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権藤頼子はやさしい手をしている 第四話 猫を愛し、別れに苦しむすべての人への物語 

第四話 小次郎の着替え


 月がのぼった。見事な満月、中秋の名月だ。

 しかし用意するのは月見団子ではない。オーブンが焼き上がりを知らせ、トレーを中から引き出す。しばらくして、湿った足音が聞こえてきたと思ったら。裏庭に通じる戸の向こうから声がした。

「ごめんください」
「どちら様ですか?」
「田中小次郎です」
「どうぞ」

 からりと戸が開いて、影が忍び込み、眼の前に小次郎が立った。三日前と同じ装いだ。金魚柄のシャツ。頼子は気づいていた。有紗の部屋に同じ柄のクッションがあった。

「おお。今日も、ぱんですか」
「毎日パンですよ」
 漬物や、味噌ではない。もちろん冷蔵庫の中にはあるけれど。
 それでも小次郎はパンが気に入ったのか、今日は躊躇なく手を伸ばし、食べ始める。

「はむはむ。むー、今日のも美味しいですね。なんですかこれは」
「リュスティックといいます。先日のものとは、材料が違います」

 リュスティックに使うのは強力粉ではなく、準強力粉。こちらは国産ではなく、フランス産のものが使いやすい。ライ麦粉を一割ほど加えるのが、頼子のレシピだ。成形は丸ではなく、スケッパーで三角になるように切り分ける。クープと呼ばれる切れ目を入れ、そこに細長く切ったバターを載せて焼き上げる。

 フランスパンとバターロールのいいとこどりをしたような、味わい深いパンなのだ。

 ひとつを食べ終えた小太郎は、そわそわした様子で頼子を見た。

「それで、どうでしたか。有紗は」
「健やかにお過ごしでした」
 頼子は見たままを伝える。ここで気を使うのは、違う。
「彼女、今はもう十六歳ですよ」
「えっ」
 これには小太郎も驚いた様子だ。
「じゅ、十六? ええ、二十年も時が経って……」
 どういう計算だ。
「二年ですね。あなたが家の前の道路で車に轢かれて死んでから、二年」
「二年……そんなに」
「まあ二十年よりはいいですよ」
 小次郎は呆然としたまま、二つ目のリュスティックに手をのばす。食べるのか。

「二年も、僕はいったいなにをしていたんでしょう。もっと早くここに来るべきだった」
「……早い方ですよ」
 なにしろ、頼子が待っている子は、いっこうにやってこない。

 もう五年も経つというのに。

 いや……そもそも、毛皮を着替える機会が得られる子は、それほど多くはないのだ。神さまという存在がいるとして、彼がどのような基準で個体を選んでいるのかわからない。

「それでですね、有紗さんは元気です」
「本当ですか」
「綺麗でしたよ。美人さんです」
「そうでしょう、そうでしょう。いい匂いもしましたか」
「……匂いまではちょっと。まあ、でも、とにかく人生を謳歌しているようです。学校にも通っていて」
「学校に!」
「友達もできて。わたしが訪ねた日は、そのお友達と遊びに行く予定だったみたいです」
「そうなんだ。わあ、そうなんだあ、有紗。うふふ」

 小次郎は嬉しそうだ。
 彼らはいつもそうだ。もと飼い主の幸福を、我がことのように喜ぶ。
 そして頼子は、そんな彼らに言わなければならない。

「幸福そうでした。あなたがいなくても」

 小次郎は大きく目を見張った。ああ、なんて綺麗な金色だろう。人間の姿をして、髪はどこかのくたびれたサラリーマンのようにぺったりしていても、瞳だけは美しい金色のまま。

「寂しがっていませんでしたか」
「寂しくないですかって聞いたら、はいと答えました」
「そうですかあ……」

 小次郎は三個目のパンは取らなかった。ただ、静かにうつむいている。
「それで。どうしますか。毛皮、着替えますか」
 それとも。
「……あちらの戸から、お帰りになりますか」
 裏庭に通じる戸から。

「僕が決めてもいいんですか? 確か、これは審査で、着替えを許可できない場合があるって」
「先方が、明らかに新たに猫を飼う状況にない時には、問答無用で。でも、今回は、小次郎さん次第でもあるかなと」
 なにしろ彼らが着替えるのは、彼ら自身の恩返しのためだ。この恩返しの定義は、個体によって異なる。

「ゴクドウさん」
「権藤です」
「ゴンちゃん」
 もうなんでもいいや。
「はい」
「有紗、こんな笑顔で、寂しくないって言いませんでしたか」
 小次郎は、鼻の頭に皺を寄せて、顔をくしゃりとさせた。頼子は驚いた。
「ああ、たしかに。似てます、その顔」
「やっぱり」
「やっぱり?」

「有紗、我慢強い子なんです。でも我慢して笑う時、こんな顔をするんです。あなたが見た通り、有紗は今、幸せなんでしょう。僕がいなくたって、ちゃんと立派に、前に歩きだしているんでしょう。でももともと、頑張りすぎるし、寂しがり屋なんです。あなた言ったじゃないですか。パンは寂しがり屋だって」
 話のつながりが謎だが、なんとなく言わんとすることはわかる。
「まあ、寂しがり屋なのはパンじゃなくて、酵母なんですけど。それで?」
「知ってますか? 一年って、三六五日もあるんですよ」
「……ええ、知っています」

「三六五日のうち、一日くらいは、ああ寂しいなあ、辛いなあって、思う日があるかもしれない。ないかもしれないけど、あるかもしれない。僕のお腹に顔をうずめたり、耳の後ろあたりのにおいをしつこく嗅ぎたくなるかもしれない。ねえ、ゴンちゃん。酵母が、たったいちにち、寂しさをどうしようもできなくなったら、どうなりますか」

