のものにしたい。ここは我慢だ。

「それで、サバオはどこに行ったんですか」
 結局、少し早めのランチを提供することになった。前回は確か夕食を提供した。律は本当に鼻が効くのか、いつもパンが焼き上がる少し前に現れる。

 この日のランチは、焼き立てフルーツライに、昨日の夕飯の残りのクラムチャウダー、かぼちゃのサラダである。律は椅子に姿勢正しく腰掛け、「いただきます」と両手をあわせてからパンを手に取った。

 ちゃっかりと、薄くカットしたバターもたっぷりと塗っている。
 焼き立てフルーツライにバター。黄金の組み合わせである。
「うわあ、美味しい。頼子さん、また腕を上げたんじゃないですか」
「変わってないと思います。それで、サバオは」
「わからないんですよ。でも高齢だったから、自分の死期を悟って姿を消したんだじゃないかなあ」

 死んだ。

 そうなのか。確かに歳は取っていた。
 出不精で根っからの引きこもり体質の頼子だが、実は、週に一度か二度くらい、城址公園に行っていた。公園の東側の出入り口まで、ここから徒歩五分くらいという距離の近さもあるが、行けば、必ずサバオに会えるからだ。

 サバオは茶屋の横にある古びた東屋を根城にしていた。
 誰が置いたのか、縁側部分に色褪せた朱色の座布団があって、日中、大抵はそこで寝ていたのだ。
 人が近づいても、我関せず、座布団から頭がはみ出た状態で、まったく無防備にいびきをかいて寝ていた。

 頼子は城址公園を散策した後、サバオのところへ寄って、少し距離を空けて腰掛けたものだ。撫でることはせず、話しかけもしなかった。

 ただ、猫が、隣にいる。

 その状態が、とても心地よく、昼寝の邪魔をしないように、景色とサバオの両方を視界におさめ、満足していた。
 サバオの方も、頼子を受け入れてくれているような気がした。
 もちろん、多くの人間がそう思っていたのかもしれないけれど。
 帰る時だけ、「またね」と言った。

 先週も、そう言ったのに。サバオはちらりとこちらを見て、目を細めてくれたのに。明日か明後日あたりに、また行こうと思っていたのに。

「……世の中には猫に悪さをする悪人もいるから、ものすごく心配です」
 不安を口にすると、律はうーん、と首をかしげ、三枚目のパンを手に取る。
 今度はバターではなく、常温に練ったクリームチーズをのせている。もちろんあれもよくあう。
「サバオは大丈夫なはずですよ。普通に年をとって、どこかに隠れて死んだんだと思います」
 頼子は、はっとし、律がいつも持ち歩いている黒い書類カバンをみやった。
「もしかして、名簿にサバオの名前が?」
「いや、ないですね」
「だったら、死んでないかもしれないじゃないですか」
「サバオは人に飼われている猫じゃないですからねえ。毛皮を着替えには現れないでしょう」

 確かに。ここに現れる猫たちは、飼い主に恩返しをしたい者たちばかりだ。そして飼い主と猫、双方の気持ちが一致しないと、着替えて転生することはできない。
 また彼らは必ず、律が持って来る名簿に名前が載っている。律がどうやってその名簿を更新するのかは、まだ教えてもらっていない。

「まあ、僕も手が空いた時にサバオを捜してみますよ。どこかの家の軒下とか、藪の中で、静かに死んでいるかもしれないから」
 それは、とても寂しいことだ。頼子は、サバオが人知れず地面の上で朽ちてゆく姿を想像し、苦しくなってしまった。

 律は苦笑する。
「そんな顔しないでくださいよ。頼子さん。死っていうのは、生の一部なんですよ。本来は、生まれ変わるほど強い気持ちを持っている猫のほうが珍しいんですから。彼らの多くはただ生きて、死ぬだけです。他の多くの生命と同じように。寿命を迎え土に還るのは、幸いともいえる」
「……鳴宮さんって、本当に、猫に詳しいですよね」

「ああ。僕、昔、猫だったんですよ」

 頼子は真顔で、じっと律を見る。彼も真顔だったが、根負けした様子で、へらっと笑った。
「というのは冗談で」
「はい」
「このあたりには昔から、いわゆる地域猫が多かったものですから。必然、猫には詳しくなるんです」

 確かに地域猫は多い。近隣にある八幡神社は、昔、とある佐倉藩主の正妻が、可愛がっていた猫を弔うために建立したと聞いた。そのせいか、このあたりに住む人々は、地域猫をとても可愛がっている。猫に悪さをする人間がいるのも事実だが、それ以上に、温かな目で見守る住民が多いのだ。

「それじゃ、僕はこれで。新しい名簿は渡しましたし、どうぞよろしくお願いしますね」
「あー……、鳴宮さん」
 頼子は彼を呼び止めた。
「実は、お願いが」
「え、めずらしいですね。頼子さんがお願いだなんて」

 律は興味深そうに目を見張った。頼子は非常に気まずかったが、勇気を振り絞って一気に言う。
「オーブンを買い替えたいんです。ちょっと古くて、最近では火力が安定しないので」
 古民家には最新式の海外製掃除機やエアコン、食洗機やレンジ、トースターもあったが、オーブン機能はついておらず、パン作りには向いていなかった。そのため頼子は、自分が使っていたオーブンレンジを持ち込んだ。数少ない引越荷物のひとつだった。

「オーブンが? それは、大変ですね」
「はい。満月のあたりに壊れると一大事です」
「確かに。分かりました、好きなものを買ってください」
 頼子は拍子抜けした。
「え? いいんですか? オーブンって、けっこういい値段しますけど」
 しかも頼子が狙っているのは、過熱水蒸気オーブンだ。カンパーニュの表面がいい感じにパリパリに焼けるらしい。ネットで調べたところ、二十万近くもする。

「頼子さんはお金の心配はしなくていいんですよ。ああもちろん、ここの必要経費ならってことですけど」
「自分のためにも使わせてもらいますけど、そのあたりはどうしたら?」
「そこは厳密に分けなくていいです。今までもそうでしたしね。普通の飲食店を営むなら、保健所への届けが必要になってきますが、頼子さんの場合は違う」
 良かった。ここ最近の懸念事項が解決し、ほっと胸を撫で下ろす。
「購入されたら領収書取っといてください。すぐにお支払いしますので」

 律は爽やかな感じで言って、帰っていった。市役所も比較的近所にあるから、彼はいつも、スクーターで移動している。その音が遠ざかってから、頼子はエプロンを外し、外に出た。

 最初はゆっくりと歩いていたのだが、だんだん気が急いて、気づけば小走りになっていた。城址公園の東側からイチョウ並木を通って、茶屋と東屋があるあたりまで行く。
 そこに見慣れたサバトラの姿はなかった。色褪せた座布団だけが、主の帰りを待ちわびるようにぽつんと置かれたままになっている。

 サバオは、本当にいなくなってしまったのだ。

 

 

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