 頼子は考えた。

「その酵母、だめになるかもしれませんね。パンは焼けるかもしれないけど、膨らみが悪くなるかも」
「ほらね、だから、そういうことです」
「どういうことですって?」

 小次郎はじっと頼子を見た。瞬きもせず。神々しささえ、感じさせる、宝石のような眼差しで。

「たとえ一日でも。有紗が寂しいと感じるかもしれない日のために。僕、毛皮を着替えますよ」

 頼子はごくん、と唾を飲み込んだ。そういうことならば、頼子が言うべき言葉は決まっている。

「たとえ生まれ変わっても。先方は、あなたが小次郎さんだとわからないかもしれないです。むしろ、まったく別の猫として見る可能性が高い」
 なにしろ、毛皮を着替えるのだから。同じ柄に生まれ変わることはできないと、決まっているのだから。
「大丈夫です。だって有紗は変わらないもの」

 うふふ、と嬉しそうに笑う小次郎。頼子はその笑みにつられて、微かに口元を緩ませた。両手をぎゅっと胸の前で組み、息を吸って、吐いてから―――。

「分かりました。田中小次郎さん。あなたの着替えを、許可いたします」

 その瞬間。部屋に淡い光が満ちた。
 朝の光とも、昼の光とも違う。
 満月の、清らかで静かな、それでいて強烈な光が。

 眩しくて、とても目を開けてはいられない。頼子は目を閉じ、そして聞く。からりと、戸が開く音を。歩み去る足音を。少しして再び目を開けると、光は消え失せていた。

 小次郎の姿も消えている。

 戸は、開いたままだ。西側の裏庭ではなく、東に面した表玄関の方の戸だ。ふらりと立ち上がり、外に出てみる。
 月の光が散らばって、静寂の中、さやさやと葉擦れの音だけが響いている。

 着替えの結果を確認するのは、頼子の仕事の範疇ではない。それでも頼子は、毎度、確認せずにはいられなかった。

 翌、早朝。軽トラックで国道を走り、ユーカリが丘駅から西に、住宅街の方角へ。今度は家の前に車をつけるわけにはいかない。用向きを訊ねられたら、先日と違って調査員の免罪符は効かない。そのため、近隣のコインパーキングに停めて、徒歩で移動する。服装は上下ジャージ姿。首にタオルを巻き、いかにもウォーキング中の女の演出をする。

 住宅街は朝の気配に満ちている。食器が擦れ合う音や、元気に「行ってきます」と叫ぶ子どもの声。ゴミ出しついでに井戸端会議をする女性たち。犬の散歩をする老人や、登校する小学生たち。さてどうしたものか、と考えながら、田中家に向かって歩いていると。

「ぴぎぃー」

 独特な、細く高い声がして、振り返った。

「あ」

 そこにいたのは、田中有紗の弟だ。登校途中だったのか、ランドセルを背負っていて、両手のひらで何かを大事そうに持っている。
 少年は、頼子と目が合うと、少し不可解そうに首をかしげた。もちろん、彼は頼子のことは憶えていないはず。

「どうしたの」
 ごく自然に話しかけると、彼は両手を頼子の方に差し出した。
「……学校行こうとしたら。この先のゴミ捨て場で、こいつ見つけて」

 手の中で小さな生き物がもにょもにょと動いている。ぴぎぃー、ぴぎぃー、と必死に鳴いている。

 子猫だ。

 生まれたて。目も開いていない。ぽこんと膨らんだ腹に、へその緒がついている。
「ゴミ袋に、詰められてて」
「よく気づいたね」
「声がでかいから。それに」

 少年は、少し気まずそうな顔をした。

「……前にうちにいた猫も、ゴミ袋から救出したって、お姉ちゃんが言ってたから。だから俺も、ゴミ置き場の前通るときは、気にするようにしてて」

 それは、かなり確率の低い話だ。それでも、彼はそうしたのだ。意識したのだ。
 おそらくは、その小さな胸に抱え続けていた大きな罪悪感のために。

「その猫、どうするの」
「わかんない」

 と、彼は呟いた。

「連れて帰って、お姉ちゃんに見せる。そんで、できればうちで飼いたい」
「反対されない?」
「されないと思う。みんな……パパもママも、猫好きだし」

 猫は飼いたくないと、反対した有紗の両親は、どうやら考えが変わったらしい。よく聞く話だ。猫は一度でも飼うと、その魅力の虜になってしまう。

 彼らは人間の心の奥の奥まで侵食し、当たり前の顔をして居座り、眼差しひとつで言うことをきかせ、愛を欲しいままにする。

 それでも少年が一抹の不安を口にするのは、肝心の姉が、有紗が、この子を受け入れるかどうか、ということだろう。

「大丈夫だよ、きっと」
「そうかな」
「うん」

 頼子は、少年の手の中の子猫を見つめる。
 茶トラではない。
 黒と白の、ハチワレだ。
 それでも頼子には、すぐに分かった。

 おめでとう―――小次郎。

 子猫特有の生命力と、破壊的な可愛らしさを有している。その愛おしさを知っている人間は、決して退けることはできない。

 頼子は田中家に行くのをやめて、少年と別れた。

 田中小次郎の着替えは、このようにして、無事に終了した。



※この物語はフィクションです。猫にパンその他人間の食べ物を不用意に与えてはなりません。塩分、糖分、アレルギー物質により健康被害、命の危険があります。そのため作中ではパンを食べるのは人間の姿の時のみとしています。

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